古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

「町在」御内意之覚 矢嶋忠左衛門 倅 源助2

2019-02-22 10:22:29 | 町在


熊本県立図書館蔵

御内意之覚
         中山手永御惣庄屋ニ而
         病死仕候矢嶋忠左衛門倅
              矢嶋源助

右者親跡相当ニ被召出砥用手永御山支配役
被 仰付被下候様委細太郎八より御内意仕置候
處津直支配所内ニ而無余儀繰合せ之筋
有之此節申談右御山支配役被 仰付被下候様
奉願候儀は御取捨被下左候而親跡相続被

仰付候上当七月病死仕候池田瀬左衛門跡南
関手永唐物抜荷改方御横目在勤中
緒役人段被 仰付被下候様於私共奉願候左候ハバ
御郡代手附横目並内田会所見締兼帯
申付度奉存候右ニ付而内実之事情は巨細
口達を以御内意仕置候色々御座候間彼是可然
被成御参談可被下候 以上
  九月            杦浦津直
                蒲池太郎八

上記覚は初め蒲池太郎八名で「砥用手永御山支配役」へ推薦していたものを「南関手永唐物抜荷改方横目役」へ変更されている。その理由について「津直支配所内ニ而無余儀繰合せ之筋有之」、「内実之事情は巨細口達を以御内意仕置候色々御座候間」と歯切れの悪い弁明をしている。杦浦、蒲池は下益城郡代である。

 

熊本県立図書館蔵

  覚

        中山手永御惣庄屋並
        御代官兼帯ニ而病死
        仕候矢嶋忠左衛門 倅

             矢嶋源助

右者別紙申立之趣ニ付見聞仕候處人物
宜筆算相応ニ仕才力も有之候由之處些
出過候生質ニ而人和薄様子ニも御座候得共
御郡代手附横目役之儀は抑揚筋之取扱は

無之且内田会所之儀間ニは不締之儀も
有之哉ニ御座候処源助儀手強仕懸も有之候
由ニ付申立之通被 仰付候而も相勤可申
人物と相聞申候尤亡父勤年数之儀本紙
書面之通承申候 以上

卯十月    渡邊平兵衛 印

※ この覚は郡代に提出する矢嶋源助にたいする内申書である。これを作成したのは中山手永郡代手附横目の渡邊平兵衛であった。郡代手附というのは御惣庄屋と同格であり、職務上は同僚でもあるので、平兵衛にとって同僚の子の考課をするのは気の重いことだったろう。けれども彼は源助の人となりを公平に評価している。「些出過候生質ニ而人和薄く」と源助の欠点をよく見抜いている。
 源助は横井小楠の弟子であったことから明治3年には中央政府に登用され「大丞」という職に就く。これは土木職の高官であったが、「出過候生質」が禍して上役に憎まれ、左遷の憂き目に遭って郷里杉堂村に引っ込まざるを得なくなる。



       熊本県立図書館蔵

 

僉議
源助儀達之通ニ而父矢嶋忠左衛門御惣庄屋
被 仰付惣年数三十八年之勤ニ而相果候付
極之通御郡代直触末席可被
仰付哉且直ニ砥用手永御山支配役被
仰付在勤中諸役人段被 仰付被下候様
達之通御座候處猶御郡代申談之趣
有之右之達は御取捨被下南関手永
唐物抜荷改方御横目被 仰付被下候様
左候ハバ御郡代手附横目並内田会所
見締兼帯申付有之度由別紙
達之通ニ付南関手永唐物抜荷

改方御横目被 仰付在勤中諸役人段
可被 仰付哉

右僉議之通卯十一月十一日達

僉議は熊本城内郡間で奉行たちによって行われる。そこに郡代も同席するのであろう
「口達を以て御内意仕置候」という文言があった。

 


「町在」御内意之覚 矢嶋忠左衛門 倅 源助

2019-02-21 15:56:32 | 町在


                                熊本県立図書館蔵

  御内意之覚

中山手永御惣庄屋御代官兼帯ニ而病死仕候矢嶋忠左衛門

             
矢嶋源助
               三十四歳

右者父矢嶋忠左衛門儀文政元年沼山津手永
蝅桑見締申付同四年正月手永見締申付け
同六年九月御郡代手附横目役申付同九年

五月唐物抜荷改方御横目在勤中諸役人段
被仰付天保八年五月上益城井樋方助役
兼勤申付同年十月親跡御郡代直触
本席相続被仰付同年同月御郡代附御横目
被仰付同九年二月湯浦手永御惣庄屋当分
御代官兼帯被仰付同十二年十月中山手永江
所替被仰付同十四年六月右本役被仰付御知行

