古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

山田村伝助の志納金 銀三百目  西福寺古文書

2018-05-30 09:55:51 | 一向宗

  御印  銀三百目

今度於其地法義為相続毎月廿八日
仏飯講被相企
御門跡様へ右之通献上遂披露候處
かねて各法義之志深き故
御本山渇仰之思浅からず神妙ニ
思召候然ル上は弥あり難く被存毎月
懈怠なく被寄合互に心を合せ永く
御馳走可被申上候夫ニ付安心之趣は平生
聴聞の如く一念帰命のたちところに
仏のかたより往生治定せしめ玉ひ
光明摂取の御利益にあづかるを正
定衆の数に入とも申なり此信決
定之上外には
公儀之掟を堅く相守存命の間は
行住坐臥をえらばず報謝之称名
之相嗜可被遂此度之報土往生素
懐事肝要之旨被  仰出候依而
被顕     御印候者也
 申九月六日

             肥後求摩

             廿八日佛飯講
                  門徒中
             世話人

                  山田村伝助
             取次

                  西福寺

于時安永六丁酉九月 写之

 上は坂本町鮎帰西福寺に伝わる古文書である。
 28日仏飯講というのは隠れ念仏の門徒たちが、毎月28日に寄集まって念仏を唱え、僧侶の法話を聴く寄合のことである。寄合は秘密の中に行われるので、毎月の事となればいつも他領から僧侶を招くわけにはいかないから、世話人の伝助がその代役を勤めていた。この世話人を毛坊主と言う。毛坊主は読み書きができて人望があり信仰心の篤い者でなければ務まらなかった。
 伝助は親子2代にわたる毛坊主であった。伝助の信仰が露顕したのは安永5年(1776)の宗門改め時と云われ、この文書の日付は「申九月廿一日」となっており、本山の文書発給はその前年(1775)ということになる。従ってこの「銀三百目」の志納金は伝助自身が肥後峠を越えて西福寺へ持参し本山への取次を依頼したことになる。そしてその翌年の安永6年(1776
)伝助は処刑され、その年の9月にこの文書が写し取られたことになる。

 

 


相良道(とのさま道・あぜち道) 林道 坂本山江線

2018-05-28 12:32:37 | 一向宗

 相良氏は13代当主長毎公の時から18代当主義陽公までの約80年間に亘って八代を統治した。城地は球磨川右岸古麓にあり、その東側の山岳地帯、主に尾根沿いの山城として築かれた七つの城塞は、名和氏時代の五つと、相良氏時代の二つに色分けできる。
 相良氏は16世紀初頭、名和氏との覇権争いに勝利して八代に城地を得、球磨・芦北・八代の3郡の覇者となったが、名和氏は滅亡したわけではなく宇土に城を構え失地回復の機会を狙っていたので、両者は常に緊張関係にあった。
 相良氏は八代で事が起った時に素早く軍勢を人吉から呼び寄せる必要があり、人・馬・荷駄を通す規模を有する軍用道路がどうしても必要であることから相良道は建設された。
 その総延長は正確には分からないが40Kmは越えていたであろう。40Kmの山道を一日で踏破することは出来ない。そのために山中の中間点に休泊所を設けていた。その場所は下の地図で説明すると、郡境にある「水無越」の球磨郡側のすぐ下に「あぜち谷」という適地があり、そこに「ゼンカク屋敷」があったと伝えられている。その屋敷跡を写真に撮った人があるというので、いつかここにアップしたいと思っている。

