古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

西福寺の古文書2

2018-07-06 10:44:10 | 一向宗

 寺歴によれば西福寺の創建は1566(永禄9)年、山本武重3男鬼熊丸が鮎帰村早水に天台宗の「昇道庵」を開基したのが初めと伝わる。
 この文書には1720(享保5)年の日付があり西福寺の寺号を認められるまでに154年の歳月を要していることが分かる。

端書無之
今度寺號西福寺と     今度寺號西福寺と
願之通遂言上候處     願之通り言上を遂げ候ところ
則被成 御免候間難    則ち御免なられ候間難
有可被存候依如此候也   有がたく存ぜらる可く候依て此の如に候なり
横田内膳  花押
享保五年
庚子七月八日

西光寺殿門徒光厳寺下
肥後国八代郡松求摩村

西福寺
  宗見

 文書にある西光寺殿というのは熊本市細工町にある西本願寺派の古刹で本願寺では熊本で最も古い寺院である。その門徒である光厳寺の更に下の寺格であると格付けている。宗見はその時の住持である。

 


西福寺の古文書

2018-07-04 17:09:33 | 一向宗

相良佛飯講宛 一通

端書無之
今般 思召を以
御開山様御影被下置候間
難有安置有之弥法義
無油断被為相続
御本山御馳走可有之旨被
仰出候也
          嶋田右兵衛尉
慶応三年卯年
六月廿七日      正誼  花押

肥後相良
 北山講中

 上の文書は京都の西本願寺から肥後相良北山講へ発給された文書です。日付は慶応3年とありこの時代人吉藩は浄土真宗は禁教でしたから親鸞上人の御影と文書は取り次ぎ寺である鮎帰り西福寺まで届けられました。
 さて、文書と御影を秘密裏に現地の講中へ届けるのは慎重を要する作業であったに違いありません。講中の門徒とも相談の上、文書は西福寺が保管し、御影だけが講中へ渡されたものと思われます。御影は失われています。

 

 


山田村伝助の志納金 銀三百目  西福寺古文書

2018-05-30 09:55:51 | 一向宗

  御印  銀三百目

今度於其地法義為相続毎月廿八日
仏飯講被相企
御門跡様へ右之通献上遂披露候處
かねて各法義之志深き故
御本山渇仰之思浅からず神妙ニ
思召候然ル上は弥あり難く被存毎月
懈怠なく被寄合互に心を合せ永く
御馳走可被申上候夫ニ付安心之趣は平生
聴聞の如く一念帰命のたちところに
仏のかたより往生治定せしめ玉ひ
光明摂取の御利益にあづかるを正
定衆の数に入とも申なり此信決
定之上外には
公儀之掟を堅く相守存命の間は
行住坐臥をえらばず報謝之称名
之相嗜可被遂此度之報土往生素
懐事肝要之旨被  仰出候依而
被顕     御印候者也
 申九月六日

             肥後求摩

             廿八日佛飯講
                  門徒中
             世話人

                  山田村伝助
             取次

                  西福寺

于時安永六丁酉九月 写之

 上は坂本町鮎帰西福寺に伝わる古文書である。
 28日仏飯講というのは隠れ念仏の門徒たちが、毎月28日に寄集まって念仏を唱え、僧侶の法話を聴く寄合のことである。寄合は秘密の中に行われるので、毎月の事となればいつも他領から僧侶を招くわけにはいかないから、世話人の伝助がその代役を勤めていた。この世話人を毛坊主と言う。毛坊主は読み書きができて人望があり信仰心の篤い者でなければ務まらなかった。
 伝助は親子2代にわたる毛坊主であった。伝助の信仰が露顕したのは安永5年(1776)の宗門改め時と云われ、この文書の日付は「申九月廿一日」となっており、本山の文書発給はその前年(1775)ということになる。従ってこの「銀三百目」の志納金は伝助自身が肥後峠を越えて西福寺へ持参し本山への取次を依頼したことになる。そしてその翌年の安永6年(1776
)伝助は処刑され、その年の9月にこの文書が写し取られたことになる。

 

 


相良道(とのさま道・あぜち道) 林道 坂本山江線

2018-05-28 12:32:37 | 一向宗

 相良氏は13代当主長毎公の時から18代当主義陽公までの約80年間に亘って八代を統治した。城地は球磨川右岸古麓にあり、その東側の山岳地帯、主に尾根沿いの山城として築かれた七つの城塞は、名和氏時代の五つと、相良氏時代の二つに色分けできる。
 相良氏は16世紀初頭、名和氏との覇権争いに勝利して八代に城地を得、球磨・芦北・八代の3郡の覇者となったが、名和氏は滅亡したわけではなく宇土に城を構え失地回復の機会を狙っていたので、両者は常に緊張関係にあった。
 相良氏は八代で事が起った時に素早く軍勢を人吉から呼び寄せる必要があり、人・馬・荷駄を通す規模を有する軍用道路がどうしても必要であることから相良道は建設された。
 その総延長は正確には分からないが40Kmは越えていたであろう。40Kmの山道を一日で踏破することは出来ない。そのために山中の中間点に休泊所を設けていた。その場所は下の地図で説明すると、郡境にある「水無越」の球磨郡側のすぐ下に「あぜち谷」という適地があり、そこに「ゼンカク屋敷」があったと伝えられている。その屋敷跡を写真に撮った人があるというので、いつかここにアップしたいと思っている。

