清田家住宅の復旧工事が終わりお披露目の宴がありました。
長屋門と塀
長長屋門と蔵
内屛
鶏頭
」
長屋門を内側より見る
内屛及び庭園
祝いの花輪
全壊の蔵復元
庭園から長屋門を見る
お披露目準備のできた座敷と玄関
西側より座敷を見る
母屋裏側 この所の破損が最も激しかった。
ズレていた大黒柱復旧
昔懐かしい竃
屋根付き井戸
台所棚
内屛
内屛
緑川の堤防より母屋を見る
馬具
緑川の堤防より
12代当主清田泰興氏の挨拶
乾杯
清田家住宅の復旧工事が終わりお披露目の宴がありました。
長屋門と塀
長長屋門と蔵
内屛
鶏頭
」
長屋門を内側より見る
内屛及び庭園
祝いの花輪
全壊の蔵復元
庭園から長屋門を見る
お披露目準備のできた座敷と玄関
西側より座敷を見る
母屋裏側 この所の破損が最も激しかった。
ズレていた大黒柱復旧
昔懐かしい竃
屋根付き井戸
台所棚
内屛
内屛
緑川の堤防より母屋を見る
馬具
緑川の堤防より
12代当主清田泰興氏の挨拶
乾杯
富合町の旧家、清田家住宅への市及び県からの助成が決定しました。清田家住宅は明治初期の建造で建築様式は江戸時代末期の庄屋造りという大変珍しい作りだそうです。
このブログへも被災直後の写真をアップしておきましたが、今回修復されることが決まってほんとうに良かったと思います。第12代当主清田泰興先生は一時は解体を覚悟されていましたが、修復が決まってほつとされていることでしょう。
それでも修復費用の1/4は自己負担ということだそうで、軽い出費では済まないようです。
私の家から四時軒までは直線距離で1.36Kmです。ご近所と言って良いくらいの距離ですが、その四時軒の被害がひどいです。明治時代に大きな地震があったと聞きますが、四時軒はのこりました。また震災3で紹介した清田家住宅もその時は無傷だったようです。そのことを考え合わせると今回の地震は古今未曾有の大地震ということになります。
この写真はネットより取得しましたが、震災前の四時軒の座敷(12畳)です。早春の柔らかな日差しが畳の上にまで差し込んで和風ならではの静閑の気が横溢する雰囲気のある写真です。
この部屋で小楠は客に会い弟子に講義をしていたはずです。元治元年(1864)には坂本龍馬が二度(2月と4月)にわたつてここを訪ねていますが、その時もこの部屋で会談したことでしょう。下に勝海舟宛て小楠書簡を引用しました。
この書簡で小楠は金子を贈られた礼を言っていますが、この時(4月)勝は幕命で長崎へ来たついでに龍馬を使いに出して金子を贈ったのです。禄を離れた小楠の経済事情を察しての思いやりでした。
一書奉呈仕候益御安泰ニ被為成 (一書呈仕たてまつり候、ますます御安泰になられ)
御勤恐悦ニ奉祝候先以熊本 (御勤恐悦に祝いたてまつり候、先ず以て熊本)
御通行之砌ハ坂下生御遣し懇々 (御通行の砌は坂本生御遣わし懇々)
被仰聞其上金子拝戴 (仰せ聞かされ、其上金子拝載)
御厚情不浅奉存候・・・ (御厚情浅からず存じたてまつり候・・)
上の写真の座敷が今はこの有様です。
休館の張り紙が痛々しいです。
四時軒からの眺望。坂本龍馬の2度目の訪問は4月でしたからちょうど今頃の季節です。手前の窪みは秋津川で今は水がちょろちょろと蘆間を流れている程度の小流れですが、往時は湧水量も桁違いに多く清冽な流れでした。龍馬もこの景色を眺めたはずです。
水前寺古文書の会世話人の今村さんと清田家当主の清田先生とはともに豊後大友家支族の裔で、そういう間柄は自然にそれなりのお付き合いが生まれるようで、今回の地震に際してもお見舞い旁お手伝いに行きませんかと今村さんからお誘いがかかり、二つ返事に了解して夫々の車で出かけました。
私は自宅から江津塘の道路(R266)を蓍町橋(めどまちばし)まで行きそこを右折して下流二つ目の橋である迦堂橋を左岸へ渡って清田家に至る経路を想定して行きましたが、蓍町橋手前での右折は堤防補修工事のため通行止め。仕方なく橋を渡り左岸側の堤防を下ることにしましたが、ここも通行止め。旗振りの人に聞いたのてすが、緑川の堤防はずっと下流まで、堤防補修工事で両岸とも通行止めになつているということでした。地震のダメージの大きいことを思いしらされました。
