多良木町田代ケ丘公園にある句碑を拜みに行ってきました。迦南句碑はここ多良木町と三角町戸馳島の2カ所にありますが戸馳島の方は既にアップしています。
ここはキャンプ場でもあるらしく
公園から多良木町を眺望する。球磨川もこのあたりでは大河のイメージはないですね。
球磨磧月にも飛ぶや石叩 迦 南
多良木町田代ケ丘公園にある句碑を拜みに行ってきました。迦南句碑はここ多良木町と三角町戸馳島の2カ所にありますが戸馳島の方は既にアップしています。
ここはキャンプ場でもあるらしく
公園から多良木町を眺望する。球磨川もこのあたりでは大河のイメージはないですね。
球磨磧月にも飛ぶや石叩 迦 南
上の古文書の翻刻版が送られてきます。それを添削して送り返えします。赤文字がずいぶん減ってきました。I さんの識字率が向上した証拠です。
用があって熊本城内の加藤神社へ行きました。その帰りに監物台樹木園に立ち寄り、前から心当てにしていたトキワレンゲ(常磐蓮華)が咲いているのを確認しました。5月の連休の時にはまだ堅い蕾で、6月の初めに少し膨らみ、3度目の今回やっと写真に写ってくれました。大きさはビンポン玉くらい、モクレン科の可愛いらしい花です。
下の花も珍しいですね。これはイジュの木の花です。昨日の雨で落ちたのか地面にいっぱいに散り敷いていました。これはツバキ科の高木で自生木は沖縄以南にしかないそうです。でも、ここにはあるのです。ウメの花より少し大きいくらいです。
城彩苑から二の丸公園へ登る坂道のあじさいがきれいでした。
写生自在22 朝鮮時代
音先だてて撫子に雨降り出せし 迦 南
林檎むくや音ささやける銀ナイフ 〃
迦南の聴覚は鋭敏だったのですね。上掲2句は音を取り込んでいます。そして言われて見れば誰にも思い当たるところがあります。撫子は群生して咲いているので少しの雨にも音を増幅させ、その音を聴いて人は天を仰ぎなるほど降り出したとに気が付くのです。そういう細やかなところを表現するのが俳句の独壇場なのです。
林檎を剥くときに音が出るものかどうか、これは指先に音を感じているのだと思います。オトササヤケル ギンナイフ このフレーズがいいですね。まるで林檎とナイフが親しく会話をしているような、こういう言葉の発見を一度でもものすることができたら、それこそ俳句は止められなくなってしまいす。
写生自在21 朝鮮時代
畳む手に重なる紅や秋の㡡 迦 南
沈みゐる岩紫や熱帯魚 〃
内陣に護摩の火紅し山桜 〃
春葱を掘りゐる少婦(カシナ)赤ズボン 〃
1句目、蚊屋という生活用具が姿を消したのは1960年代以降の事でしょうか。ずいぶんと久しくなったものです。往時はどこの家にも部屋の四隅に吊り手がぶら下がっており、夏になるとそれへ蚊屋を吊ったものです。6畳用、8畳用、10畳用と蚊屋にもサイズがあり、へりには赤い布で仕切りがあって、畳むときはそのへり布を重ね合わせました。この句はそこを詠んでいるのですが、もうすぐ御用済みとなる蚊屋に愛惜を感じているのです。
2句目、水槽に泳いでいる色鮮やかな熱帯魚。底に沈めてある岩の色がくすんだような紫。その岩がこの句のポイントです。沈みゐる岩という叙法は無機物の岩に意志があるかのような詠み方になっています。これを擬人法と呼んでいますが、それが成功しています。
3句目、作者が山寺を訪ねたとき住持は祈祷の最中で、内陣が薄暗いために燃え立っている護摩の火が作者の眼に強烈に印象付けられました。この山寺はあまり知られていない寺とするよりは、天台とか真言とかの古刹としたほうが僧侶の袈裟の色なども見えてより味わい深くなります。
4句目、カシナとルビを振ってありますが、これは朝鮮語なのでしょう。葱を掘るというのですからこの畑は雪に埋まっているのです。その雪の上に赤いズボンの少女を配して印象明瞭な句になりました。