 この地図は郡境に立ててある看板を写真に撮り少し手を入れて仕上げたものであるが、同様の地図を一般人はどこからも手に入れることはできない。国土地理院の5万分の1地図も、途中までしか記載がなく、それは道路管理者が地図に書き込むことを望まないから・・ということであった。
なぜ望まないのか、観光客が押しかけて交通量が増えれば道路維持費用がかさみ、とぼしい財源の中からあらたな予算化はきびしい・・ということであった。
 さて、
この道路の正式名称は「森林基幹道 坂本山江線 建設初期のころは(ふるさと林道と称していた。)」と云う。27年の歳月と60億7千万円の事業費を投じて平成20年度に完成した林道である。坂本町大門を八代市側の起点とし、球磨郡山江村水無にいたる総延長27.9Km、幅員5mの実に立派な舗装道路であるが、 この道路の面白いところはその前身が戦国大名相良氏が八代、人吉間を最短でつないだ軍用道路の一部であるところにある。特に一部というのは郡境の「水無越」より人吉城までの区間及び八代側の大門から古麓の8丁山までを含まないからである。
 私は若いころ坂本村に居住していたが、荒瀬ダム右岸の山の尾根、坂本駅裏の山の尾根などを険阻な山だなあと思って眺めていたが、その尾根に相良氏の軍用道路が通じていたなど想い及ばぬことであった。
 ここから先は私の推測に過ぎないのだが、この道は大門に下りるのではなく藤本、松崎等を左に見下ろして一旦油谷川へ下りた後は、中谷川、深水川、釈迦堂川と下りては上りを繰り返して8丁山まで尾根道を一直線にたどったのである。
 この道は徹頭徹尾山岳道であり、村里へ下りるのは川を越すためにやむを得ず下りるのであった。そうした方が最短コースになるということもあろうが、行軍を敵にさとられてはいけないという用心もあったことだろう。
 この道が八代、人吉間をつなぐ軍用道路、連絡道路として機能したのは前にも述べたように相良氏が八代を統治した80年間であり、それ以後は次第に廃道へと向かう。江戸時代に入って一時期参勤交代の道として使われたこともあるが、寛文年間に球磨川の開鑿による舟運が開かれると往路は舟運、帰路は佐敷、一勝地道となり相良道は主要道としての役割を終えることになる。

坂本駅裏の尾根ここを相良道が通っていた。

左に見えるのは鮎帰大平発電所である。この道が肥後峠とは別ルートであることが分かる。

12%の急坂である。その先下り。

こちらは上り急坂。やがて郡境の「水無越」に至る。


 


俳誌「松」 若竹號 平成30年5月

2018-05-27 07:37:20 | 

主宰五句

 石牟礼道子さんを悼む

春星の西海浄土を目指されし    村中のぶを

兜太亡き山襞連ね残る雪        〃

梅の花姿勢を正し選句する       〃

春宵の畫廊や寫楽の大首輪       〃

黄心樹(をがたま)の花や海鳴とどく宮    〃

「をがたま」の樹

 

松の実集

戸馳島   村田 徹
春 の 雨 光 る と も な く 海 に 消 え
枇 榔 樹 の 空 の
明 る さ 春 の 雨
春 雨 の
滲 む 句 帳 の 青 イ ン ク
春 昼 の 音 な き 雨 や 宮 土 俵
名 も 知 ら ぬ 春 の 花 咲 く 句 碑 ほ と り

小き櫛   後藤 紀子
花 見
月 港 の 丘 の 晶 子 展
自 藤 や 晶 子 は ゆ る く 縞 を 着 て
花 蘇 枋 束 髪 重 き 晶 子 像
春 深 し 恋 の 歌 人 の 小 き 櫛
花 は 葉 に 今 な ほ 熱 き 晶 子 う た
 

花の城    松尾 照子
満 開 の 花 の 中 よ り 天 守 閣
豊 か な る 陽 射 し に 花 に 城 癒 え よ
は 葉 に 城 甦 る 日 は い つ ぞ
花 冷 や 人 恋 し さ の ひ と り 酒
面 上 げ よ 胸 を 張 れ よ と 百 千 鳥

昼餉の手    西村 泰三
梅 探 る 鏝 絵 の 蔵 を 見 上 げ て は
出 番 待 つ 踊 り 子 た む ろ 花 の 下
終 り ゐ る 島 の 田 植 や 苗 淡 し
木 洩 れ 日 の 見 え ざ る 糸 の 毛 虫 揺 れ
昼 餉 の 手 洗 ふ 玉 解 く 芭 蕉 下