 上記文書は熊本県立図書館が蔵している「町在」です。「町在」は熊本藩の被支配階級である農民、町人階級の藩政に対する褒賞記録です。ここに登場する人物は在においては惣庄屋以下の手永役人、村役人など、また町においては町別当などの町役人です。


                             熊本県立図書館蔵

高弐拾石被下置嘉永四年八月御知行高拾石被
増下当年迄役方三十八年出精相勤居申候処
当六月病死仕候右源助実体成者ニ而才力も
有之筆算も相応ニ仕一体篤志之者ニ而弘化
三年親代役も被仰付置往々一稜御用ニ相
立可申と見込申候間親跡相当ニ被召出被下直ニ
病死仕候篠原三左衛門跡砥用手永御山支配役

被仰付在勤中諸役人段被仰付被下候様有御座
度於私奉願候此段御内意仕候条宜被成御参
談可被下候以上

安政二年八月      蒲池太郎八

御郡方
 御奉行衆中

  これは郡代蒲池太郎八が郡方へ差し出した伺文書です。県立図書館の許可を得ていますのでしばらくの間町在を掲載して行きます。

 

 

 

 


鶴亀句会 2月例会   2019-2-14

2019-02-15 12:52:47 | 鶴亀句会

会日時   2019-2-14  10時

句会場        パレア9F 鶴屋東館

出席人数   8人  

指導者    山澄陽子先生(ホトトギス同人)

出句要領  5句投句 5句選   兼 題  笹鳴

近田綾子 096-352-6664 出席希望の方は左

次 会   2月15日(金)10時パレア9F  兼題 東風

山澄陽子選

小さきものなべて愛しき雛(ひひな)の目   小夜子
仕事果つ今宵は行かんおでん街        〃

梅咲くや二畳の広さ座禅石         礁 舎
春耕や市房山を楯として           〃

野良猫の跨いで行ける蕗の薹        優 子
笹鳴やふるさとの山忘れざり         〃

香煙につまづく弔辞冴返る         安月子
万蕾を抱き老梅の力瘤            〃

悴む手息きかけてなぞる句碑         興

教会の扉開くれば冴返る          武 敬
足のろき妻の見つけし犬ふぐり        〃

春こたつたのしみの減る休刊日       綾 子

 


矢嶋忠左衛門の妻三村鶴子の郷里 益城町櫛嶋

2019-02-12 23:14:40 | 熊本の偉人


 

 県道226号線を浮島神社の方へ左折して矢形橋を渡り1Kmばかり東へ行くと周囲を田に囲まれた小集落、櫛嶋があります。肥後国誌には、「櫛島村、井寺村ノ内、高弐百拾六石余、往古此辺海湖ノ時山上ヨリ望見レバ此所櫛ノ形ニ似タル島ナル故名付ケシト云伝フ古キ地名ナルヘシ」とあります。近くには彌生遺跡の井寺古墳などもあり、この辺は国誌が云うとおり古くから拓けた土地なのでしょう。

 

 右側の小高い山は飯田山、左方へ連なっているのは船の山、左側に幽かに俵山も見えています。三村鶴子はこの櫛嶋村に寛政10年(1798)庄屋三村和兵衛の長女として生まれました。和兵衛は後に廻江手永御惣庄屋に昇進します。鶴子は村庄屋の長女として女一通りの教育を受けて育ちますが、『矢嶋楫子伝』によれば「父母に孝で褒美をうけた心懸けの良い娘、才色兼備、手蹟は見事。父母に掌中の玉と愛でられる。」とあります。また、『津森村郷土誌』によれば「鶴子刀自は三村氏の出にして、矢島忠左衛門直明の室なり。夙に賢婦人の聞へ高く、良人の各地に歴任されるに従ひ、内助の功を全ふせられたるのみならず、日常の繁忙を極めつつある中、能く八人の子女を教養して倦まず、悉く偉人豪傑節婦として推奨すべき人たらしめたるが如き、寔に婦人の亀鑑とするに足れり」とあります。


熊野坐神社(クマノイマスジンジャ)

 益城町が出している案内板に御祭神は「イザナギ・イザナミ」の2神とあって勧請の時期や由来は不明とした後に大永年間頃集落の守護神として迎え、共同体意識を固めていった、とあります。大永年間といえば16世紀初め頃の戦乱に明け暮れていた時代ですが、その頃に櫛嶋は中世村落として発展の基を築いたわけです。三村氏の入植がいつ頃のことかか分かりませんが、鶴子の生まれた頃には、すでに村落共同体のシンボルとして神社が存在し、初詣、風祭り、紐解き、馬祭りなどが行われる祭日は賑わったことでしょう。鶴子は神信心の篤い女性でした。子供の病気や性癖で気になることがあると願掛けをして祈っていたそうです。そういう信心の原点がこの神社だったわけです。


