水前寺古文書の会
水前寺古文書の会は2022年5月30日をもって解散します。
コロナ感染症の長期化のために読み合わせ会が開けず、そのために会員減少なとが起こり
会の維持が困難になったからです。
ただし、ブログは今後も維持します。毎日100人前後の人が閲覧しているので、記事は更新しつづけます。(管理人)
水前寺古文書の会
水前寺古文書の会は2022年5月30日をもって解散します。
コロナ感染症の長期化のために読み合わせ会が開けず、そのために会員減少なとが起こり
会の維持が困難になったからです。
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今からちょうど100年前スペイン風邪というインフルエンザが大流行して死者は世界中で2千万人~4千万人に達し、我が国では39万人が亡くなっています。いまコロナウィルスの感染が流行の兆しを見せ、対応を誤ると大事にいたる恐れがあることから、100年前のスペイン風邪に関心が集まっているそうです。
ここで、なぜ井上微笑かといえば、微笑は流行のさなかに県立病院(現熊大病院)に肋膜炎で入院しており、感冒患者でごった返す病院内の様子などを句稿に書き留めているのです。印象深い文章なのでここに紹介します。
井上微笑は慶応3年、筑前国秋月藩の藩士の家に生まれますが、1歳のとき明治維新、3歳の時廃藩置県という激動の時代に幼少期を過ごします。父親が人吉の裁判所に職を得た関係で微笑は湯前村役場の書記となります。
微笑と同年生まれに正岡子規、夏目漱石、尾崎紅葉がいます。子規、漱石は俳句でつながりができる人ですが、紅葉はと言えば、明治23年当時、月刊雑誌「国民之友(主宰徳富蘇峰)」に「拈華微笑」という恋愛小説が連載されていました。微笑は湯前村にいてそれを読んでいたのですね、その作者が尾崎紅葉だったのです。
明治29年に五高教師として来熊した漱石が寺田寅彦等と俳句結社「紫溟吟社」をおこすと微笑は熱心な投句者となり、たちまち頭角を顕しますが、俳号は「拈華微笑」から採ったものでした。
微笑はその後九州日々新聞(現熊本日々新聞)俳句欄の選者なって新派俳句(正岡子規が広めた俳句)の普及に功績がありました。「井上微笑句集」あり。
大正9年(1920)の句稿
流感新春に入り益々猖獗。隔離室は満員。昨日三人、今日は一人死亡。形勢甚だ険悪。愚妻遂に襲はれ、一時は39度以上の発熱。三日間全く枕離れず。
飯食はで三日を続く蜜柑哉 微 笑
久しく病臥中の院長谷口博士十一月十四日遂に逝く。全院哀傷の気漂ふ。
火鉢の火茲に尽きたる寒さかな 微 笑
球磨より舅来たる。年六十八。矍鑠壮者を凌ぐ。
此流感臆せぬ老をたたへけり 微 笑
舅は二泊して帰る。家は昨年流感の為め嗣子を亡ひ、其子の三歳なる孫を鞠育す。
甥に贈る冬帽と太鼓頼みけり 微 笑
序でに当時の雰囲気を伝える「マスク、マスク」の写真を掲載します。
豪州メルボルンのナースたち
北九州の女性たち
馬門石(まかどいし)を産することで知られる馬門地区には古い神社が三社あり、地元の人は三社参りと称して何かに付けこの三社にお詣りするそうです。
その一つは年神を祀る大歳神社、この神様は穀物の神。今一つは赤石神社で御祭神は大山祗神(おおやまつみのかみ)、これは山を守る自然神ですが、ここでは馬門石を切り出す石工たちの安全を守る神として尊崇されてきたといわれます。残りの一つは牧神社で御祭神は事代主神(ことしろおおかみ)。この神は神話に登場する国生みの神様で、ここでは「牧」を守る神とされています。
地図上に赤丸で囲った「笠瓜」という集落を含む一帯は古くから「牧」のあったところで、8世紀の初めには宇土郡大宅郷に「牧」が開かれたと続日本記に記述があり、時代によつて盛衰はあるものの途切れることなく江戸期まで存続したと宇土市史にあります。最も栄えたのは中世期で千町歩の規模だったと言われ、宇治川の合戦で佐々木高綱が手綱を取って一番乗りを果たした名馬「池月」はこの「牧」の産だったと言われています。尤も同様の伝説は他所の「牧」にもありますが・・。藩政期は200町歩で常時100頭ほどの馬が飼育されていました。
なに憚ることなく洗濯物を干してあるのが、いかにも田舎の風景ですね。
馬門石で建てられた小屋。家の前で畑仕事をしているお婆ちゃんに聞いたら祖父が明治時代に建てたと言われました。屋根は戦後葺き替えたもので当初は瓦葺きだったそうです。柱、壁の部材が馬門石でかすかにピンク色をしています。