以上 4句に特徴的なのは迦南の色彩感覚です。朝鮮時代の句で色彩を意識して詠んだ句はこの4句よりなく、色彩豊かな句を詠むのはあまり得意ではなかったようです。
膝栗毛も今日から4篇の読み合わせに入りました。新しく入会された方もアマゾンで購入したり、図書館で借りたりして活字本を持っておられます。種本を持っているから読み合わせができるわけですが、前からの会員はさすがに種本にたよらずとも読めるようになっています。こういう人たちはすでに中級者であり崩し文字に移行してもよいのですが、組み分けを行うにはまだ条件が整っていません。しばらくはこのまま続けるしかありませんが、この人たちの中に講師を養成して会員を増やし初級、中級の組み分けを行う将来構想を持っています。会員数が20人を超えれば会場の収容人員からも、組み分けをせまられます。
さて、今日の会は冒頭に規約の打ち合わせをしました。世話人の今村さんから規約案の説明があり、検討後ほぼ原案通りに決定しました。これで規約を持った一人前の組織に発展したわけです。今村さんは世話人から代表になり、副代表は平井さん、顧問に中川さん、会計は当分の間今村さんが兼務。この4役に講師を入れて役員会を構成して会の運営に当たることになりました。また、代表と会計にはわずかながら手当を出すことになりました。講師謝礼はこれまでどおり。
人数を増やして会費の値下げを実現しその上で余裕があれば講師謝礼も上げようということになりました。会費が安くて面白く楽しい会作りに成功すれば会は必ず発展します。なぜなら古文書には根強い需要があるからです。
写生自在20 朝鮮時代
蛙藻を掻き分けて目をつぶり開きし 迦 南
俳句初学の頃先生からよく注意された事の一つに動詞は一つというテーゼがありました。それは句中に動詞がいくつもあると句が賑やかになって焦点がが定まらず散漫な句になって失敗作となるからだ、と云われました。それをずっといまだに守っているのですが、そのこと自体は正当であり有効です。
ただ例外ということがあります。上の句は「掻く」「分く」、「つぶる」、「開く」等動詞ばかりでできているような句です。先生ずるいよ、と云いたくもなるのですが、一句はにぎやかなところがかえって面白く、ユニークな句に仕上がっています。とくに前にも云ったことですが、字余りになっても助動詞「し」を配して語尾のところで引き締めているのです。
写生自在19 朝鮮時代
韓衣似あふ夫人やさくら餅 迦 南
金巡査椅子にひかへし種痘かな 〃
花梨に乳房たらせし水汲み女 〃
1句目、民族衣装のチョゴリを着ている上品な朝鮮婦人をデツサンしたもの。さくら餅とあるからといって、それを食しつつある女性と解釈するのは不適当。さくら餅は季題であってこれは取り合わせの句なのです。「桜餅」という題にこのような取り合わせをひねり出す才が出色なのです。「か・き・つ・は・た」を折り句に歌を詠めと言われて、即座に「唐衣きつつなれにしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞおもふ」と詠んだ伊勢物語の故事を思い起こします。
2句目、金巡査は明らかに朝鮮人。その人が日本の巡査に取り立てられるには、それなりの事情があるのでしょうが、それが句の背景にあります。新1年生の種痘の場に立会人として控えている金巡査。恐らくにこにこと笑顔を作って子どもたちを優しく見守っているのでしょう。読者もつられ微笑をもらすことになります。この句で最も働いている語は「し」です。完了継続の助動詞「し」の働きで佳句になりました。
3句目、これはさくら餅の句とは違って実景と思います。若い朝鮮人女性に対する迦南の視線が優しいですね。季題「梨花」がよく利いて柔らかな佳句に仕上っています。
表記がおかしい!!??