 

  雑 詠  村中のぶを 選

  清明の風さはさはと樹林墓地   伊棄 琴

 次の句の「春嵐過ぎし林の青臭く」もさうですが、誰もが見てゐるであらう日常の風景を気負ふことなく詠んでゐて、静やかな自然の風韻が伝はつて来ます。
 掲句清明とは春分の後、本年は四月五日でした。万物ここに至って皆潔斎にして清明なりと言はれてゐますが、その樹林墓地とは巷で言ふ樹林葬の墓所ではなく、清明といふ節の語感からして、私は聖徒の方々の墓地ではと思ひつきましたが・・。さうであれば季節の風が渡る、樹林の中
のクルス墓地の風姿が殊更に伝はつて来ます。

  引力の中をやさしく花ひとひら 菊池 洋子

引力」の作用で物は全て下へ落ちるのですが、その「中をやさしく花ひとひら」とは、万有引力の中、桜花の一片が散ってゆく様を女人の方らしい感性で詠じてゐますが面白いと思ひます。それに理屈がかった叙述ではなく、自然な諷詠に受け取れます。してまた師上村占魚の (引ばれる日をふりきって檸檬の実)の句があるのを思ひ出しました。之は庭前の檸檬の実の落下を詠じたもので、私は一つの物の実相に迫った詠句として評価してゐるのですが、この師の句の底の底に、掲句とは何か通じ合ってゐることに淡い感銘を覚えました。 

  輝きて堰を溢るる春の水   桶 一瓢

 作者は九十七歳とあります。句意は堰の春水を平明に詠み取ってゐます。而し乍らこの瑞々しい抒情は、此の方のどこから発散されてゐるのか。俗に言ふ、いたづらに老残を喋くのではなく、作者の積極的な、きらきらした感性に癒されます。
 ともあれ、九十に一つ端の付いた私は誰よりも作者ご白身の老境の自在さに肖(あやか)りたく思ひます。

  椿散りて濁世の錆となる   細野佐和子

 「濁世」とは仏教語、道徳がおとろへ、けがれた世の中の事を指してゐます。「錆」は言ふまでもなく金属が空気に触れて、その酸化作用で褐色や黒くなることです。
 つまり掲句の本意は、白い椿の花びら数片が、この少々濁った世の中へ散って錆色になったと、ひいては昨今の世情を作者はひとり慮ってゐるのではないでせうか。私は納得できます。

  親猫に咥へられたる仔猫かな 酒井信子

 一句は異様な光景と思ひます。しかし産れ立ての子と共に移動するには他の動物と同様、咥へて行くしかない事は改めて分かります。同時にこの光景を詠み取った作者の、母性としての温かい眼差しが、読者にはほのぼのと心に入つて来ます。そして子を産む女性の方のみの詠情の句だと言ひ切ってよいでせう。

  オホーツクの朽ちし立木や別れ霜 浅野 律子

「オホーツク」とはオホーツク海に面した港町の事でせうか。作者は札幌の方ですから現地そのものではなくとも、偶々何かの折に遠く望んだオホーツクの町の所見として一句を理解しました。その北の町特有の 「朽ちし立木」が実に印象的で、季節の霜に被はれた白々とした家並みがまた
見えて来ます。そして結句の 「別れ霜」 になにか旅情を感じるのですが・・。

  春北斗「苦海浄土」に名を遺し 井上みつせ

 掲句には石牟礼道子追悼、と詞書がありました。二月十百、九十歳で石牟礼さんは亡くなりました。二月といふ月は古来より名立たる人の忌日が多く、二十日には彼の金子兜太氏も旅立たれました。
 『苦海浄土』 といふ一書はもうここで説く必要はなく、望郷のこともあって私は『椿の海の記』 などと、繰り返し読みました。(もういっぺんー行こうごたる、海に)とか、
私には全編、熊本弁が詩語のやうにきらめいて読めるのでした。そして水俣病を恨みに恨んだ事は今日まで続いてゐます。「春北斗」とは、春分の頃はよく見えますが、東北の中空に春先は北斗七星が淡く見えます。それは季語ながら追悼の措辞でもあります。

