これは真鴨ですかね。種類が多いのでよく分かりませんが、鴨が飛来して江津胡の風景は定まるように思います。
大鷭。湖面に繁茂しているウォーターレタスの上に乗って一日中食べているので大鷭の好物のようです。鴨はこれを食べません。
山茶花が咲き始めました。今が旬ですね。日が経って花びらが散り敷くようになると、なんとなく見飽いてきます。花期か長いせいでしょうか・・
木斛です。今年はびっしりと実をつました。夏が暑い年は稔りがよいのでしょうか・・・
これは真鴨ですかね。種類が多いのでよく分かりませんが、鴨が飛来して江津胡の風景は定まるように思います。
大鷭。湖面に繁茂しているウォーターレタスの上に乗って一日中食べているので大鷭の好物のようです。鴨はこれを食べません。
山茶花が咲き始めました。今が旬ですね。日が経って花びらが散り敷くようになると、なんとなく見飽いてきます。花期か長いせいでしょうか・・
木斛です。今年はびっしりと実をつました。夏が暑い年は稔りがよいのでしょうか・・・
キューバ革命の父カストロ将軍が亡くなりました。90才でした。ご冥福
を祈りたいです。キューバ革命が起きたのは1959年、われわれ世代
は青春真っ盛りでした。その時日本では岸内閣による警職法改悪のく
わだてに反対する闘争が盛り上がっていましたが、国会では自民党が
強行採決で法案を通し、反対世論の沸騰を引き起していました。自民
党のやり口は今も同じですね。そして歴史的な60年安保が戦われ、革
新勢力は高揚期を迎えることになりますが、キューバ革命はそこに肯
定的な影響を与えました。いろいろのスローガンの中にキューバ革命
に連帯しようというのもありました。
キューバ革命を一口に語ることはできませんが、その本質を見事に
描いたアメリカ映画があります。それは「ゴッドファザーパートⅡ」です。
マイケル・コルレオーネはマフィアのボスですが、キューバにカジノを出
す計画を持ってハバナへ行き、そこである光景を目撃します。政府軍に
捕まったゲリラが路上で射殺されるとき口々に「フィデル万歳・・!」と叫
ぶのです。これを眼にしたマイケルは「革命軍が勝つのでは・・」とつぶ
やきます。同乗していた現地の案内人は「こんなことは10年も前からつ
づいている。政府軍にはアメリカがついているから大丈夫だよ」と説明
しますが、事態はマイケルが予感した方向へ急展開します。
大統領招待のレセプションにマイケルもアメリカの投資家として招か
れ大統領の歓迎挨拶を聴いているその席に重大ニュースがもたらされ
ます。鎮圧に向かった筈の政府軍が反乱を起こして革命軍に寝返り逆
にハバナへ向かって進軍中というのです。たちまち会場は大混乱、大
統領をはじめ政府要人は先を争って空港へ向かいアメリカへ亡命して
しまいます。
暗黒街に生きる人間ののし上がるために発達した嗅覚、鍛えられた
自己防御の本能的能力があったから事態を予感できた、と映画は言っ
ているようです。そうだ、そうに違いないと私も思いました。
ハヤトウリ
8月の暑さに一度は枯れてしまったハヤトウリですが10月になって新しい蔓が伸び出して実をつけ今は急速に太り始めています。と言っても例年に比べると生育は遅く降霜との競争となっています。
菜 園
下3本はキャベツ、上3本は白菜です。こちらは順調な生育です。でも大根などは虫害がひどく3回も蒔き直したので生育が大幅に遅れています。
水前寺公園の鴨は人に馴れています。このような至近距離から撮れるの
もそのためです。観光客から餌をもらうので自然とそうなるのでしょうね。
江津胡の鴨は警戒心が強くこのようにはけして撮れません。それにしても
美しい姿をしていますね。からだぜんたいが円やかで特に胸の曲線にやさ
しさが溢れています。これはヒドリカモだと思います。
般若心経を諷経するお坊さん
妙法蓮花経普門品 ミョウホウレンゲキョウフーモンボン
第始終忽多闇世間 ダイシージュウゴツタヤーミセーケン
