古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

下田西宮神社

2018-02-13 21:23:37 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年十月廿七日

一、南郷布田手永下田村氏神雨宮大明神え風霜留めの立願結び置き候に付願解きとして御国の人形廻しを雇い右社内において一日軽く願解き仕り度由 御惣庄屋布田九左衛門書付 御郡奉行衆より相達せられ候に付 例書相添え 御家老中へ相達し願いの如く仰せ付けられ候事

 この神社は「下野の巻狩り」を取り仕切っていた社として名高い。巻狩りと言えば源頼朝が富士の裾野で行ったのが有名であるが、それを実施するに当たって頼朝は古代から巻狩りを行っている阿蘇大宮司家へ梶原景時を派遣してその作法等を学ばせた。阿蘇家側の応対者はこの神社の宮司であったので、梶原はここで手ほどきを受けたことであろう。

 それは鎌倉時代のことで江戸時代になると巻狩りなどは行われなくなり、ここも五穀豊穣を祈願する普通の神社になって、秋祭りには上記のような催事が行われた。


宇土郡網田若宮神社

2018-02-13 11:21:54 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年九月廿五日

宇土郡網田村若宮祭礼九月廿九日にて候 前々より宮下の氏子共笹踊り仕来り候に付て当年も旧例の通り笹踊りにて神事相勤め度き由 御惣庄屋書付御郡奉行衆より差し出され申され候に付 例書相添え御家老中へ相達し願いの如く仰せ付けられ候事

 これは解説を要しない平明な文章です。「前々より宮下の氏子ども笹踊り仕り来たり候」という表記のうちに、年に一度のお祭りを村人たちがどれほど楽しみに待っていたか分かります。これを中止することなど藩主といえども出来なかったようです。


豊野神社(小熊野神社)の祭礼

2018-02-13 09:52:22 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年九月廿五日

一、下益城中山手永長岡図書殿知行所下郷村水少なき所柄にて古田並びに加成田共に水不足仕り候に付 例年御給人方より所の氏神小熊野郷上郷村妙見社え水不足不仕様に立願を結び 願解きの儀は御鬮(くじ)次第に仕り候様にとの儀に付当年は踊りの御鬮下り候間御国内の春駒を雇い願解きの踊り仕度由御惣庄屋中山孫左衛門書付相達され候に付例書相添え御家老中相達され願いの如く仰せ付けられ候事

 今では豊野神社と呼ばれていますが、藩政期は「妙見社」と称していたことがこの文書で分かります。また、長岡図書というのは細川家御一門の刑部家のことで小熊野郷は同家の知行所であったことも分かります。この辺りは水不足勝ちであったとあり、なるほど小熊野川一筋ではさもあろうかと思われます。同川は浜戸川の支流で川というより沢というべき細流です。さて、秋祭りの催事を何にするか、それを鬮で決めるところが他に見られぬ面白いところ。この年は踊りに決し「春駒」廻しを雇うことになりましたが、他にどんな選択肢があつたのか「芝居」、「神楽」、「相撲」等思いつきますが本当のところは分かりません。また「春駒回し」というのは正月の門付け芸とも思われ、専門の芸人が合志郡竹迫村に居たことはわかっていますが、芸能の中身は伝わっていません。

 


大名間の水夫の貸し借り 人吉藩より申し入れ

2018-02-07 22:27:30 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年九月十三日

一、相良遠江守様御手船今月十六日大坂え指し登せられ候に付八代郡植柳村のもの共五人水夫に御雇い成られ度由球磨小屋在番衆より高田理右衛門へ申来たり候間差し上せ当十二月中に罷り下り申す筈に候 理右衛門五人之もの共邪宗門転び類族にも之れ無く候差し登せられ下され候様にと理右衛門書付御郡奉行衆より相達され候に付御家老中へ相達し願いの如く埒明き候事 御奉行方逗留中念を入れ候様に堅く申し聞かせ遣はされ候様にと沙汰しめ候事 

 これは隣国人吉藩から水夫を5人ばかり操船のために雇いたいという依頼文書である。大名間のこのような人員の貸し借りは広く行われていたようである。大坂へ船を出すというのは米の輸送と考えてよいであろう。