 この地図は郡境に立ててある看板を写真に撮り少し手を入れて仕上げたものであるが、同様の地図を一般人はどこからも手に入れることはできない。国土地理院の5万分の1地図も、途中までしか記載がなく、それは道路管理者が地図に書き込むことを望まないから・・ということであった。
なぜ望まないのか、観光客が押しかけて交通量が増えれば道路維持費用がかさみ、とぼしい財源の中からあらたな予算化はきびしい・・ということであった。
 さて、
この道路の正式名称は「森林基幹道 坂本山江線 建設初期のころは(ふるさと林道と称していた。)」と云う。27年の歳月と60億7千万円の事業費を投じて平成20年度に完成した林道である。坂本町大門を八代市側の起点とし、球磨郡山江村水無にいたる総延長27.9Km、幅員5mの実に立派な舗装道路であるが、 この道路の面白いところはその前身が戦国大名相良氏が八代、人吉間を最短でつないだ軍用道路の一部であるところにある。特に一部というのは郡境の「水無越」より人吉城までの区間及び八代側の大門から古麓の8丁山までを含まないからである。
 私は若いころ坂本村に居住していたが、荒瀬ダム右岸の山の尾根、坂本駅裏の山の尾根などを険阻な山だなあと思って眺めていたが、その尾根に相良氏の軍用道路が通じていたなど想い及ばぬことであった。
 ここから先は私の推測に過ぎないのだが、この道は大門に下りるのではなく藤本、松崎等を左に見下ろして一旦油谷川へ下りた後は、中谷川、深水川、釈迦堂川と下りては上りを繰り返して8丁山まで尾根道を一直線にたどったのである。
 この道は徹頭徹尾山岳道であり、村里へ下りるのは川を越すためにやむを得ず下りるのであった。そうした方が最短コースになるということもあろうが、行軍を敵にさとられてはいけないという用心もあったことだろう。
 この道が八代、人吉間をつなぐ軍用道路、連絡道路として機能したのは前にも述べたように相良氏が八代を統治した80年間であり、それ以後は次第に廃道へと向かう。江戸時代に入って一時期参勤交代の道として使われたこともあるが、寛文年間に球磨川の開鑿による舟運が開かれると往路は舟運、帰路は佐敷、一勝地道となり相良道は主要道としての役割を終えることになる。

坂本駅裏の尾根ここを相良道が通っていた。

左に見えるのは鮎帰大平発電所である。この道が肥後峠とは別ルートであることが分かる。

12%の急坂である。その先下り。

こちらは上り急坂。やがて郡境の「水無越」に至る。


 


坂本町西福寺の古文書  仏飯講

2018-05-10 12:00:20 | 一向宗

 本願寺からのこのような文書送付はそんなに珍しい事ではないのですが、この文書が西福寺に遺っているところが注目点です。文書の宛先は「肥後求摩仏飯講門徒中」となっており、西福寺はこれを宛先の所へ届けているのです。否、届けるというより門徒の方から取りに来たというべきかもしれませんね。 「仏飯講」というのは隠れ念仏の門徒たちが密かに集まって仏に飯を供えた後それを全員で食べさらに「ナンマイダー」を繰り返し唱えて団結をつよめる宗教儀式です。また弾圧に抗して法灯を守り維持するために編み出した組織形態とも言えます。

 では、文章を読んでみます。

 

今般 思召を以講相続のため

御印書被成下候末々寄講退転なき様に

出精せらるべく候誠に当流安心の一途ハ

何のやうもなくもろもろの難行雑修

自力の心を捨はなれ一心に阿弥陀如来

今度の一大事の後生たすけ給へと

ふかくたのミ奉れハ不可思議の願力ニよつて

一念の立所に光明摂取の大益を蒙り

順次報土往生を遂しめ給ふ事

疑あるべからず候此信決定の上には

王法国法仁義五道之道を守り存命

之間ハ法義無油断相続せられ仁恩報謝

之称名被相続可被遂今度の報土往生之

素懐事肝要之旨被 仰出候依而被顕

御印候者成

  明治四年申年

     二月 晦日

肥後国求摩

廿八日佛飯講

門徒中

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


坂本町西福寺の一向宗文書

2018-05-09 00:34:23 | 一向宗

 坂本町鮎帰地区に一向宗(浄土真宗)の門徒組織が存在したことを窺わせる古文書が西福寺にありました。文書には大永7年(1522)の記述が見え鮎帰のような山中の集落にこんな古い時代に門徒組織が存在していたことに感銘を受けました。以下に翻刻文を掲載します。

御本尊証如上人御判大永七乙亥八月当村へ

始而頂戴而勢免村大蔵宅ニ安置ス頂戴願主之

銘々

  尾俣江村 

     久九郎

     郡兵衛

     山下村

      波右衛門

     﨑右衛門

     小鶴村

      名之助

      分右衛門

    坂下村

     利兵衛

     関助

    以祢異里村(稲入村)

     幸右衛門

     千千代

    渡里瀬村

     老松

     万千代

    干田地村(日田地)

     飛弥太

      安之助

     惣見村

      形部丞

      冨之丞

     古屋敷村

      藤太夫

    上り俣村(登俣村)

     長九郎

     対之丞

   日光村

    杢右衛門

    摩之丞

   辻村

    有右衛門

    主水左衛門

   川原谷村

    伝之新

    玄番

   勢免村(責村)

    葭之助

    大蔵

   洗俣村

    金蔵

    半左衛門

   平村

    銀十郎

    式部左衛門

   大平村

    石右衛門

    兵部丞

   □□村

    亀之助

    弥五兵衛

同志鮎帰惣百姓中

享禄元年戊子正月吉日

    八代住人

       渡邊家重書之