正式の社名は大歳神社、集落の入り口にあります。鳥居が馬門石でできています。
赤石神社。ここも石材はすべて馬門石。
牧神社。馬門集落から歩いて7、8分の山中にあります。鳥居、石段、灯籠、玉垣など全て馬門石です。
牧神社の本殿の前に小さな石製の箱様の物が置かれているのに目がとまりました。これは古墳に埋葬する石棺のミニチゥアだとすぐに気づきました。
宇土市は平成16年度の市の事業として馬門石製石棺を古代船に載せて大阪湾まで運送するという一大イベントを実施しました。当時各方面から大変注目されたイベントでしたが、右端の写真は石棺を修羅に載せて運び出す場面で位置は大歳神社の前辺りです。ミニチュア石棺が右石棺と相似形であることが判然とします。
※・・高槻市にある継体天皇陵から出土した石棺が馬門石製であることから、古代人は6トンもある石棺をどうやつて800㎞も運送できたのか、その謎を解くために実施されたイベントでした。
大王の棺 宇土市デジタルミュージアム
こういうお宅もありました。
これは市中心部にある船場橋です。欄干部に馬門石が使われて、とても奇麗です。
笠瓜集落を訪ねて
地図で見ると笠瓜集落は馬門集落のすぐ上に位置し、嘗ては人の通る道があったが今は自然に戻ってしまって通行不能になっています。それで一旦57号線に出て長浜町から山道を登りました。
地元の人は「笠瓜」を「かすり」と呼んでいますが、「かさうり」が訛ったものでしようね。集落の中ほどに古びた井戸があり、覗いて見たら2メートルばかりの深さで水が湧いており、手入れをすればすぐにも使えそうな井戸ですが、この井戸には景行天皇伝説が伝わっています。
不知火海から永尾神社の辺りに上陸された景行天皇は御輿来海岸へ抜ける途中この地に立ち寄られ、里人へ一杯の水を所望された。里人はこの井戸の水を汲んで差し上げ、同時に竹の皮で製した笠に瓜を載せて供応した。天皇がここは何という所かと訊ねられたので、里人は未だ地名はありませぬ、と答えた。それでは「笠瓜」とせよ、と仰られたので「笠瓜」という地名になったと伝わっています。
上記の話をしてくれたおばあちゃん。87歳(右)、90歳(左)、5戸に減ってしまって住民は年寄りばかりで、やがて廃村になると、そのことを嘆いておられた。ここは古い時代から「牧」のあったところで、住民は馬の世話をする職の人たちの子孫ではないかと水を向けても、そんな話は聞いてないと、はっきりしない返事。墓地を見たら「牧本」姓が多く、やはり「牧」との関係は濃厚だと思った。
五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん 芭 蕉
上句で知られるようにカイツブリの浮巣は夏に見られるもの。なのに、江津湖では健軍川が注ぐ辺りの枯蘆の中に巣がありすでに雛が孵っています。
望遠で撮りましたが距離があるのであまり鮮明には撮れません。
親鳥の後ろについて潜りの練習をしている雛
2月第4木曜の読み合わせ会は中止になりました。熊本にも感染者が出たことから、県、市の公的行事がすべて中止になり、わが会も感染拡大防止に協力する立場から中止することにしました。わずか10数人の会ですが万が一の事を慮って決めた次第です。
近くのスーパーからトイレットペーパー、紙オムツなどの紙製品が消えています。なんでこんなことが起こるのか、たぶんデマが引き起こした現象に違いないとは思うものの、何となく不安な気分になります。
そう言えば似たようなことが73年石油ショック時に起こったことを思い起こします。それは後にトイレットペーパー騒動と呼ばれた珍現象です。この時は品薄による値上がりによって高い物を買わされるハメになりましたが、裏に商社などによる売り惜しみがあったといわれています。
今日は節分、恵方詣りに行って来た。
方角は庚(西南西)である。自宅からこの方角にある神社を検索したら「所島神社」がヒット、さっそく車で出かけた。所要時間15分の近場である。
このあたり一帯は熊本市南郊に位置する田園地帯で、「一ノ井手」灌漑で拓けたところである。
肥後国誌に短い記載があるので抄録した。
所島村
高 四百一石余
山王社 祭 九月九日
境内には梅が咲いていた。左方のお水舎の水は24時間垂れ流し、湧水をポンプアップしているが、揚程が短いので電気代は大したことないとか・・。
