古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

荒瀨の眼鏡橋  明治33年(1900)の洪水で流失  

2018-12-30 16:32:43 | 熊本の偉人

 徳富蘆花は大正12年(1923)に伯母竹崎順子の伝記を書いています。書名はその物ずばり「竹崎順子」なのですが、竹崎順子は矢嶋四賢婦人の一人として熊本では有名な女性です。
 その竹崎順子が生まれた上益城郡津森村杉堂の木山川にこの橋はありました。架橋地点は荒瀨と字名が付いているとおりの急流で木橋を架けても直ぐに流されてしまうので洪水に強い橋がほしいというのが村人たちの永年の念願でした。庄屋の矢嶋彌平次が私費を投じてここに眼鏡橋を築造したのは文政2年(1819)で、順子が生まれる6年前のことでした。

 
県道28号線は熊本市~高森町を結ぶ幹線道路。


この地点に文政2年~明治33年の81年間眼鏡橋が架かっていました。


下流を見る。すぐ下に布田川との合流点がある。この橋が橋体を丹で塗りたてられた眼鏡橋だったのです。


下流から上流を見る。急勾配であることが写真でも分かりますが、この奥はさらにきつい勾配で急流というよりは緩やかな瀧と言った方がぴったりします。

矢島氏建橋于急流郷人皆悦之余来此地観之栽詩贈焉
(矢嶋氏急流に橋ヲ建テル郷人皆之ヲ悦ぶ。余此地ニ来タリテ之ヲ観ル詩ヲ栽シテ贈ル)

林巒対鬱葱  渓路転西東  (林巒対して鬱葱 渓路西東に転ず)
直訝瞿塘口  兼疑巫峡中  (直ちに訝る瞿塘口兼た疑う巫峡中)
橋成裊碧水  岸断掛丹紅    (橋為って碧水裊たり岸断(たえ)て丹紅を掛く)
屡掲扶漁客 泳游助牧童  (屡掲ぐる漁客を扶け泳游牧童を助く)
鄭郷余豈用 元凱力還同  (鄭郷余あにもちいんや 元凱力また同じ)
本為斯民建  興仁在徳風  (もとこの民の為ニ建つ仁を興す徳風在り)

上は当時上陣に住んでいた儒者、朝来先生こと嵯峨直方が眼鏡橋を観て感動のあまり作った詩ですが、この詩の中に眼鏡橋が彷彿とします。

 瞿塘口(くとうこう)、巫峡中(ふきょうちゅう)・・・西陵峡(せいりょうきょう)を合わせて中国長江三峡という。李白に白帝城という詩がありますが、この景勝の三峡を軽舟で下った時に作った詩です。こういう詩を当時の知識人は読んでいたのですね。
 丹紅を掛く・・・眼鏡橋は丹で塗られていました。この橋は建設中から近隣の評判を呼び見学者が絶えなかったと言われています。それは藩侯の耳にも入り、彌平次は架橋の功績で一領一匹に取り立てられ正式に熊本藩の武士となります。

 この彌平次の嗣子が忠左衛門直明でその子供たちに順子などの四賢婦人がいます。


鶴亀句会 12月例会 2018-12-21

2018-12-21 13:39:13 | 鶴亀句会

会日時   2018-12-21  10時

句会場        パレア9F 鶴屋東館

出席人数   7人  

指導者    山澄陽子先生(ホトトギス同人)

出句要領  5句投句 5句選   兼 題  千鳥

近田綾子 096-352-6664 出席希望の方は左

次 会   1月18日(金)10時パレア9F 兼題  恵方

山澄陽子選

何事もなきしあわせよ十二月     綾子

烏去り鳩の来てゐる冬木かな     武敬

白菜の重きが嬉し抱いてみる     礁舎

枯葉舞ふ風の吹くまま為すままに   安月子

真向ひの普賢厳しき千鳥舞ふ     興

幸福の在処しみじみ庭黄葉      小夜子

先生の句

足跡の千鳥の砂州の美しき     陽子

翻る千鳥の白く又黒く       〃

海彦の白波立つる冬の海      〃


竹崎順子

2018-12-18 13:56:24 | 熊本の偉人

 玉名市横島町にある竹崎順子の住居跡をネットで検索したけれど、それを取り上げているサイトが見当たらない。訪ねたいと思っている人もある筈だからその案内も兼ねて、ここにささやかな記事を掲載します。


九番開干拓地。この辺りに竹崎家の住居があった。


標識の拡大写真


九番開周辺地図。上方にある天水町竹崎は律次郎の養家。

「横島郷土志」昭和54年復刻版(初版昭和24年)より抜粋

竹崎氏の九番開移住
 安政六年、九番開の築造が完成するや、其翌年、則ち萬延元年(1860)冬、竹崎律次郎、同順子の一家が此の九番新地に移住し来たり農業を営むことに為った。此事は徳富健次郎著「竹崎順子」伝に詳細の記述を見る。竹崎一家が文久元年より明治三年まで十年間、横島九番開に於ける農耕生活を物語り、明治維新前後に於ける横島の半面を伝える好資料である。其詳細の事は同書に譲り、之を要約して竹崎一家当年の生活を略述するであろう。