  産み月のふとん屋覗く梅日和  和坂梨結子

 一句を懐かしく読み下しましたが、特に「ふとん屋」といふ呼称が往年を呼び起こしました。私には四人の姉がゐたのですが、臨月の姉が母と赤子のふとんを買ひに行くのに連れ立って行った記憶があったのです。当時のふとんは現代の様な羽毛布団ではなく重かった記憶があります。なほ句を読むのに「産み月の」と一旦切って読むべきでせう。 また「覗く梅日和」とは一人ではなく複数の人の様に思へます。


鶴亀句会 5月例会 2018-5-15

2018-05-15 14:34:00 | 鶴亀句会

会日時   2018-5-15  10時

句会場        パレア9F 鶴屋東館

出席人数   8 

指導者    山澄陽子先生(ホトトギス同人)

出句要領  5句投句 5句選   兼 題  五月雨

世話人    近田綾子 096-352-6664 出席希望の方は左

次 会   6月15日(金)10時パレア9F 兼題 梅雨

山澄陽子選

夏草や薬師寺東塔よみがへる     優 子

風薫る両手翼に子ら跳べる      小夜子

五月雨や土の匂ひの少しして      〃

五月雨の頃は更なり苔の寺       〃

河童像皿に嬉しき五月雨        〃

風吹いて句碑に触れたる若楓     礁 舎

新緑に埋もれ大寺の屋根光る      〃

軍鶏走る庭に眩しき柿若葉       〃

大井手に岐れ二ノ井手夏柳       〃

戦傷の祖父と入りたる菖蒲風呂    武 敬

五月雨に屋根の十字架洗はるる     〃

楠若葉ブルーインパルス城に舞ふ    興

一人ゐて亡父想ふごと五月雨るゝ   綾 子

さくらんぼ葉陰キラキラかくれんぼ  順 子

(先生の句)

五月雨や借りたる男傘重し      陽 子

何となく立ち居の軽るし夏は来ぬ    〃

竹は皮脱ぎ地震壁は剥落す       〃

竹皮を脱ぐさゞめきの此処彼処     〃

空の端のかすかに暗し走り梅雨     〃

 

 


坂本町西福寺の古文書  仏飯講

2018-05-10 12:00:20 | 一向宗

 本願寺からのこのような文書送付はそんなに珍しい事ではないのですが、この文書が西福寺に遺っているところが注目点です。文書の宛先は「肥後求摩仏飯講門徒中」となっており、西福寺はこれを宛先の所へ届けているのです。否、届けるというより門徒の方から取りに来たというべきかもしれませんね。 「仏飯講」というのは隠れ念仏の門徒たちが密かに集まって仏に飯を供えた後それを全員で食べさらに「ナンマイダー」を繰り返し唱えて団結をつよめる宗教儀式です。また弾圧に抗して法灯を守り維持するために編み出した組織形態とも言えます。

 では、文章を読んでみます。

 