戦没者慰霊碑があった。
先の大戦に出征して戦死した人達の名前の下に戦死年月日、場所、年齢が記されている。
戦死者の名前を読んでいて気付いたこと、20代、30代の若者ばかりである、同姓が神社の玉垣に見出せる、この村から出征していったのだなあ・・と思わせる。
2020年1月23日(木)、水前寺「羅生門」において新年会がありました。女性7人、男性5人の全員出席で、古文書を読む楽しさがこもごも語られ、年頭の抱負などもそれぞれ発表。
平井代表から今年は会員を増やして財政力をつけ外部から講師を招いて講演会などやりたいなあ、と提案があったり大変盛り上がった新年会になりました。
10月5日~14日は熊本城大天守外観復旧記念公開。その後は復旧工事のない日・祝日限定での公開予定だそうです。
今日11日(金)天守閣を見に行きました。天守は西側だけ足場が取れて勇壮な姿を見せていました。これは早く見たいという市民の要望に応えて特に西側の工事を急いだためのようです。全体を見ればまだまだです。
二ノ丸公園から天守閣前広場まで真っ直ぐな通路が作られています。
2016年1月から読み始めた膝栗毛の読み合わせが本日終了しました。3年半を超える長丁場を飽きもせずによくも読んだと思います。これはまず第一に会員の皆様の旺盛な学習意欲があったからの事でしょう。また膝栗毛という作品の面白さによるとも言えます。みなさま活字本と首っ引きで取り組のまれ、変体カナはほぼマスターされました。
次会からは上の地方文書を読みます。こういう文書では崩し字の習得が目標になりますが、同時に藩政史を学ぶことにもなります。講師としてはちょっと荷が重いのですが、努力してご期待に応えたいと思います。
(寛政八年 申渡覚 辰ノ正月 徳富太多七 申渡覚 当手永零落に付去る巳年御救い立てとして 御銀拝領且つ去々寅年迄 十ヶ年毎歳御米も拝領なされ 有難き仕合せに候 取米候ては莫大之 御米銭拝領 其外無銭にて質地・・・)
同時に「江戸往来」も終了したので、今度は「百人一首」を読むことにしました。これは日本詩歌の源泉に触れ詞藻を肥やすとともに変体カナに親しむためです。「百人一首」の解説記事はネット上に溢れているのでこれは苦労しないで済みそうです。
里山の林縁にひっそりと満開の日を迎えている桜を見ました。ある偶然から出遭ったのすが、人々に愛でられて咲く名所の桜とは一あじ違う雰囲気をもっているのに心惹かれ、車を止めてしばし眺め入りました。
過疎の山里満開の櫻かな 礁 舎
今年の恵方は坤(ヒツジサル)、その方位を探したら益城町広安に「熊野宮」がありました。ここに私の歳徳神が遷座まします(坐す)。さっそくお詣りに行って来ました。
写真のような小さなお社ですが、境内には熊本城の楠よりも大きそうな楠が2本もあり古い時代の創建であることを思わせます。産土神で社格は村社そういう雰囲気でした。
拝殿にアルミサッシの戸が付いていますが、鍵が掛けてあり中へはいることはできません。しかし戸には小窓が切ってあってお賽銭を入れることはできます。賽銭どろぼう対策の工夫です。昔は村人の喜捨によってこういう小社にも祝がいました。
地図には「熊野宮」とありましたが鳥居の額は「権現社」となっています。なんで?と思っていたらお水舎の石に説明書きが彫りつけてありました。
それによると「熊野宮」というのは昔の人が誤って書き付けたもので、ほんとうは「府内権現社」と言うのだそうです。地震で鳥居が落ちて再建の時、正しい社名に戻したと書いてありました。「府内」というのはこの地の字名です。
村人が社名を誤ったと書きましたが、これは私の推測に過ぎないのですが、これには明治初年の廃仏毀釈が関わっているように思われます。「権現」というのは佛や菩薩が垂迹して神になったものとする思想があり、神仏分離に悖るから、仏教色のない熊野宮としたのではないかと思うのです。
2日10時、健軍神社へ初詣に行きました。年々人の膨らみが薄くなっていくようで寂しい・・・。
駐車場側の入り口に石碑があります。何の説明書きもありませんが、これは庚申塔です。摩耗の状態から江戸時代のものと思われます。
こちらは「猿田彦大神」。楼門のすぐ左側にあります。明治政府は庚申信仰を迷信として排斥したので民衆は猿田彦に仮託して塔を建立しました。これは明治期の庚申塔です。創建期の表示がありませんが、まもうの程度からみて明治期のものと推定します。