矢嶋忠左衛門と湯浦手永

2019-02-08 20:41:55 | 熊本の偉人


現在手永会所跡は芦北町立「きずなの里」になっています。その前は湯浦小学校がありました。

 矢島忠左衛門は天保9年(1838)2月湯浦手永御惣庄屋兼御代官に抜擢されます。木山での働きが認められたのです。俸禄は20石(後に30石)でかなり裕福になりました。身分は一領一疋の軽輩であることに変わりありませんが、在勤中は諸役人段という郡代に次ぐ身分です。職務は一郷内の租税、法刑、土木、教育等一切を管理統括する任でした。これを現代社会に引き直してみると、首長であり、警察署長であり、税務署長であり、教育長であり、なかなか勢力がありました。
 ここでの忠左衛門の業績は後世に語り継がれるような目立たしいものはなかったようですが、御惣庄屋としての業務の中心は何と言っても農政であり就中干拓などの基盤整備であったはずで、そういう仕事に汗を流しながら行政官としての力を蓄える時期だったようです。それは中山手永への転任後に花開します。
 忠左衛門はこの地へ来て津奈木手永の御惣庄屋徳富太善次と親しくなり、やがてそれは家族ぐるみの交際に発展します。湯浦から津奈木へ陸路を往く場合、津奈木太郎という坂道があって1里ほどの道のりながら歩くのは難儀なことでした。そこで浦伝いの海路を使いました。これだと陸上よりはうんと楽に往来できます。
 あるとき徳富太善次が改まった顔をして忠左衛門に、4女久子を嗣子一敬の嫁に貰えないかという相談をもちかけます。その時久子は11、2才の少女でしたから、忠左衛門は驚いたことでしょうが、その要望は嘉永元年(1848)年に実現しました。
  
順子、久子、つせ子に「三姉妹の誓い」というのがあります。「わたし共姉妹三人は決してだらしない者になりますまい。身を清く、行い正しく女の道を踏みましょう。」という誓約の言葉を書いてそれぞれが署名しました。この時期の母鶴子の教育は論語、孟子、左伝などの漢文の素読に加え「姫鏡」などを読ませて女の生き方を教えていたようです。貝原益軒の「女大学」や大塚退野の「よめのしるべ」なども読ませていたと思われます。近代の女性解放の思想などは思いもおよばぬ時代でした。また、日奈久から三味線の師匠を招いて遊芸などもしっかり仕込みました。順子やつせ子は笛をよくしたと言われますから、そういう事も習わせたのです。実に鶴子という女性は賢母でありました。賢母であるだけでなく夫の忠左衛門をよく支える良妻でもありました、

 


手永会所跡。正面の建物は葦北町もやい直しセンター、同保健センターが入る「きずなの里」です。ここに小学校が建っていたのですから敷地は広大です。

 前にも書きましたが手永会所は御惣庄屋が家族と生活をする居宅でもありました。手永会所の間取図などもどこかにあるのでしょうが今のところ未発見です。会所敷地には付属設備としての各種倉庫があり、また会所見習いなどが寝泊まりする宿泊設備など、さらに犯罪者を留め置く留置場などもありました。
 こういう政治、行政の中心にいて生活する忠左衛門の娘たちは普通の家庭の子女とは、やはり異なる人格を育んだことでしょう。矢嶋4賢婦人の事績を考えるときこの点を考慮に入れないわけにはいきません。
 ここに天保9年(1838)における
一家の諸元を記しておきます。忠左衛門(44才)、妻鶴子(40才)
長男源助(17才)、3女順子(14才)、4女久子(10才)、5女つせ子(8才)、6女かつ子(5才)、7女さだ子(1才)の8人家族。長女のにほ子および次女もと子は木山時代に縁づいてここにいません。
 この家族8人がどのような交通手段を用いて湯浦まで移動したか、頗る興味をそそられます。木山から湯浦までおよそ80Kmの道のりですが、家財道具を抱えて陸上輸送は三太郎の難所があるのできわめて困難。これは間違いなく舟運によったと思われます。

木山、川尻間は加勢川を平田船で下る。この船は沼山津手永の提供。
川尻、計石間は河尻に常駐している藩の御船手方の回船によった。
計石港からは平田船で湯浦川を遡った。この平田船は湯浦手永の提供。この川はずっと上流まで海水が押しており、満潮の時刻を利用すれば会所のすぐ近くまで遡ることができる。
 