今般 思召を以講相続のため

御印書被成下候末々寄講退転なき様に

出精せらるべく候誠に当流安心の一途ハ

何のやうもなくもろもろの難行雑修

自力の心を捨はなれ一心に阿弥陀如来

今度の一大事の後生たすけ給へと

ふかくたのミ奉れハ不可思議の願力ニよつて

一念の立所に光明摂取の大益を蒙り

順次報土往生を遂しめ給ふ事

疑あるべからず候此信決定の上には

王法国法仁義五道之道を守り存命

之間ハ法義無油断相続せられ仁恩報謝

之称名被相続可被遂今度の報土往生之

素懐事肝要之旨被 仰出候依而被顕

御印候者成

  明治四年申年

     二月 晦日

肥後国求摩

廿八日佛飯講

門徒中

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


坂本町西福寺の一向宗文書

2018-05-09 00:34:23 | 一向宗

 坂本町鮎帰地区に一向宗(浄土真宗)の門徒組織が存在したことを窺わせる古文書が西福寺にありました。文書には大永7年(1522)の記述が見え鮎帰のような山中の集落にこんな古い時代に門徒組織が存在していたことに感銘を受けました。以下に翻刻文を掲載します。

御本尊証如上人御判大永七乙亥八月当村へ

始而頂戴而勢免村大蔵宅ニ安置ス頂戴願主之

銘々

  尾俣江村 

     久九郎

     郡兵衛

     山下村

      波右衛門

     﨑右衛門

     小鶴村

      名之助

      分右衛門

    坂下村

     利兵衛

     関助

    以祢異里村(稲入村)

     幸右衛門

     千千代

    渡里瀬村

     老松

     万千代

    干田地村(日田地)

     飛弥太

      安之助

     惣見村

      形部丞

      冨之丞

     古屋敷村

      藤太夫

    上り俣村(登俣村)

     長九郎

     対之丞

   日光村

    杢右衛門

    摩之丞

   辻村

    有右衛門

    主水左衛門

   川原谷村

    伝之新

    玄番

   勢免村(責村)

    葭之助

    大蔵

   洗俣村

    金蔵

    半左衛門

   平村

    銀十郎

    式部左衛門

   大平村

    石右衛門

    兵部丞

   □□村

    亀之助

    弥五兵衛

同志鮎帰惣百姓中

享禄元年戊子正月吉日

    八代住人

       渡邊家重書之


八代高田御蜜柑  宝暦十一年「覚」

2018-05-07 19:09:17 | 日記

 古文書のサイトらしく今回は宝暦年間の高田蜜柑の栽培村名、栽培面積、蜜柑成木本数等の記事をアップしました。あまりに専門にわたる記事で、高田蜜柑の概略の説明になっていません。それについては「津々堂のたわごと日録」に格好の記事があるのでそちらをご覧ください。津々堂さん、勝手な引用ですみません・・。

八代郡 高田御蜜柑床畝数改帳之写 宝暦11年覚

はねつる
一、三畝拾弐歩       奈良木村
      御蜜柑成木拾弐本  外ニ壱本苗木植付申分

南正寺
一、壱畝九歩     御蜜柑成木弐本

寺ノさこ
一、六畝御蜜柑成木拾三本  外ニ五本苗木植付申分

仮屋
一、三畝九武御蜜柑成木三本  外四本苗木植付申分

同所下ノ木
一、壱畝弐拾七歩  御蜜柑苗木壱本

遙拝
一、壱反六畝九歩  御蜜柑成木弐拾弐本  外ニ拾七本苗木植付申分
    合 三反弐畝六歩  六ケ所
        木数五拾三本  成リ木
        同弐拾七本      苗木植付申分

いみやう
一、六畝        上豊原村
         内 高八斗三升六合引高 四畝弐拾壱歩
        御蜜柑成木五本  外ニ拾壱本苗木植付申分

結左衛門木
一、壱畝九歩 御蜜柑成木弐本   外ニ壱本苗木植付申分
    合 七畝九歩 弐ケ所
        木数七本 成木
        同弐本    苗木植付申分