※高田理右衛門というのは八代郡高田手永の御惣庄屋である。決裁の流れは「御惣庄屋」→「郡奉行衆」→「郡方」→「家老」

 


年貢を現物でなく米銀で納める 木綿について

2018-01-16 14:58:33 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年十一月十三日

一、木綿百六拾三貫四百目    高田手永

一、同三十壱貫五百目        野津手永

一、同拾三貫弐百目       種山手永

  右ハ御蔵納

一、同拾九貫弐拾四匁       種山手永

一、同弐拾弐貫六百目       野津手永

  右ハ御給知方

 右は八代郡御蔵納め御給知村々木綿注進前 右の通り百姓共種子綿に仕度き旨願い奉り候間例年の通り米銀のままにて上納仰せ付けられ下され候様にと御惣庄屋共御断りの書付 御郡奉行衆より差し出され候に付御勘定方へ申し談じ願いの通り沙汰しめ候事

 上記はなかなか興味深い古文書である。上3項目は蔵納め、下2項目は給知方納めと納める先が違っている。蔵納めというのは藩庫に納めること、給知方というのは藩から領地を給されている家臣のこと。4公6民という税率はどちらも変わらないので農民からすればどうでもよい事である。

 さて、米銀で納めるというのは現物でなく現金で納めるということである。その現金は銀や銭の貨幣ではなく藩札で納めること。例えば高田手永の場合で言えば163貫400目を藩札で納めよということであり、その額は銭163貫400目ということになる。この銭163貫400目というのは銭16万3千400文のことかというと、そうではないのでややこしい。ではこの163貫400目というのは銭で言えば何文なのか換算式を説明しよう。

 まず藩札というのは藩が発行している紙幣だから熊本城内にある御銀所へ持って行くとその時のレートで銭と交換してくれる。享保4年頃のレートは1匁24文であったから、換算式は次のようになる。

163400匁×24/70=56022.857 文となる。

この額は金目では約14両、銀目で表せば約840匁となる。

註 熊本藩藩札の公式レートは銭1匁70文であったから、このレートで計算すると馬鹿デカイ数値が導き出される。藩の文書には公式レートで記載されているので注意が必要である。


無高百姓救済 仮橋番人

2018-01-16 11:08:21 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年十月十日

一、玉名郡小田手永向津留村無高百姓仁左衛門、太左衛門と申す者、渡世成り難く候に付同村の内船渡場に毎歳軽く仮橋を懸け往来の者共より一銭宛もらい渡世仕来たり候 当年も例年の通り願い奉るについて村庄屋 頭百姓共連判の書付 御群奉行衆より差し出し申され候につき 例書相添へ御家老中へ相達し願いの如く仰せ付けられ候事

 無高百姓というのは耕作田を持たない百姓のことで農村にいる貧民のこと。かねては日雇いなどで生計を立てているが、冬場になると農作業などの仕事が減少するので橋の番人にして収入を得さしめ救済しようというのである。前にも薄場渡しの仮橋のことをアップしたが、これも同様のことである。


下益城塚原村小木大明神 笹踊り

2018-01-12 22:44:51 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年九月四日

一、下益城塚原村小木大明神之祭礼 九月九日にて候 前々より宮下の氏子共神前に於いて笹踊り仕 神事勤め来たり候 当年も旧例之如く軽ク笹踊りにて神事相勤め度由 御惣庄屋廻江彦左衛門書付御郡奉行衆より相達せられ候に付例書相添へ御家老中へ相達し願いの如く仰せ付けられ候事

 塚原村というのは塚原古墳群で知られる所で、現在は熊本市と合併して所在の名称は熊本市城南町塚原である。塚原の小字に小木という集落がありそこに小木大明神はある。現在の社名は小木阿蘇神社。上記古文書は御郡方役人の起案による紋切型の文章であるのだが一カ所だけ単調を破る修飾語がある。「当年も旧例の如く軽ク笹踊りにて・・」という箇所の「軽ク」である。公文書に似つかわしくない主観語でよくも見過ごされたものだと思うのだがこの欠点があるために後世の者には却って面白い。