 抑も此の竹崎家は世々伊倉・茱萸坂下の豪家として知られ、彼の元寇の役に勇戦した竹崎季長の後裔であった。また寛政年間小田郷惣庄屋であった竹崎太郎兵衛政春もその系統であり、下りて竹崎次郎八英貞の時代、其嗣子幼弱に依り、同じ伊倉の名家木下家の次男当時十八歳の律次郎を養子に迎えた。之れ天保元年であた。此の律次郎は天保十一年、矢島順子を娶った。則ち竹崎順子である。律次郎は其後客気に任せ豪家に通例と為っている酒造業を始め、また米相場に手を出して失敗するに至り、竹崎家は破産同様となった。律次郎等は阿蘇南郷谷の奥に隠遁生活を続くること十七年、萬延元年に至り、律次郎の実兄、木下真太郎が新たに築造された九番開に投資した関係から、弟の律次郎に土地の監督を依頼した結果、律次郎夫婦は一女節子を伴ふて山を下り九番開に移住した。時は文久元年であり、律次郎は四十九歳、順子は三十九歳であった。「竹崎順子」の一節に

 「最初兄の田地を世話する傍ら少々の田地を求めて自作もしていました。年々いくらかづつ買ひまして居ました。ある年横島の堤防が切れました。大潮の荒し去った後の新地は台なしです。律次郎は捨て値でそれを買ひ取りました。一方全速力をもつて堤の修復にかかりました。ただのやうにして買ひ取った新地はもう其の秋から幾分かの収穫を上げました。矢島も其處に田地を買ひます。木下の分、外の別墾の人々の分、合わせて律次郎、順子の手に世話する横島九番開の新地は約四十町に亘りました。竹崎家には大勢の男女を使ひます。小作の家族が相次いで横島に移住して来ます。律次郎、順子を中心として横島の新植民地王国が産まれました。」

 とあり、此のように文久元年、竹崎一家は阿蘇の山奥から築造間もない九番開に移住したのであった。しかも竹崎氏は二十人あまりの奉公人を使って、米、甘藷などを耕作し、小作人として移住するものができて四五年の後には二十余戸の小村となった。此の九番開は文久三年に大風のため堤防が決潰した。律次郎が「土地を捨て値で買ひ取った」というのはこの時のことである。竹崎家は移住民対して田地は勿論のこと、農具、肥料代まで貸与し農事に出精するよう便宜を謀った。一方移住民の子弟に対し教育機関の設備を欠くために之を遺憾とし、自家の一隅に手習い所を開いて八歳から十二、三歳の子供を集めて読み書きを教え、また娘達に縫い物を教えて指導し、或いは医薬を施して病者の治療に勉めるなど村民の福利増進に力を致し、其業は大いに賑ふた。

 斯くて幕末の風雲急を告げ、多事多端となるや、律次郎も始終外出勝となり、横島に安居する日が少なくなった。斯くて明治維新の新政が展開するに於いて、竹崎一家も亦横島生活十年の幕を閉ぢねばならなくなつた。則ち明治三年、竹崎一家は横島から熊本へ転居するに至った。「竹崎順子」の一節に、肥後の維新は明治三年に来ました。横井小楠が、かねて渇望し遠ながら誘掖して置いた細川護久が家督を相続し、熊本藩知事となり、横井死後満一年で横井の時代が肥後に来ました。則ち友人門人が続々と登用されます。竹崎律次郎も横島から召し出され、一人見参の出来ると言う「独礼」格で藩庁録事と云う役になりました。後民政局の少属より大属となり、一人扶持の加増を受けました。そこで横島は熊太、節子の若夫婦に任せて律次郎は順子と取りあえず熊本に引き出ました。

 此のように竹崎律次郎一家が九番開の居住は役十年間を以て終わった。其後は養子の吉勝(熊太の改名)節子夫婦によって経営され、明治六年頃まで稲作及び砂糖を製造していた。やがて養子夫婦も又九番開から熊本に転居し、竹崎家と横島とは完全に縁が切れた。竹崎氏の家は外平の旧家服部運太が買い受け移転し農業を営むことになった。このような関係で九番開の総反別五十六町余の中、其四分の一は近年まで伊倉木下家一族の手に所有されていた事実あり、之れ竹崎一家移住の名残りである。竹崎一家が九番開築造の翌年に移住し来たり、草創時代の十年間を暮らした此九番開も明治十一年には已に戸数四十戸、人口二百二十二人に達していた。