小説『蒲団』が世に出たのは明治40年のことですが、小説のなかに言文一致体という言葉が頻繁に出て来てこの時代の作家たちが、言文一致体確立のために格闘していたことがわかります。とくに手紙を言文一致体で書くのが難しかったようです。田山花袋はその模範文を小説のなかに示しています。『蒲団』が人気を博したのは案外そういうところにあったのかもしれません。
ここにその手紙文のところを抽出してみます。
「先生、
私は堕落女学生です。私は先生の御厚意を利用して、先生を欺きました。その罪はいくらお詫びしても許されませぬほど大きいと思ひます。先生、どうか弱いものと思ってお憐れみ下さい。先生に教へて頂いた新しい明治の女子としての務め、それを私は行ってをりませんでした。矢張私は旧派の女、新しい思想を行ふ勇気を持ってをりませんでした。私は田中に相談しまして、どんなことがあってもこの事ばかりは人に打明けまい。過ぎたことは為方が無いが、これからは清浄な恋を続けやうと約束したのです。けれど、先生、先生の御煩悶が皆私の至らない為であると思ひますと、ぢっとしてはゐられません。今日は終日そのことで胸を痛めました。どうか先生、この憐れなる女をお憐み下さいまし。先生にお縋すがり申すより他、私には道が無いので御座います。
芳子
先生 おもと」
どうでしょうか現代文と比べてもさほど違いはないように思います。この文章は「青空文庫」からの引用ですが、同文庫は旧カナを新カナに書き換えてあるので、そこは旧カナへ戻しました。旧カナで書かれた文章はそのまま鑑賞すべきと私は思っています。
つぎに同じ女性が候文で書いた手紙を下に。
五日目に、芳子から手紙が来た。いつもの人懐しい言文一致でなく、礼儀正しい候文で、
「昨夜恙なく帰宅致し候儘御安心被下度く、此度はまことに御忙しき折柄種々御心配ばかり相懸け候うて申訳も無之、幾重にも御詫申上候、御前に御高恩をも謝し奉り、御詫も致し度候ひしが、兎角は胸迫りて最後の会合すら辞候心、お察し被下度候、新橋にての別離、硝子戸の前に立ち候毎に、茶色の帽子うつり候やうの心地致し、今猶まざまざと御姿見る思ひに候、山北辺より雪降り候うて、湛井よりの山道十五里、悲しきことのみ思ひ出で、かの一茶が『これがまアつひの住家か雪五尺』の名句痛切に身にしみ申候、父よりいづれ御礼の文奉り度存居り候へども今日は町の市日にて手引き難く、乍失礼私より宜敷く御礼申上候、まだまだ御目汚し度きこと沢山に有之候へども激しく胸騒ぎ致し候まま今日はこれにて筆擱申候」
と書いてあった。
さすがに候文は読みづらいですね。現代人の複雑繊細の感情を表現するのにこの文体は不向きというか、言い尽くせぬところがあるようです。
小説の主人公の女性は新橋駅から汽車に乗りますが、あの「汽笛一声新橋の」の新橋駅ですよね。そしてそこには硝子戸が嵌めてあり、師である男の茶色の帽子が映っているのを「今猶まざまざと見る思い」と表現しています。この女学生は「えび茶の袴に皮の靴」という流行のマドンナスタイルだつたのです。明治は懐かしい時代ですね。
画像の奥に小さく金峰山が見えています。熊本市内はどこにいても金峰山が見えます。高層のビルに隠れていても少し位置をずらすとビルの間にくっきりと姿を顕します。そういう角度に見る山姿もまたいいものです。 さしも暑かった熊本の夏もようやく衰えて心身に生気が蘇るようです。
錆いろの軌道にみつる秋気かな 礁 舎
会員の中川さんが素晴らしい詩を作られました。「古文書 膝栗毛」というタイトルです。
膝栗毛をテキストにして読み合わせ会を始めたのは2016年1月でしたから、3年近くこれに親しんでいることになります。現在7編上を読んでいますが年内には8編まで読了するでしょう。膝栗毛はこれで終わります。
3年もやっていると流石に情が移り、弥次さん、喜多さんは年来の友人であるような親しみを感じてしまいます。これは一九の力量のなせるわざなのですね。中川さんはそこに感じ入っておられます。江戸時代の気分を満喫しているのですね。これは楽しい。
小田原の旅籠での入浴の場面
古文書「膝栗毛」
中川 久
江戸時代、多くの人が読んだ
「膝栗毛」を手にしている。
変体仮名で書かれている。
古文書の類で読みにくい。
しかし、面白く手放せない。
物語の内容も、言葉も
時代を表し、歴史を感じる。
タイムスリップして
自分が江戸時代の庶民であり
読者の一人を演じている。