六殿社 流鏑馬神事

2018-01-12 15:33:27 | 享保年間の熊本藩古文書

写真は六殿社ホームページより転載させていただきました。

享保四年九月四日

一、下益城守富庄木原村六殿大明神之祭礼九月九日にて候 前々より流鏑馬にて神事相勤め候 然る処宝永七年より当日一日 操仕神事相勤め候に付当年も旧例の如く神事相勤め申し度吉 杦嶋次左衛門 廻江彦右衛門書付御郡奉行衆より相達され候に付例書相添え御家老中へ相達願いの如く仰せ付けられ候事

 ここの流鏑馬神事は現在も行われている。毎年10月、第2日曜あたりに設定されている。住民参加型の笹踊り神事は廃れてしまっているのに、何故この神事が現代に受け継がれているのであろうか。


小一領神社 笹踊り

2018-01-11 09:35:51 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年九月二日

一、上益城矢部浜町小一領大明神祭礼九月九日にて候 前々より宮下の氏子共笹踊りにて神事相勤め来たり候 当年も例年の如く右の踊りにて神事相勤め申し度由 御惣庄屋矢部次兵衛書付 御郡奉行衆より差し出し申され候に付 例書相添へ御家老中へ相達し願いの如く仰せ付けられ候事

 ここも甲佐神社と同じく笹踊りである。催事は恐らく創建当初からのもので永い社史を背負って進化している筈だから甲佐神社の踊りとは自ずから違っていたであろうが、残念ながらそれを確認する術はない。

 小一領という社名は小さな鎧一具という意味で阿蘇大宮司惟豊の長氏千寿丸(後の惟将)の初陣に当ってその武運を祈って奉納された小具足一領に因むものである。その戦とは、天文5年(1536)御船城主本郷安房守房行が島津になびき阿蘇家に叛いたので、惟豊は長子・千寿丸(当時17歳)を大将にして、甲斐宗運を補佐につけて御船城征伐の戦をしかけ快勝した合戦をいう。


甲佐神社の祭礼 笹踊り

2018-01-10 19:12:08 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年九月二日

一、上益城甲佐三宮大明神祭礼九月九日にて候、前々より宮下の氏子共、笹踊り仕り来たり候、当年も例年の通り笹踊りにて神事相勤め申度由、御惣庄屋書付御郡奉行衆より差し出し申され候に付き例書相添え御家老中へ相達し願いの如く仰せ付けられ候事

 これは甲佐神社のことである。ここは例年笹踊りをもって祭礼を執行しているので、今年もそのようにしたいと言うのである。「笹踊り」がどういう踊りなのか、町の古老に聞いても、そういうものが嘗て存在したという記憶はあるものの踊れる人は1人もいない。

 これは私の想像だが、笹踊りというくらいだから笹を手に持って神楽の舞のように踊る住民参加型の踊りではないだろうか。


鉄砲玉薬の下げ渡し 南郷野尻手永

2018-01-09 17:35:16 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年九月四日

一、南郷野尻手永山付きの村々、猪、鹿大分出、作毛荒れ候に付き、鉄砲の薬、弐貫五百八拾目拝領なされ下され候はば、猟師共へ相渡し打たせ申度由、御御惣庄屋、野尻清右衛門書付御郡奉行衆より差し出し申され候に付き、御家老中へ相達し願いの通り拝領なられ候に付き、則其の段右御郡奉行衆へ此の方より申し遣わし候事 

 鉄砲の玉薬は藩が管理していたようである。現代でも銃は警察の許可のもと、弾薬の数量は厳重な管理下にある。野尻手永は高森峠の向こう側草壁村あたりが手永の中心地。日向、豊後と国境を接する山間地で、猪、鹿の生息地でもある。その猪、鹿も増え過ぎると駆除されるのは現在も同じだが、現代社会は山間地人口の減少と高齢化により駆除がままならないという問題を抱えている。