「道のへの木槿は馬に食はれけり」というのが諸書にある表記ですが、ここでは「道はたの木槿は馬に」となっています。ミチノヘとミチハタ意味的に差違はなく、句としての優劣もつけられないと思いますが、なぜここではミチハタと刻まれたのか、そこに興味をそそられます。
11月に「城下町を歩く会」の3回目をやるのでその下調べのために往生院を訪ねました。
句碑建立の目的と建立者の氏名建立時期とが裏面に刻まれているはずですが、摩滅のために判読困難、わずかに建立時期のみ読み取れました。
于時安永十年辛丑春二月 東都
これは甲子吟行にある句。ずいぶん人口に膾炙した句でパロディまで作られました。
煮売屋の柱は馬に食はれけり
建立者が勝手に表記を変更するなど考えられないことですから、これは当初から併存していた句体と思われます。芭蕉が詠んだ時の原稿だったとも考えられます。
それにしてもこれほどの観光資源を案内板も出さずに放置しているお寺は現今珍しいのでは・・
メール会員の I さんとのメールの遣り取りの実際を説明します。下の古文書は互いに共有しています。その翻刻文が I さんから送られてきます。
下の翻刻文を添削して送り返します。この繰り返しで学習します。I さんは変体カナは殆どマスター、今は崩し文字の学習です。
加藤公殯處碑
加藤清正公之薨也去今三百年其初殯于赤尾口
遂葬于中尾山後建一寺于殯處號曰静慶庵庵廃
而其地属熊本大林区署今其域中有壟冢是其遺
跡也方今玆四月大行公追遠祭請大旅区署修其
遺趾建碑其上以示昆去爾
明治四十二年四月 清正公三百年会建之
上熊本駅前から京町へ通じる急峻な登坂道があります。その中程左側に九州森林局があり、その敷地内の木立の中に碑が建っています。
碑面は苔むしてとても読める状態ではないので森林局からタワシとバケツを拝借して清掃、文字を浮かび上がらせて写真に撮り、家に持ち帰って上記のように翻刻しました。
この碑文に述べられている事柄を分かりやすく説明すると次のようになります。今より三百年前、ここ赤尾口において公の遺骸を荼毘に付し、遺骨を中尾山に葬った後、ここに一寺を建て静慶庵と号した。庵は廃れて今は塚が一つあるのみだが、その塚(壟冢)が殯處の跡である。
※ 参考までに清正公年譜の終わりの一項を記載しておきます。
慶長16年(1611)3月29日、豊臣秀頼に付き添い上洛。家康との対面に立ち会う(二条城の会見)。5月熊本へ帰る船中で発熱し、同月27日熊本へ帰着する。6月24日熊本城において逝去する。
句会日時 2017-6-16 10時
句会場 パレア9F 鶴屋東館
出席人数 8人
指導者 山澄陽子先生(ホトトギス同人)
出句要領 5句投句 5句選 兼 題 梅雨
世話人 近田綾子 096-352-6664 出席希望の方は左記
へ。
次 会 7月21日(金)10時パレア9F 兼 題 病 葉
会員が8人へ増えたことから財政基盤が強化され今回から有料の会議室へ移りました。まったく独立した部屋で静かな環境で句会が開けます。それはよいのですが、会員が1人でも減ると忽ち会費増ということになるので絶えず入会者を増やす努力と引き替えになっています。
山澄陽子選
客足に梅雨の深さのありにけり 案月子
黒揚羽緑蔭深く消えにけり 小夜子
梅雨晴間今朝もめぐりぬウォーキング 綾 子
風に散り雨にも散るや花楝 礁 舎
川下り舳を蛇の横切れり 武 敬
ひとときのコーヒー談義梅雨晴間 興
梔の香に誘はれ道迷ふ 純 子
夏蝶のひらひらついて来るやうな 成 子
先生の句
厨ごと楽し今宵も守宮来る
蟻の巣と判る土塊雨近し
緑蔭に安心世界ありにけり
遠目には花とも見えて半夏生
梅雨入りとて未だ曖昧日照り雨
横井小楠率いる肥後実学党は反対派学校党に抑えられて、藩政の表舞
台に登場する機会はなかったのですが、明治になって小楠が参議として政
府に参与したことから藩政においても実学党が実権を握ることになります。
下の文書はその実学党の政治理念を端的に示すものとして注目されま
す。この触書は領内各所に張り出されましたが、これを見た領民は狂喜し
たことでしょう。現に隣の岡藩などでは不公平感から藩内に暴動が起きたと
か、起きそうになったとか伝えられています。
村々小前共江
今度我等知藩事の重任を蒙候ニ付而は
