写真は平井さん購入の江戸往来です。例によってヤフーオークションで隅田川往来と併せ購入されたとか。隅田川往来はすでにアップしましたがこれは手持ち本としてアップできます。
今日は見学者四人のうちお二人が入会されました。このところ毎回見学者があり、古文書を勉強したい人が特に女性の中に増えているのを感じます。心強いことですね。
写真は平井さん購入の江戸往来です。例によってヤフーオークションで隅田川往来と併せ購入されたとか。隅田川往来はすでにアップしましたがこれは手持ち本としてアップできます。
今日は見学者四人のうちお二人が入会されました。このところ毎回見学者があり、古文書を勉強したい人が特に女性の中に増えているのを感じます。心強いことですね。
下は会員中川さんの作詞で「甦れ嗚呼熊本城」という題名ですが、七五調の韻
を踏んでなかなか立派な詩です。これは今月出る新老人の会支部会報に載る
そうです。
1級建築士の中川さんにこんな才があるとは知りませんでした。この詩は三橋
美智也のヒット曲「古城」の音律で唄えるそうです。
今日は新年初めての読み合わせ会で7人全員集合でした。膝栗毛の変体カナ
はそろそろ卒業という感じで読む速度が上がり時間が余るので、別の文書を少
しづつ読むようにしています。
今日は入会希望の方が1人参加されました。今年はもう少し会員を増やしたい
ですね。見学に来られた女性の方入会されたらいいなあと思っています。
般若心経を諷経するお坊さん
妙法蓮花経普門品 ミョウホウレンゲキョウフーモンボン
第始終忽多闇世間 ダイシージュウゴツタヤーミセーケン
子息大分遊興毎晩 シーソクダイブンユーキョウマイバン
三味線音曲滅多無正 シャミセンオンギョクメッタームーショウ
夜前大食翌日頭痛 ヤ-ゼンタイショクヨクジツヅツウ
八百羅利古灰笑止千万 ハッピャクラーリーコツパイショウシ-センバン
近辺医者早速御見舞 キンペンイーシャ-サッソクオンミーマイ
調合煎薬吞多羅久多良 チョウゴウセンヤクノンダラクッタラ
腹張多心経チイン・チイン ハラハッタシンギョウ
今日は膝栗毛の読み合わせ会でしたが、熊本もこの冬一番の冷え込みでし
た。東京は積雪があったと昼のニュースで報じていました。全国的に寒い一日と
なつたようです。
さて、上記は一九一流のおふざけですが、般若心経を模しておかしみの極み
ですね。こういう奇智縦横の才が膝栗毛にはいたるところに見られます。ここを
読み終わったところで近田綾子さんが本物の般若心経を暗誦されました。一
巻を暗記されているのです。これにはまた驚きました。
歌麿 柱かくしゑ
「五大力のぴらぴら」は上の絵にある簪のことで享和の頃江戸の遊女の間で
流行っていたらしい。駿州三島宿の飯盛女お竹もこれを挿していた。
上部の雲型に三本の鎖を通しその鎖の先に銅板を刳り抜いた五大力の三文
字をぶら下げたものだが、銅板には金又は銀のメッキが施してあり、それがぴ
らぴらと揺れると大変きれいで、遊女たちはその美しさを好んだ。
尤もお竹のような下層の飯盛りには高価過ぎて買えないので水銀をこすりつ
けて製する銀流しというまがい物でごまかしていた。大枚二四文をはたいて
買ったとお竹は言うが、二四文というのはささやかな価格である。
弥次・喜多は親子という触れ込みで道中を続けて来たが、それは飯盛り除けの偽装であった。
親子連れの客に飯盛りを勧める宿はないだろうという推察は的中して路用の節約になっていたのだが、もともと遊び人の二人にいつまで我慢できる訳もなく、
ついに三島宿で飯盛りを買うことになった。弥次の相方はお竹、喜多のはおつめときまった。さてどういう珍騒動がもち上がることやら・・・
梅わかな鞠子の宿のとろろ汁 芭 蕉