左京木
一、 壱畝六歩      下豊原村
        御蜜柑成木三本

茶園木
一、三畝拾弐歩 御蜜柑成木六本    外ニ壱本苗木植付申分

道上
一、弐畝九歩 御蜜柑成木五本     外ニ三本苗木植付申分

道下
一、壱反七畝 内  高壱石壱斗四升六合引高 七畝
              御蜜柑成木弐拾八本  外ニ九本苗木植付申分、弐本久年母成木

七助木
一、八畝九歩  御蜜柑成木拾七本    外三本苗木植付申分、壱本久年母成リ木

大工小屋
一、弐畝拾弐歩 御蜜柑成木五本   外ニ壱本苗木植付申分
    右接木床壱石八升 引高
一、六畝拾弐本   苗木植付申分

八幡
一、壱畝拾五歩 御蜜柑成木三本

芝原上ノ木
一、三畝拾歩 御蜜柑成木五本

芝原下ノ木
一、御蜜柑成木六本 

天福寺
一、五畝拾八歩   御蜜柑成木五本      外七本苗木植付申分

平山
一、壱畝九歩   御蜜柑成木壱本 

天福寺
一、四畝  但御蜜柑床之内 宝暦八年より接木ニ被仰付候

合 五反八畝弐拾四歩  拾三ケ所
      木数八拾三本    成リ木
      同三拾六本            苗木植付申分
      外ニ三本      久年母成木
 

御常
一、壱畝九歩      東本野村
     御蜜柑成木三本  外壱本苗木植付申分

草場
一、三畝六歩       西本野村
    御蜜柑成木五本

池田
一、六畝九歩  御蜜柑成木五本   外四本苗木植付申分

合 九畝拾五歩     弐ケ所
     木数九本   成リ木
     同四本         苗木植付申分

権之兀前
一、弐畝弐拾四歩     西高下村
    御蜜柑成木四本 外ニ四本苗木植付申分

孫之兀前
一 、壱畝弐拾四歩    御蜜柑成木三本   外ニ壱本苗木植付申分

久夫喜
一、弐畝九歩         御蜜柑成木三本

合 六畝弐拾四歩   三ケ所
    木数拾本     成リ木
    同五本           苗木植付申分

大福寺大木           大福寺村
一、九畝二拾四歩      御蜜柑成リ木壱本
 

大福寺小木
一、三畝拾歩         御蜜柑成木三本   外ニ壱本苗木植付申分
 

四郎左衛門木
一、四畝             御蜜柑成木八本   外ニ壱本苗木植付申分
 

合 壱反七畝六歩  三ケ所
     木数合拾弐本    成リ木
     同三本          苗木植付申分
 

植柳御仕立床        植柳村
一、壱反三畝弐拾七歩     御蜜柑成木八本   壱本久年母成木

弥三左衛門木
一、壱反             御蜜柑成木四本   外ニ六本苗木植付申分

合 弐反三畝弐拾七歩  弐ケ所
    木数拾七本     成木
  同弐拾四本          苗木植付申分
    外ニ壱本久年母      成リ木

敷河内        敷河内村
一、壱畝拾八歩          御蜜柑成木壱本

畝数合壱町五反八畝弐拾壱歩  三拾ケ所
  内
  高三石六升弐合六才
  畠畝数壱反七畝弐拾壱歩
    此高畝数御免帳外引高ニ成居候分其外之畝数は前々より之御蜜柑床高知不申候分
  御蜜柑成木合百九十五本
  外ニ
  百拾弐本    但御蜜柑床高明地  苗木追々植付申分
  四本    久年母

右者八代郡高田手永御蜜柑床畝数木数相改相違無御座候 以上 

宝暦十一年己四月
      御蜜柑支配所定          松岡仙之兀
      御惣庄屋                 高田富右衛門
      御内検         市村齊助
      御横目         福嶋加兵衛


「城下の歴史街道を歩く」に参加しました

2018-05-05 19:05:10 | 日記

主 催  第14回熊本城坪井川園遊会実行委員会

案 内  熊本地名研究会・一新まちづくりの会

開催日  平成30年5月5日(土)

7本の大楠の若葉がうつくしい・・

 樹齢千年を超す楠が同じところに7本も群生しているのは、ここ熊本城藤崎台だけだそうです。右側上部には藤崎台球場のセンターボードがかかっていて、RKK旗の高校野球があっていました。午後になると大楠の陰が外野席に伸びるので観戦者は陰の中に寄り集まってまって観ています。