上記は手永の記録等に拠ったわけではありませんが、的を射た考察で大きな狂いはないと思います。 

 


佐敷港を含む一帯の海浜は「野坂の浦」と呼ばれています。

 葦北の 野坂の浦ゆ 船出して 水島に行かむ 浪立つなゆめ  長田王(万葉集)

 この歌が万葉集に収載されて以来このあたり一帯の海浜は歌枕となります。葦北の海はリアス式地形のために海岸線が複雑に入り組んで三陸海岸によく似た風光明媚のところです。

 またいつか来てや愛でなんあしきたの野坂の浦の秋の哀れを   矢嶋直明

 直明というのは忠左衛門の諱(いみな)です。諱は諡(おくりな)であり死んだときに贈る名前ですから、その人を諱で呼ぶのは失礼なこととされました。ですから通称があったのです。通称は忠左衛門、諱が直明だったのです。さて、この歌ですが一読送別歌に対する返歌のように感じます。返歌とすれば送り主の送別歌があるはずですが、それは失われています。送り主は徳富太善次にちがいありません。この歌を読むと忠左衛門はなかなかの歌詠みですが太善次も歌人でした。
 次のような逸話が徳富家に伝わっています。太善次が19才のころ薩摩行の途次頼山陽が津奈木に立ち寄ったことがあり、その折、太善次が月見の案内役を命じられます。蘇東坡の赤壁の遊は何年くらい前のことになりましょうか、と太善次の問に、さよう800年ほどにもなろうか、と山陽が答えたので、太善次すかさず

 八百年の昔尋ねて月見んと舟をっなぎの浦伝ひして

 と詠み山陽に膝を打たしめたとあります。忠左衛門と太善次は風雅の莫逆でもあったわけです。忠左衛門の歌が送別歌の返歌だとすれば作歌の時期は自ずと分かります。忠左衛門は天保12年(1841)10月24日付けの転任辞令をもらうので、その時期と特定できます。またいつかここを訪ねたいというのが歌意ですが、御惣庄屋の激務をこなしている忠左衛門にその暇はなかったと思われます。

「註」上に忠左衛門は再び葦北を訪れることはなかったろう と書きましたが実は死ぬる前の年に水俣の徳富太善次を訪ねています。そしてゆるゆると滞在し今は久子の舅となっている太善次と旧交をあたためました。そのとき詠んだ歌一首。

 煙にも先づおもふかなやく盬のからくも民の世をわたるかと 矢嶋直明

 忠左衛門はこの前年に妻鶴子を亡くしており、生きる張り合いを失ってしまったのか、翌安政2年(1855) に鶴子の後を追うように亡くなりました。


NHK大河「いだてん」の撮影場所になった女島小学校

2019-02-07 21:50:41 | 熊本の偉人

湯浦手永会所跡を尋ねて葦北町へ行きましたが、その途次おもしろい事に遭遇しました。


写真は芦北町立女島小学校(2005年に廃校)

 上記小学校はNHK大河「いだてん」の小学校シーンの撮影に使われた校舎です。まさか明治時代に建った校舎ではないでしようが、よくそのおもかげを遺していますね。偶然ここを通りかかったので、「いだてん」の撮影があったなどはまったく知らないことでしたが、近くのお家の庭に老婦人が出ておられたので「美しい校舎ですね。いつ頃廃校になったのですか・・」と声をかけたら、ご懇切な説明をして頂いたので知った次第です。

 だんだんお話を覗っているうちに家の中からご主人さまも出てこられて金栗四三の話になり「四三翁と写っとる写真をもっとる。」と言われるので、お願いしてそれを写真に撮らせて頂きました。

 
 昭和50年代の写真で40年ばかり経っています。前列が金栗ご夫妻。後列右から二人目の男性が写真の持ち主。葦北町役場にお勤めのかたわらあちこちのマラソン大会へ参加したと話されました。1936年のお
生まれとか。