薄場渡に仮橋を架ける

2018-01-09 16:06:51 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年九月六日

一、白川筋薄場渡に例年の如く仮橋を懸け、往来の者共より壱銭宛取り申し度由飽田郡嶋新村御百姓共願い奉る通り村庄屋書付郡奉行衆より差し出され候に付き、例書相添え御家老中へ相達し願いの如く仰せ付けられ候事

 田崎方面から川尻へ行く際、薄場橋を渡るコースが最短である。長六橋コースは東へ大きく膨らむので遠くなる。そのために仮橋が懸けられたのであろう。通行料金が1文というのは安い。普段の渡し船ではそんな安値にはできなかったであろう。


享保の頃 熊本藩の銭遣い

2017-12-24 19:53:41 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年十月廿二日 

小国表銭遣之儀 日田郡之並を請 弐拾六文遣に通用せしめ候処に頃日は彼方も弐拾四文遣に成り候につきその通り 通用仕り度由 宮原町別当書付御郡奉行衆より相達され候につき その通り 取沙汰屹度候ようにと申し遣し候事

 

享保四年十一月十二日

 

一 久住銭遣之儀御近領之並を請只今迄壱匁ニ弐拾六文之通用にて候処 近き比御近領も弐拾四文遣ニ相成り候につき其通り通用仕度由 久住尉助書付 御郡奉行衆より相達されにつき久住表の儀は御近領の並を受け申す事に候間 例之通り沙汰仕られ候よう申し出られ候事

 

 上記2文書は藩札の事を言っているので藩札が分からないと、なんの事やら分からなくなります。熊本藩の藩札は原則領内でしか通用しないはずですが、実際には近領の日田、竹田あたりでも通用していたことがこの古文書から分かります。

 藩札にも銭との交換レートがあり、上記宮原町別当及び久住尉助(御惣庄屋)の伺いはこれまで1匁26文だったものが今回24文に値下がりしたのでそのように運用したいが、それで良いかというもの、家老の決裁はそれを追認するものです。熊本藩の藩札の名目レートは1匁70文ですから24文とは随分と下落したものですが、これは藩当局の増刷に次ぐ増刷の結果です。また藩札は独特の単位を持っていて「銭〇匁」と表記していました。「匁」というのは銀の単位で銭の単位ではないのに、銭〇匁という呼び方で銀と銭を結びつけたのです。

 これは「銭匁勘定」と言って金銀銅3貨制の外にあって、これを遣って決済することを「銭遣い」と称しました。


霜宮神社・内牧天神の祭礼

2017-12-23 21:43:54 | 享保年間の熊本藩古文書

霜神社。ここは火焚き神事で有名です。

内牧天神社

享保四年九月廿一日

 一 阿蘇谷内牧手永村々の者共霜宮並びに内牧天神社へ風霜留之立願結び置き候に付 願解き之為鶴崎に居り候手すし廻しを雇い右神社内一日宛願解仕り度き由 御惣庄屋内牧弥右衛門書付 御郡奉行衆より仰付けられ候に付 例書相添へ御家老中へ相達し願いの如く仰せ付けられ候事

 此の文書で目を引くのは鶴崎から手すし廻しを雇っていることです。手すし廻しは手品師のことで、これも大西村傀儡師一座の者と思われます。この地域では人形浄瑠璃よりも手品に人気があったのでしょうか。或いは浄瑠璃の上演は多人数の興行になるので木戸銭が高くなるという事情があったのかもしれないですね。いずれにしても稲刈りが済んで次第に深まる秋の一日、手品見物を楽しむ人々の晴れやかな表情が想像されます。


家老決裁

2017-12-23 12:41:30 | 享保年間の熊本藩古文書

 上掲文書は享保四年九月廿一日付の細川家の家老決裁文書ですが、上掲画像のような体裁でした。上記文書は写本なので印形がありませんが正本にはハンコも押してあるのでしょう。

 御郡方の役人が決裁を仰ぐための文書(覚書)を家老屋敷へ持参して決裁を受けます。

 壱岐様というのは米田壱岐、大膳様は有吉大膳、求馬様は松井求馬、元禄15年から享保20年まで家老職、蔵人様は溝口蔵人。