朝廷之御趣意を奉し
正四位様厚き思召を継て管内の四民うへこゞえの
うれへなく各其處を得さしめむ事を希
ふ中にも百姓ハ暑寒風雨もいとはず骨折
て貢を納め夫役をつとめ老人子供病者
にさへ暖に着せこゝろよく養ふことを得ざるは
全く年貢夫役のからき故なりと我ふかく恥おそ
る いかにもして此くるしみしミをとゞむとおもへとも今直に
本免をくつろぐることを得ず先左之通
一 上米 一 口米三稜 一 会所並村出米銭
右稜々を差ゆるしぬ はた又壱歩半米ハ凶年
損毛償の為に備をきしことにさむらへとも向
後をさむるに及ばず 是迄の請免を仮の定免
とこゝろへいよいよ農業に精をいれ老幼
を養育しあまりあるものハ親類組合等
の難渋をすくひ相互に人たるの道を
つくすへきもの也
七 月 知 事
さて、上記触書を立案したのは誰であるかですが、山田武甫ではないかとわたしは考えています。以下に鈴木喬著『熊本の人物』を引用しておきます。
実学党の熊本県参事
山田 武甫
山田武甫(たけとし)は天保二年(一八三一)藩士牛島家に生れ、五次郎と称し、安政二年(一八五五) 山田家を嗣いだ。横井小楠の塾に学び、その才能を認められて明治元年 (一八六八)には藩政に参与するようになった。
明治三年に細川護久が熊本藩知事になると小楠門下の実学党系の人々が藩の要職につき藩政の大改革が行われた。武甫は権少参事試補として民生局の事務を担当し、それまで農民の生活を圧迫していた雑税と津止法の廃止を藩庁に建言して採用されたので、領内皆これを徳としたという。また洋学校・医学校を創立して外人教師ジェーンスやマンスフェルトを招いて新教育を実施するなど、熊本藩の維新に大きく貢献した。
四年の廃藩置県後も、熊本県(翌年白川県)参事として県政を掌握し、諸種の改革を行った。その行政があまりに進歩的すぎて保守的な留守内閣に嫌われ、六年参事を免職となったが、大久保利通にその手腕を認められて内務省に入り、同八年敦賀県権令となった。翌九年同県が廃されると官界生活に見切りをつけて帰熊した。西南の役の後、戦後の人心の荒廃をおそれて共立学舎を創設し、教育事業に手を染めたが、十三年には県の師範学校長に任命されている。また彼は殖産興業の国策に合せて十四年蚕業会社を創立し、実業界での活動も行っている。
同年熊本にも政治結社として紫撰会が結成され、武甫ら実学派もこれに参加したが、その保守性に反撥してこれを脱退し、公議政党を組織した。さらに九州各地の穏健派の進歩党と会合を重ねた末、九州改進党の結成に成功した。武甫は明治二十三年、第一回の衆議院議議員に当選し、第三議会では議長の候補者に推されたが、第四議会に病を推して出席して危篤に陥り、二十六年二月なくなった。
膝栗毛35回目を迎えました。第1回は昨年の1月でしたから速いも
ので1年半近く経ちました。今日は3人の方が欠席でしたが1人の新入
会者がありました。茂見さんという女性の方です。
舞坂宿から新居宿まで海上1里の船旅で、ここでも船上で騒動が持
ち上がります。蛇遣いのおやじの懐から蛇が逃げ出して船中総立ちと
なり、喜多八が道中差しのこじりで押さえつけ海へ放り投げるところま
ではよかったのですが、蛇とともに道中差しまで放り投げてしまったた
めに、道中差しが浮いて流れ、武光であることが知られてしまい、喜多
八大いに面目を潰す、という話。次から次へとよくも一九はアイディア
が続くものだと感心します。
写生自在18 ツルマギ
周衣(ツルマギ)の垂れ紐吹くや青き踏む 迦 南
牛曳いて来る娘は跣足落椿 〃
海見えず潮騒ちかし薮椿 〃
ツルマギとは辞書によればチョゴリのような衣服の上にまとう外套の
ような衣服とあり、帯でなく紐があるだけとあります。その紐が垂れ
下がって春先の風に吹かれているというのです。ただそれだけを
作者はいっているだけなのに、物が民族衣装であるために読み手
には色々の想像がが広がります。わたしにはしわくちゃの老婆の
姿が目に浮かびます。
2句目三句目は落ち椿の句ですが、牛曳きの娘は跣であるというとこ
ろに現地人の貧しさがあり作者の同情もあります。あたりに椿が繁茂し
ているために見えないけれど潮騒の音ですぐそこに海があることが分
かるというのです。簡潔な言葉遣いで気持ちの良い句です。