 

 


 


大木土佐

2018-12-07 13:38:52 | 大木土佐

 上記は柿原家に伝わる古文書で大木土佐の事跡については殆ど唯一の古文書である。柿原家に連絡が取れず全文を載せられないので翻刻版を掲載した。


一勢州長嶋之城に一向宗一揆を発し信長公ニ
  敵対申籠城仕候刻土佐殿代々一向宗之門
 徒ニて御座候故長嶋に籠城被致候信長公大
 軍にて御攻候へ共落城不仕剰氏家卜全
 なとと申信長公御秘蔵之侍大将討死仕候
 其翌年信長公又大人数にて御取懸被成
 此度は扱ひを進於明渡申は城中
  之者共不残一命を御助可被成候間早々明渡し

  申様ニとの御意ニ候城中にも長く籠城し
 士卒草臥申候故任御意可申と御請申上
 段々罷出候處ニ信長公兼而よりの御謀にて
 堤之陰に鉄砲を御ふせ置城より人数過半
 罷出候時分ニ1度に鉄砲を放懸尽く御討殺
 ニ成候其時節城に残り候者弐百人斗在之候
 此者共信長にたばかられ申段を大キにいき
 とふり弐百人之者共一同に心を合せ皆々

 3
 甲冑をぬぎすはだニ罷成信長公御一門方
  之備へ無二無三について懸り信長公の御
 舎兄津田大隅守殿をはじめ歴々之御一門
 十余人討取其外能侍数多討取申候土佐殿
 弐百人之内ニてすぐれて御かせぎ能敵弐人
 御討取被成候弐百人斗之者も過半討死いたし
 其場を切ぬけ申者僅四五十人在之其刻
 土佐殿御年廿五六歳と承及候事

一 長嶋之後土佐殿御浪人にて御入候処佐々陸奥
 守殿信長公より越中国御拝領之刻土佐殿
 長嶋にて之武功を御聞及被成知行三千石ニ而
 御呼被成其後陸奥守殿肥後江後入部之刻
 も御供にて御越候事
一 陸奥守殿御家ニ而加賀越中之合戦其外
 肥後之国ニて一揆蜂起仕候刻土佐殿度々の
 高名在之由承及候へとも其場所之様子委             
 5
 細之儀は不存候事
一 陸奥守殿御身上相果申候已後秀吉公より
 加藤主計頭殿小西摂津守殿両人に肥後之国を
 被仰付候砌陸奥守殿家来ニて名ある武士をハ
 秀吉公より後書立被成御朱印にて主計頭殿
  
摂津守殿両人に後付被成候土佐殿も御墨付
 之内ニて主計頭殿へ御出先知無相違御取
 候事
 6
 一 文禄元年高麗初入之刻主計頭殿おらん
  かいへ御働おらんかいの内裏へ御取懸被成候刻
  おらんかい人大勢ニて罷出半弓を射かけ
  手しげく防申候刻土佐殿一番に鑓を御入
  刻其日之一番鑓ニて御座候事
一 かくなみ人十万ニて罷出候時節主計頭殿一手
 にて御追拂被成候此時も土佐殿一番に鑓を
 御打込候事 
7
 高麗にて主計頭殿よりはつかいと申城に
 土佐殿を城代として人数五百御預ケ被成候事
一 高麗より中帰朝之刻主計頭殿事人の
 讒言により秀吉公御前悪敷伏見ニて閉門
 被仰付候処其時節大地震ゆり申候主計頭殿
 土佐殿ニ御申ニて閉門ニて御入候へ共此時節
 各別之事ニて候間御登城可被成と思召候か如何  
 可被成哉と被仰候ヘハ土佐殿一段御尤ニて御座候

 早々御登城被成候様ニとすすめ被申則土佐殿
 御供ニて被出候主計頭御登城在之秀吉公へ
 直ニ御目見被成秀吉公御感ニて其後閉
 門御赦免被成候事
一 慶長五年石田治部少輔一乱之刻主計頭殿
 御内室大坂ニ御入候を治部少輔大阪城中江
 人質に取置申候主計頭殿儀  権現様
 御一味ニて御座候故御内室をぬすみ肥後へ 