「猿蓑」撰のころ芭蕉は京都に滞在していましたが、弟子の乙州(おとくに)が仕事で江戸へ下るというので、その旅立ちに餞として与えた句です。
梅が咲き、野には若菜が芽吹いています。これから追々よい時候を迎えますが、旅すがら鞠子宿を通るときには是非ともとろろ汁を食べて元気をつけてください、というほどの句意ですが、しみじみとした芭蕉の真情が鞠子という地名の響きと相俟ってゆかしく伝わって来ます。
一方、同じ鞠子宿でも一九の描写はまるで違っています。こちらは散文ならではの面白さで、会話体の文章に畳込むようなリズム感があり、方言のおかしみが利いて読み進むにつれ、ついには吹き出してしまいます。
喜多「コレ、飯を食おうか。ここはとろろ汁が名物だの」
弥次「そうよ、モシ御亭主、とろろ汁はありやすか」
亭主「ヘイ、今出来ず」弥次「ナニ出来ねえか。しまった」
亭主「ヘイじっきにこしらえずに、ちいと待ちなさろ」
と、にわかに芋の皮もむかずに、さっさっとおろしにかかり、
亭主「おなベヤノ、おなベヤノ、この忙しいになにをしている。ちょっくりこ
い、ちょっくりこい」
と、けわしく呼び立てると、裏口から小言をいいながら来るのは、女房とみえ、髪はおどろおどろに振りかぶったのが、背中に乳飲み子を背負い、藁ぞうりを引きずって来て、
女房「今、弥太ァのとこのおん婆どんと、話をしていたに、やかましい人だヤァ」
亭主「ナニやかましいもんだ。コリャそこへお膳を二膳こしらえろ。エヽ、ソレ前
だれが引きずらァ」
女房「お前、箸の洗ったのゥ知らずか」
亭主「ナニおれが知るもんか。コリャヤイ、その箸をよこせャァ」
女房「これかい」
亭主「エヽ箸で芋がすられるもんか。すりこぎのことだハ。コリャさてまごつくな。その膳へつけるのじゃないわ。ここへよこせと言うことよ。エヽらちのあかない女だ」
と、すりこぎをとって、ごろごろと芋をする。
女房「ソレお前、すりこぎがさかさまだ」
亭主「かまうな。おれが事より、うぬがソリャァ海苔がこげらァ」
女房「ヤレヤレやかましい人だ。このまた餓鬼ゃァ、おんなじように吠えらァ」
亭主「コリャすりばちをつかまえてくれろ。エヽそう持っちゃァすられないハ、手におえないひょうたくれめ」
女房「ナニあんたがひょうたくれだ」
亭主「イヤこの阿魔ァ」
と、すりこぎで一つ食らわせると、女房はやっきになって、
女房「コノ野郎めハァ」
と、すりばちを取って投げると、そこらあたりへとろろがこぼれる。
亭主「ヒャァ、うぬ」
と、すりこぎを振り回して立ちかかったが、とろろ汁に滑ってどっさりところぶ。
女房「アンタに負けているもんか」
と、つかみかかつたが、これもとろろ汁に滑りこける。向かいの家のお神さんが駆けて来て、
お神「ヤレチャまた、みっともないいさかいか。マァしずまりなさろ」
と、両方をなだめにかかり、これも滑ってころんで、
お神「コリャハイ、なんたるこんだ」
と、三人がからだ中、とろろだらけにぬるぬるになって、あっちへ滑り、こっちへころんで大騒ぎ。
弥次「こいつは始まらねえ。先へ行こうか」
と、おかしさをこらえて、ここを立ち出て、
喜多「とんだ手合いだ。アノとろろ汁で一首詠みやした」
喧嘩する夫婦は口をとがらして 鳶とろろにすべりこそすれ
早飛脚
上の挿絵は二本差しの早飛脚(大名飛脚)です。刀は走りに邪魔だろうにこの絵ではむしろ誇らしげに差しています。身分制度の一端を現わしていておもしろい。
弥次郎兵衛と喜多八は三島宿で護摩の灰に路用を盗られてしまい一文無しの道中を余儀なくされて、腹を空かしてふらふら歩いていると向こうから早飛脚が威勢よく駆けて来る。一九の筆力のあるところを再録してみます。
飛脚・・エイさっさ、エイさっさ、エイさっさ
喜多八・・なんだ野郎の韋駄天さまア見るように、やみと駆けてきやア
がる
弥次・・アゝうらやましい、あんなに駆けるいきおいだから、さだめてお