子息大分遊興毎晩 シーソクダイブンユーキョウマイバン
三味線音曲滅多無正 シャミセンオンギョクメッタームーショウ
夜前大食翌日頭痛 ヤ-ゼンタイショクヨクジツヅツウ
八百羅利古灰笑止千万 ハッピャクラーリーコツパイショウシ-センバン
近辺医者早速御見舞 キンペンイーシャ-サッソクオンミーマイ
調合煎薬吞多羅久多良 チョウゴウセンヤクノンダラクッタラ
腹張多心経チイン・チイン ハラハッタシンギョウ
今日は膝栗毛の読み合わせ会でしたが、熊本もこの冬一番の冷え込みでし
た。東京は積雪があったと昼のニュースで報じていました。全国的に寒い一日と
なつたようです。
さて、上記は一九一流のおふざけですが、般若心経を模しておかしみの極み
ですね。こういう奇智縦横の才が膝栗毛にはいたるところに見られます。ここを
読み終わったところで近田綾子さんが本物の般若心経を暗誦されました。一
巻を暗記されているのです。これにはまた驚きました。
太宰府天満宮参道はお祭りのような賑わいでした。梅ヶ枝餅のお店には行列が
出来ています。11月は七・五・三などのために参拝客が増えるそうで着飾った親
子連れが目立ちます。雑踏の中に托鉢僧が低くお経を唱えながら立っていまし
た。これは雲水とは違うと思いますが衆生に喜捨を求める行為は同じですね。若
い人が喜捨するのを見かけました。わが国は仏教国なのですね。九州国立博物館では鳥獣戯画展をやっていました。
皇帝ダリアはメキシコ中米原産とありますが、いつ頃わが国へ入って
来たのか不明です。昔は無い花でした。これからはエキゾチックの範疇
にメキシコ・中米を加えねばなりませんね。
秋空を深め皇帝ダリアかな 礁 舎
礁舎は管理人の俳号、下手な句でゴメンナサイ・・・。
拾った蹄鉄のことを先日の記事に書きましたが、全くの偶然からこの蹄鉄
に意外な可能性の存在することを発見しました。ミステリアスでなかなか面
白い経緯があります。
先ず拾った所ですが、荒木宮という村社クラスの神社の境内です。この神
社は狛犬に人気があるらしくネットの書き込みも多いです。蹄鉄は4月の
地震で鳥居が落ちてその後片付けの際に掘り出されたらしく楠の根方にさ
りげなく置いてありました。第一発見者のその処置はなんとなく分かります。
元の場所に埋め戻すのも芸のないこと、と言って持ち帰っても仕方のないこ
とで、とりあえずそこに置いたものと思います。
それを私が拾い持ち帰ったのですが、私の場合も蹄鉄に特段の意義を見
出した訳ではないく、子供時代の記憶を呼び覚まして懐かしく思っただけで
した。
社名が分からないので由緒など調べようもなく、二度目の訪問になりまし
た。私が調べたかったのは境内にある五百年記念碑でした。碑が建立され
たのは昭和8年とあります。これは何の碑だろうというのが疑問で地元の人
に聞いてみようと思ったのです。
発見場所 左下隅楠の根方の窪みの前に立てかけてありました。
地元の人来ないかなあと神社の前でまっていると、まことにうってつけの
おじいちゃんが犬を連れて通りかかりました。先ず社名を訊きました「荒木
宮」と判明、五百年碑は創建五百年ということでした。「今年は583年になり
ます」とその人。「わたしは昭和8年生まれですから」なるほどとナットク。
神社の周りに住宅はなく田んぼの真ん中に建っている。楠6本、銀杏3本が市の指定樹木になっています。雰囲気のある杜ですね。
いろいろ質問する中で蹄鉄のことを言ってみました。「戦時中この神社に
は比叡部隊という軍隊が野営していて、10数頭の軍馬がいた。その馬の
蹄鉄じゃなかろか」というセリフが出ました。「親父は区長をしていて軍の世
話もしていたためか、終戦になったときその部隊の馬を1頭もらいました。」
この人は終戦の時12才になっていたからこの記憶は信用できます。
それで軍馬についてネットで調べました。その結果「日本釧路種」という馬
種にたどり着きました。この馬は昭和12年(1937)に改良品種として完成