清田家に着いてみると今村さんは未着、長屋門を潜って声をかけましたが清田先生も御留守のようで屋敷内は森閑としています。仕方なく屋敷内外の被災状況を勝手に見て廻りましたが、ひどい有様です。被災を免れているのは庭に咲いているアヤメ、アイリス、芍薬、一八、春菊等の季節の花のみでした。
解体しかないだろう・・と清田先生が漏らされたそうですが、主屋は傾いて捩れも加わって土壁はいたるところで落下、米倉は全壊、長屋門も外壁に亀裂が入り、内外の塀はいたるところで切れて傾いています。有形文化財に指定された建造物のすべてが被災しています。清田先生のつぶやきも無理からぬ事ですが、これは文化財であり復原して遺してほしいものです。
清田家住宅の概要と写真を以下に掲載します。
熊本市指定有形文化財(建造物)
清田家住宅 附細川忠興知行宛行状他九点
指定年月日 平成二十一年六月十五日
員 数 主屋、長屋門、米蔵、外壁、内壁及び古文書
建築の年代 明治六年(1873)~明治九年(1876)
構造と沿革 入母屋造り木造瓦葺き、廃藩後居宅として創建
所在地 熊本市富合町釈迦堂字土位ノ内二十二番地
所有者 横浜市港北区大曽根1-5-8-34 清田泰興
【指定の理由】
清田家は、もと豊後国主大友氏の支族であったが、細川氏豊前国統治時代、初代五郎太夫は忠興の家臣となり、弟寿閑の娘・吉は立孝(宇土支藩祖)、興孝(刑部家祖)を生んだ。近世後期に本家を嗣いだ栄太は、明治維新後城下を離れ、縁故のあったこの地で地主業に転じた。
清田家の屋敷内には主屋を中心に、長屋門、米倉、外塀、内塀が残されている。主屋の内部は、東側に家族の生活の場である茶の間、土間、西側に接客のための玄関、座敷が続く。
この形式は江戸時代松木の庄屋造りを踏襲するものの、屋根は入母屋、瓦葺きである。また内部の柱、桁、梁などの部材は太く、このため力強い生活空間を形成している。
清田家所蔵文書のうち、慶長十七年(1612)の知行宛行状、同目録には忠興の花押、ローマ字朱印が、また寛永十年(1633肥後入国直後)の知行目録には忠興のローマ字藍印が押されるなど、貴重なものである。
平成二十一年十月 熊本市教育委員会
瓦の由緒書き
大破した米蔵の前で左から今村、清田、平川の順
震災から2週間が経ちました。
わが家の片付けが一段落したので、益城方面の被害状況を見に行きました。テレビで観てはいましたが、現地で実際に観るのとでは大きな違いです。ご近所にも居住不能になった家はありますが、倒壊した家を観ることはまずありません。それがここでは倒壊家屋が当たり前のように累々と転がっています。実に悲惨な恐ろしい光景です。
倒壊した家屋の片付けは2週間経っても全く進捗していません。
これは土蔵のようです。泥壁作りの古い家はほとんど潰れているようです。
石の門があり、手入れの届いたお庭もある旧家のようです。
転倒の端が道路にかかっていますが、ポールを置いただけで、手付かずの状態です。
調査票は3段階評価で赤色は危険、黄色は要注意、緑は安全です。倒壊家屋をよそ目に緑の票を貼った家もありました。手前右側の家は白壁に赤の票が見えます。ちなみにわが家は黄色でした。
出水神社の大鳥居
出水神社の大鳥居は細川家初代細川藤孝(幽斎)公の三百年会を記念して、旧家臣団で組織する甘栄会と崇敬者が明治四十三年に建立したものである。
瀬戸内産の御影石は当時石材の花形であったことから、山口県の徳山から加工材を購入し、海上を輸送して百貫港(熊本市西部の有明海に面した港)に運び、陸上を牛十数頭を使って現在地まで搬送した。
鳥居の高さ十m、直径が九十二cmもあり、建立された当時、継目なしの総御影石で造られたものとしては、西日本一の大きさであった。
平成六年三月 熊本市 (説明板から引用しました。)
参道の灯籠も全て倒壊。左側の絵を描いたシャッターが「健康ふれあい広場」で、古文書の会をやっている所です。
公園入り口の灯籠。
湧水が枯渇したのか池は干上がっています。
石橋の下に堰をつくって湧水を溜め鯉をいれてあります。
公園内の楠若葉がきれいでした。