飯もふんだんに食ったろう
喜多八・・エゝおめへも乞食じみたことをいうもんだ
飛脚・・・エイさっさ、エイさっさ
喜多八・・ソレあぶねへ こっちへよんな
飛脚・・・エイさっさ、エイさっさ
ト、とおりすがいに御状箱のかどで弥次郎小びんさきへがったりとあた
る。
弥次・・・アイタゝゝゝゝ
飛脚(いさいかまわず)・・ エイこりやアサッサ エイこりやアサッサ
弥次・・・アゝ いたい いたいなんの因果でこんな目にあうか、おら
ア死にたくなった
喜多八・・エゝばかアいゝなせへ ソレ馬がきたア 以下略
享和2年(1802)吉原宿役人某手控え写し
1.吉原宿江戸へ34里(原宿へ道法3里蒲原へ3里)
御状箱送り順刻
1.無時御状箱京都ヨリ吉原迄30時、江戸ヨリ吉原迄9時、総刻 京
都ヨリ江戸迄42刻程
1.日州様一文字、江戸ヨリ名古屋迄24時程
1.紀州様江戸ヨリ若山迄凡50時程
1.雲州様三ツ判急御用
熊本藩の場合
江戸在府の光尚公より国元の藩主忠利公へ発送された書状は11日間で 着いている。
「寛永十七年八月九日 忠利公之御書七月廿七日之書状八月八日早々相届候(光尚公譜) 」とある。
月をまたいでいるので「長の月(30日)」とすれば11日、「短の月(29日)」ならばさらに1日短くなる。
江戸、熊本間の距離は1,200Kmくらい。これを11日間で届けているのだから、仮に飛脚11人でリレーするとすれば1人の受け持区間は110Kmになる。
この距離は時速9Kmで12時間走ればよいという計算になるが、現今マラソンランナーは時速19Kmくらいで走っているので、まあ妥当なところでしょうか。
八月は一回目がお盆にあたり休会としたので本日が一回目になりました。熊本の残暑はお盆を過ぎてもおさまる気配がなく、連日37度を超える猛暑つづき、いささかうんざり且つ辟易です。しかし会員の皆様は元気一杯、一人の欠席者もなく全員出席でした。
古文書解読の面白さが暑さを乗り切る一要素になっているようです。膝栗毛は活字本もありますが、直に古文書版を読む方が何倍も面白いのです。
今日からいよいよ後編に入ります。箱根の山を下りて大井川を渡るところまでが後編です。
序文から読み始めましたが面白い漢字というか表記に出会いました。
「鳥觜・潮来」
これは何と読むのでしょう。「チョウシ・イタコ」と読みますが潮来は分かりますが鳥觜とは何でしょうか。これは銚子の当て字なのです。
千葉県最東端の銚子市の地形は鳥の觜のようにとんがっているので、そこからの当て字なんでしょう。でもひょっとすると「鳥觜」が本義で銚子が当て字なのかもしれません。銚子市史などには記載があるかもしれません。
江戸から遠く離れたこんな地名が、なぜ出て来るかと言えば、一九が半年ばかりの間この地方の観光めぐりをしているからです。初編が大当たりして、書肆は大儲けをしたので、一九へ報奨金をだしたのでしょう。そのお金で遊び回っているのです。
しかし書肆の栄邑堂にしてみれば、遊ぶのはよいとしても、早く戻ってきて後編を書いてもらいたいのです。「鼻の下を長くして、鳥觜・潮来に居続けて尻を腐らしている」などと罵っています。売れっ子作家と出版社の関係は現代でも同じでしょう。
ともかくもその年(享和二年1802)の暮れになって一九は江戸へ戻ってきます。それからは正月の休養もなく缶詰状態に押し込められて書きまくったようです。それは
「ここに於て不得止事、終に前後二巻を編輯す。急迫なれば排設の中齟齬あることは見赦したまへ」と栄邑堂が書いているところからも推察できます。
中川さんの購入書籍
¥3.500したそうです。
書の下にそれを書いた人の名前があるのがユニークです。
上にありますがこれは良寛和尚の書です。なかなか貴重な書籍ですね。