します。体高148cmと小型でありながらパワーもあり耐久力に優れ将校の
乗馬用あるいは輜重運搬用として大活躍をしたらしい。軍歌「愛馬進軍歌」
などに描かれているのはこの馬だと思います。
この蹄鉄を手にしたとき「小さい・・」というのが私の印象でしたが、小型種
と判明すればそのことが腑に落ちます。比叡部隊が編成されたのは昭
和20年4月沖縄戦を目前にしてさらに本土決戦に備えるためでした。兵員
は20,000人それが続々と京都から熊本入りをしている最中に終戦となりま
した。
この蹄鉄がその時のものである可能性は非常に高いと思います。第1の
理由は蹄鉄が小さいこと。第2は農耕馬は蹄鉄を着けないこと。第3は馬車
牽き馬は鍛冶屋で打ち替えるから神社などに蹄鉄を持ち込むことはまず考
えられないこと等です。何気なく拾った蹄鉄に意外な背景のあったことに驚
いています。
句会日時 2016-11-17 10時
句会場 健康ふれあい広場 2 F
出席人数 6人
指導者 山澄陽子先生(ホトトギス同人)
出句要領 3句投句 3句選 兼題なし
世話人 近田綾子 096-352-6664 句会出席希望の方は左記へお電話ください。
次 会 12月16日(金)10時パレア9F
兼 題 短 日
右三人目山澄先生
公園の水元に戻ったようです。
古今伝授の間
山澄陽子選 特選十句
苑めぐる人を映して水澄めり 安月子
能楽堂閉ざしひつそり落葉かな 綾 子
餌をばかふ鴨の下行く緋鯉かな 礁 舎
木々のなかただ一本の紅葉の木 武 敬
樟の実を啄む鳩や神の留守 礁 舎
紅葉も茶店もうつす湖水かな 綾 子
店先に雀寄り来る小春かな 礁 舎
石蕗の花歴史を偲ぶ鳥居跡 安月子
秋日和参道に聴く韓国語 武 敬
吾前に鴨しぶきあげ泳ぎきし 茂 子
先生の三句
千年を涸るることなき神の水 陽 子
水前寺水の輪数多冬はじめ 陽 子
地震の傷癒えて豊に冬の水 陽 子
写真は拾った蹄鉄です。拾った場所は田園風景の中にある小さな神社ですが、神社のことは別の機会に掲載します。ここでは村の鍛冶屋について漱石の「二百十日」の冒頭部を引用して子供時代を懐かしみたいと思います。
一
ぶらりと両手を垂げたまま、圭(けい)さんがどこからか帰って来る。
「どこへ行ったね」
「ちょっと、町を歩行(ある)いて来た」
「何か観るものがあるかい」
「寺が一軒あった」
「それから」
「銀杏の樹が一本、門前にあった」
「それから」
「銀杏の樹から本堂まで、一丁半ばかり、石が敷き詰めてあった。非常
に細長い寺だった」
「這入って見たかい」
「やめて来た」
「そのほかに何もないかね」
「別段何もない。いったい、寺と云うものは大概の村にはあるね、君」
「そうさ、人間の死ぬ所には必ずあるはずじゃないか」
「なるほどそうだね」と圭さん、首を捻る。圭さんは時々妙な事に感心す
る。しばらくして、捻ねった首を真直にして、圭さんがこう云った。
「それから鍛冶屋の前で、馬の沓を替えるところを見て来たが実に巧み
なものだね」
「どうも寺だけにしては、ちと、時間が長過ぎると思った。馬の沓がそん
なに珍しいかい」
「珍らしくなくっても、見たのさ。君、あれに使う道具が幾通りあると思う」
「幾通りあるかな」
「あてて見たまえ」
「あてなくっても好いから教えるさ」
「何でも七つばかりある」
「そんなにあるかい。何と何だい」
「何と何だって、たしかにあるんだよ。第一爪をはがす鑿と、鑿を敲く槌
と、それから爪を削る小刀と、爪を刳る妙なものと、それから……」
「それから何があるかい」
「それから変なものが、まだいろいろあるんだよ。第一馬のおとなしいに
は驚ろいた。あんなに、削られても、刳られても平気でいるぜ」
「爪だもの。人間だって、平気で爪を剪るじゃないか」
「人間はそうだが馬だぜ、君」
「馬だって、人間だって爪に変りはないやね。君はよっぽど呑気だよ」
「呑気だから見ていたのさ。しかし薄暗い所で赤い鉄を打つと奇麗だ
ね。ぴちぴち火花が出る」
