梅わかな鞠子の宿のとろろ汁 芭 蕉
「猿蓑」撰のころ芭蕉は京都に滞在していましたが、弟子の乙州(おとくに)が仕事で江戸へ下るというので、その旅立ちに餞として与えた句です。
梅が咲き、野には若菜が芽吹いています。これから追々よい時候を迎えますが、旅すがら鞠子宿を通るときには是非ともとろろ汁を食べて元気をつけてください、というほどの句意ですが、しみじみとした芭蕉の真情が鞠子という地名の響きと相俟ってゆかしく伝わって来ます。
一方、同じ鞠子宿でも一九の描写はまるで違っています。こちらは散文ならではの面白さで、会話体の文章に畳込むようなリズム感があり、方言のおかしみが利いて読み進むにつれ、ついには吹き出してしまいます。
喜多「コレ、飯を食おうか。ここはとろろ汁が名物だの」
弥次「そうよ、モシ御亭主、とろろ汁はありやすか」
亭主「ヘイ、今出来ず」弥次「ナニ出来ねえか。しまった」
亭主「ヘイじっきにこしらえずに、ちいと待ちなさろ」
と、にわかに芋の皮もむかずに、さっさっとおろしにかかり、
亭主「おなベヤノ、おなベヤノ、この忙しいになにをしている。ちょっくりこ
い、ちょっくりこい」
と、けわしく呼び立てると、裏口から小言をいいながら来るのは、女房とみえ、髪はおどろおどろに振りかぶったのが、背中に乳飲み子を背負い、藁ぞうりを引きずって来て、
女房「今、弥太ァのとこのおん婆どんと、話をしていたに、やかましい人だヤァ」
亭主「ナニやかましいもんだ。コリャそこへお膳を二膳こしらえろ。エヽ、ソレ前
だれが引きずらァ」
女房「お前、箸の洗ったのゥ知らずか」
亭主「ナニおれが知るもんか。コリャヤイ、その箸をよこせャァ」
女房「これかい」
亭主「エヽ箸で芋がすられるもんか。すりこぎのことだハ。コリャさてまごつくな。その膳へつけるのじゃないわ。ここへよこせと言うことよ。エヽらちのあかない女だ」
と、すりこぎをとって、ごろごろと芋をする。
女房「ソレお前、すりこぎがさかさまだ」
亭主「かまうな。おれが事より、うぬがソリャァ海苔がこげらァ」
女房「ヤレヤレやかましい人だ。このまた餓鬼ゃァ、おんなじように吠えらァ」
亭主「コリャすりばちをつかまえてくれろ。エヽそう持っちゃァすられないハ、手におえないひょうたくれめ」
女房「ナニあんたがひょうたくれだ」
亭主「イヤこの阿魔ァ」
と、すりこぎで一つ食らわせると、女房はやっきになって、
女房「コノ野郎めハァ」
と、すりばちを取って投げると、そこらあたりへとろろがこぼれる。
亭主「ヒャァ、うぬ」
と、すりこぎを振り回して立ちかかったが、とろろ汁に滑ってどっさりところぶ。
女房「アンタに負けているもんか」
と、つかみかかつたが、これもとろろ汁に滑りこける。向かいの家のお神さんが駆けて来て、
お神「ヤレチャまた、みっともないいさかいか。マァしずまりなさろ」
と、両方をなだめにかかり、これも滑ってころんで、
お神「コリャハイ、なんたるこんだ」
と、三人がからだ中、とろろだらけにぬるぬるになって、あっちへ滑り、こっちへころんで大騒ぎ。
弥次「こいつは始まらねえ。先へ行こうか」
と、おかしさをこらえて、ここを立ち出て、
喜多「とんだ手合いだ。アノとろろ汁で一首詠みやした」
喧嘩する夫婦は口をとがらして 鳶とろろにすべりこそすれ