 下し申様ニと土佐殿に被仰付候其時節
  土佐殿大坂ニ御入候故右之通被仰付則土佐殿
 調儀を以主計頭殿内梶原助兵衛と申老人と
 相談にて無難御内室を城中より盗出し
 肥後へ御下し候此段主計頭大キに御感悦
  被成候主計頭殿御内室は水野和泉守殿御息
 女ニて御座候を 権現様御養子被成主計頭殿へ
 被遣候紀州大納言様御前様御母儀さまにて
10
  御座候
一 土佐殿大坂ニて中風を煩出し十死一生に
 有之候處主計頭殿宿所へ御見舞
 被成土佐殿の頭を主計頭殿ひざの上にのセ
 何とそして此度本復仕候へ其方相果候へハ
 我片うで落たると同前なりとて御落
 涙被成候由此一言骨髄に徹し忝く
 被存追腹を被致候事根本此御一言より
11
 発り申候由承及申候事
一 慶長十六年六月廿四日主計頭殿御死去
 被成候と其侭土佐殿宿舎へ御帰り柿原孫三郎
 を数寄屋へ御よび此度御供申覚悟之由
 被申渡候へは孫三郎申候ハ其段せんぎをとげ
 理のつよき方に御付可被成候若又私申所理
  強御座候ハバ御供之儀思召留り可被成 とて
 
12
 段々主計頭殿へ土佐殿御奉公之品を
 かぞへたて扨申候は是程之御奉公ニて御知行
 御加増も無之段結句殿様へ御不足ハ在之
 筈にて御供之儀ハ沙汰にも及不申事と
 申候処土佐殿申候は此方之奉公と主人之
 恩賞とを算用づくに仕候は武士道にて
 無之候一言之情ニても万石之知行にも不
 被替事有之其方などが様なる武功之
13
 者我等内に召仕候も皆々殿様之御影にて
 こればかりもいか程の御加増にもかへぬ事候
 其外段々忝事共御申立かく存極め候上は
 誰人か申とても心底替わり可申覚悟ニ無之候
 との事ニて六月廿五日辰ノ刻ニ切腹被成候
 兼而より数寄屋を新敷造作被成候其時分ハ
 未半造作ニて在之候由則其数寄屋ニて御切
 腹被成候事
  以上 


主宰句を鑑賞する  2018年木枯号より

2018-12-03 21:05:22 | 

   炭山(やま)の日の記憶ふくらめ月見草  村中のぶを

 作者の経歴をよく識らない。けれどもこの句を読めば作者は炭鉱労働の経歴を持つ人であろうことが想像できる。夕暮れ時、月見草を見ていると遠い日の記憶がまざまざと甦って来るというのである。
 
炭鉱の敷地は広い。選炭場、貯炭場、貯水池等が広い敷地を埋めている。夏になれば敷地内のあちこちに月見草が咲くのであろう。「記憶ふくらめ」とはなんと切ない抒情であろうか。月見草は不二に似合う花と言ったのは太宰治であるが、炭鉱にこそ似合う花だとこの句を読んで思った。

  盆灯篭写真の父母と熊本城  仝

 盂蘭盆会で灯篭を灯してある部屋に父母の写真と熊本城の写真が飾ってある。熊本城の方は写真でなく絵かもしれないが、それは鑑賞の上ではどちらでもよい。作者は熊本市出身のお方で今は関東平野の一隅にお住まいである。この一事からも望郷の強さが思われる。

 上の写真は今年の中秋の名月である。復興なってクレーンが外されるのはまだまだ先になりそう。

 捌(は)け道のいまはままこのしりぬぐひ  仝 

 「ままこのしりぬぐひ」が面白い。
 ママコノシリヌグイは、タデ科イヌタデ属の1年草。トゲソバの別名がある。 和名は、この草の棘だらけの茎や葉から、憎い継子の尻をこの草で拭くという想像から来ている。( Wikipedia
 
捌け道というのは沢などの水が流れ下る道。または雨水がはけて行く道である。この植物は湿気を好むのではけ道の上が今は部厚い藪になっているというのである。

 葛の花釈超空の道として  仝

 釈超空の歌碑

 民俗学者折口信夫は大正時代に2度ほど調査のために対馬を訪れている。恐ろしく古い時代のことであるが、彼は歌人でもあり釈超空と称した。
 葛の花踏みしだかれて色あたらしこの山道を行きし人あり
 掲句はこの歌を踏まえている。私がこの歌に遭遇したのは高校時代の国語の教科書であった。強烈な衝撃をうけたことをはっきりと憶えている。

角堂人気なく秋の潮荒(あ)

再建された六角堂

 作者が潮荒る(うしおある)と表現するときその脳裏には当然3.11の津波の記憶がある。まだ風化していない生々しい痛みを伴う記憶である。
 景勝の地、北茨木市五浦(いづら)の岩礁の上に六角堂は建っていたが、3.11の大津波で流失した。この建物は岡倉天心が法隆寺夢殿を模して自ら設計したものと言われていた。今は再建なった六角堂が建っている。

 妙高市六角堂 (妙高市観光協会HPより) 

 岡倉天心の六角堂は妙高市赤倉温泉にもある。こちらは天心が最晩年を過ごした山荘跡に有志によって建てられた。  
  10年くらい前になるが、私はここを訪れた。写真なども撮ったのだが、パソコンの中深くに収まっていて今は取り出すこともできない。その時は訪れる人もない鄙びたところに六角堂が建っていた。