「出るさ、東京の真中でも出る」
「東京の真中でも出る事は出るが、感じが違うよ。こう云う山の中の鍛
冶屋は第一、音から違う。そら、ここまで聞えるぜ」
初秋の日脚は、うそ寒く、遠い国の方へ傾いて、
淋しい山里の空気が、心細い夕暮れを促がすなかに、かあんかあんと
鉄を打つ音がする。
蜜柑の挿絵がいいですね。例によってbenさんの作ですが、枯れた描線が形と色彩をぐっと引き締めています。俳句ではこのような例句を知りません。
雑詠より九句 連葉子選
落蝉の掃かれ切なき声あぐる 東京 向江八重子
片陰の献血車にて献血す 札幌 山岸博子
ひめむかしよもぎを揺らし列車過ぐ 島原 原田祥子
帰燕のち空広くなり高くなり 島原 林三枝子
若者の声にぎやかに島晩夏 宇城 橘一瓢
斑猫の誘ひに乗ればぬかるめり 人吉 野元八重子
マネキンの八頭身に秋来る 札幌 中山双葉子
秋の蚊に悲鳴のあがる美容院 群馬 河本育子
会釈して休まぬ掃く手涼しかり 東京 福島公夫
通りに立て看板を出してもらいました。
膝栗毛は7人の読み合わせ会ですが、今回は14人の参加があり盛会でした。写真右端が清田先生。
世話人の今村さんの奔走で講演会を開催しました。出席者は14名、講師は清
田家住宅の当主で江戸時代の貨幣制度に詳しい清田泰興先生におねがいしま
した。
【講演要旨】
15世紀大航海時代が興り、新大陸の発見等世界はグローバル化への一歩を踏み出した。日本ではザビエルの来航を機に南蛮貿易が勃興、通貨問題(金銀銭の交換レート)が意識されるようになる。そういう経験を経て慶長14年(1609)徳川家康によって通貨が統一され、小判1両=銀50匁=銭4,000文という交換レートが定められた。これを慶長の幣制という。
この三貨制が江戸時代270年間に亘って機能した制度であった。しかし幕府の経済的基盤の弱まりが徐々に進行し慶長幣制の品位を保てなくなった。全期を通じて9回に及ぶ貨幣の改鋳が行われ改鋳の度に金の含有率が下がり、質の低下は覆うべくもなかった。そして混乱の幕末期を経て明治に至る。
講演の要旨はおおむね上記のとおりですが、個別には金銀vレートの変動と二重構造の問題、銭価の著しい下落、幕末に起こった金の大量流出、更には藩札の普及など大変興味深いお話で、質疑応答ではレベルの高いやりとりもありました。
太刀洗いの場
菊池市市民広場にある武光公の銅像
福岡県太刀洗町にある武光公の銅像(ネットより取得)
菊人形は鎧を模った花が十分に咲き揃っていませんが、これが咲き揃ったら見事な人形に仕上がることでしょう。
少し不満を言わして貰えば、武光公の面貌が凄惨な合戦に臨む武将の表情としてはリアリティに欠けるのではないか、もっと臨場感あふれる形相にしてほしかったということです。これではマネキン人形のようで迫力に欠けます。
「太刀洗いの場」というのは「筑後川の戦い」で武光公が血塗られた太刀を洗う場面のこと。筑後川支流の太刀洗川及び同町名はこの故事に由来すると言われています。この合戦は関ヶ原、川中島と並び称される日本三大合戦の一つで南北朝時代にあった合戦です。
菊池市の武光公銅像は平成に入って町興しのために建造されました。ところが太刀洗町にもあるのです。なぜなのか、同町教育委員会に問い合わせたら昭和12年の建造で趣意、目的などは当時の記録類がなく分からないということでした。
ここから先は私の個人的な考察で恐縮ですが、昭和12年といえばあの2・2・6事件の翌年であり、日本は日中戦争の泥沼にはまり込んで、軍部の独走が止められなくなっていた時代です。戦意高揚のために住民の意思などには頓着せず軍主導で建造されたのではないか。
南朝の忠臣であった菊池一族の顕彰碑があちこちに建造され始めるのもだいたいこの時期です。戦後軍国主義が否定されGHQの銅像追放令などにより関連の建造物が取り壊されますが、その時期を乗り越えて今日に遺ったのは、例えば萩市にある山県有朋像と同じく彫刻の見事さ、芸術的価値の故ではないかと思います。