矢嶋忠左衛門と木山役宅

2019-02-06 15:02:38 | 熊本の偉人

  矢嶋忠左衛門は文政9年(1826)唐物抜荷改方横目に昇進します。この職は平の横目より席次が上で役料が増えるだけでなく役宅が宛がわれます。則ち杉堂村の自宅から宮園村の役宅へ転居した訳です。この役宅は木山川(秋津川)のほとりに200坪ほどの敷地に茅葺き二階建ての住居と泉水のある庭園付で中流階級の住居でした。
 忠左衛門一家は天保9年(1838)までの12年間をこの役宅に暮らしますが、その間に久子、つせ子、かつ子、さだ子の4人の子女を設けます。どうも矢嶋家は女系の血筋のようで、9人の子のうち男子は源助と五次郎(5歳で夭折)の2人だけで、五次郎は夭折したので実質男子は源助1人だけ
でした。ですから、男子が欲しいという強い願望がありました。
 ところがうまれるのは順子、久子、つせ子と女子ばかり
 楫子の時には今度こそはと祈るような気持ちのところにまたしても女子でしたから、落胆のあまり忠左衛門はお七夜を過ぎても名前を着けません。10歳になる順子がこれを可哀相に思って「かつ」 という名を申し出て10日目に許されたということです。楫子がきかん気のいつも心の中に反抗心を燃やしているような複雑な女に育つのは無理からぬことでした。楫子は兄源助から「渋柿」と渾名をつけられ、姉たちからも渋柿、渋柿と呼ばれてそだちます。しかしこの渋柿は超大物に成長して渋が抜けます。

 


役宅跡の写真です。震災前には家が建っていたらしいですが、今は空き地になっています。 

  写真中央に亭々と聳えているのは樅ノ木です。この樹ノ木は久子が産まれたときの胞衣(えな)を埋めた穴に忠左衛門が植樹したものです。(徳冨蘆花「竹崎順子」による)
 えなの処置など現代人は気にもかけませんが、前近代の人々は昔からの習俗に従っていたのでしょうね。これには前近代の宗教的背景がありそうです。植える樹木がなぜ樅ノ木なのか、椿や桜ではいけないのか、考えればきりがあありませんが、それは民俗学の領域ですね。
 
矢嶋家では代々そうして来たのだと思われます。そうするとつせ子以下の胞衣もその木の周りに埋められたことになります。
  久子が生まれたのは文政12年(1829)ですからこの樅ノ木は樹齢190年になります。写真右奥にクレーンが見えますが、秋津川の復旧工事をしています。役宅からは100mもないくらいです。矢嶋家のご寮人たちは熊本の暑い夏をこの川の水遊びで凌いだことでしょう。
 余談になりますが、序でに申しておきますと、今秋津川と呼ばれている川は往昔木山から流れ出ているという意味で木山川でした。水源はこの辺りに湧出する阿蘇伏流水です。従って冷たく清冽な流水でした。そして今木山川と呼ばれている川は往昔赤井川でした。これに矢形川を合わせて益城三川と呼びます。


木山神宮。社殿は震災で倒壊したままです。鳥居のない神社は締まりがないですね。

 藩政期のころこの神社は「若宮大明神」と呼ばれていました。その若宮さんのお祭りに矢嶋家のご寮人たちは母鶴子が作ってくれる鹿の子絞りの髪飾りを着けて参詣します。その髪飾りの美しさは人々が目を瞠る程のできで、遊び友達からうらやましがられたと後に順子が述懐しています。このお社は役宅のすぐ東側にあったのでここの境内が娘たちの遊び場で、四季折々鬼ごっこ、陣取り遊び、蝉取りなどの遊びに興じていたことでしょう。

 

  このお地蔵ささまも役宅の近くにあります。建物が傾いていますが、震災の爪痕です。転倒した灯篭が脇の方に積み上げたままになっています。
 
田掻地蔵とは珍しいお地蔵さまですね。田掻きとは恐らく代掻きのことで、お百姓はお供え物をして持ち馬の無事と代掻きの安全を祈のったのでしょう。また死んだ馬を供養するお地蔵さまでもあったのでしょう。なぜ馬かと云えばお堂の中に馬の写真が飾ってあるからです。
 このお地蔵さまを矢嶋家の娘たちも朝に夕に見ていたはずですから、なにやらそこに歴史の不思議を思うわけです。
 娘たちのなかで最もきかん気がつよくお転婆で闊達だったのは久子でした。久子6歳の時、姉順子が役宅の菜園に育てていた大切なほおずきがそろそろ熟れはじめたころ姉に向かって、

「お姉さまわたしに一つください。」とせがみました。
「もっと熟れるまで少しお待ちなさい。」と順子の返事。

 久子は不服そうな顔をしてその時はひきさがりましたが、翌日順子が手習いから帰って、ふと見ると久子の縫い上げからほおずのはみ出しているのが見えます。はっと思って菜園に行ってみると、あろうことか大切のほうずきは見るも無惨に1つ残らずひんむしられています。
順子はその場に泣き崩れてしまいました。

 久子が遊び友達を大勢引き連れてきてやったことでした。この時久子は友だちと地蔵堂に上がり込んでほおずきをおもちゃにして心ゆくまで遊んだのでした。