 肥後の毒消し丸で有名な吉田松花堂の入り口。衝立は余りにも古びて何を描いてあるのか判りません。また奥の襖絵は梅と鶏のようですが、これも古びています。畳は新しくきれいですね。

 これが毒消丸。400円、600円、1,000円の包みがあり、形は仁丹に似てますが、薄荷は使ってなく味は美味しいとはいえないものの、舌に含んでいると口中に満足感のようなものが広がる感じです。旅行に出るときは必ずこれを携行する人があるとか。また昔は戦地に向かう兵隊さんが背嚢の奥にこれをしのばせていたそうです。原材料は企業秘密・・・。


神風連遺跡 鎮台指令長官種田政明襲撃の跡

2018-05-04 17:24:25 | 日記

「怖ろしき一夜」に出てくる中二階

 この中二階は、明治五年に建てられました。明治九年十月二十四日の夜、徳富家では母の久子と病気の長女常子と健次郎(蘆花)の三人でした。突然近くで戸障子の倒れる音や人の悲鳴聞こえました。母の久子はおびえた健次郎手をひいて、ここの二階から雨戸をあけて外を眺めますと、あちこちに火の手があがつていました。神風連の変だったのです。このことを健次郎は後の小説「怖ろしき一夜」の中に書いています。

 種田は鹿児島出身の陸軍少将で、東京在任中はその派手やかな行状から「花の左門さま」と呼ばれていた。明治九年十月二十四日、熊本鎮台在任中、神風連高津軍記の率いる一隊に襲撃されて落命。時に三十八歳。「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ」はその時愛妾小勝が東京家に送った電文であった。(説明文)

蘆花はこの時8歳の少年であったが地図でみるとすぐ近くに居たわけである。


憲法記念日 街へ出たら

2018-05-03 15:25:39 | 日記

下通と新市街の交わる街路におばちゃんたちが横断幕を持って立っていました。側に寄って立ち話をしましたが「平和をつくるおんなたちの会」という名称で政党その他の背景もないようで、まったく自主的な女性の会のようでした。好感・・

 道行く人にチラシを配っていましたが食いつきはイマイチ、でもこういうアクションを起こすだけでも改憲反対の宣伝になり意義ある行動ではないか・・女性の行動力に敬意を表したい。

※ 次回は6月23日同所で 12時~13時 沖縄慰霊の日、宣伝予定。

血みどろの平和憲法記念の日  佐藤 茂 朝日俳壇 長谷川櫂選 一席


高木第四郎 熊本搾乳業の父

2018-05-01 23:29:17 | 熊本の偉人

横井小楠記念館蔵

高木第四郎年譜 (山口白陽著「高木第四郎伝」より)

文久  2年   1歳    8月20日熊本市高田原歩町の宮崎家に生る。

慶応   元年   4歳    市内春日町久末に移転。

明治   元年   7歳    6月21日母知幾逝く39歳

      2年    8歳    長兄真高函館の戦に参加途上、上総沖で乗船の難破 

                                         に 遭い死亡。19歳。

      3年    9歳    3月島田氏の寺子屋に入る。義母藤枝入嫁。

5年    11歳     日新堂青年塾に寄宿、竹崎茶堂の教えを受く。

8年    14歳     春日小学校へ転学。

9年   15歳    ※10月24日神風連の乱起こる。

   10年   16歳   ※2月22日薩軍熊本に来襲西南役始まる。宮崎家を出

            て高木家を創立す。

   11年   17歳    広取英学校に入学嘉悦氏房らについて英・漢・数を学

            ぶ。

     13年   19歳    広取英学校を退き下総三里塚種畜場に入り牧夫とな

            る。

14年   20歳    農商務省農務局農学校獣医分科に入り速成獣医生とな

           る。

15年   21歳    三里塚種畜場を退帰熊。

16年   22歳    市内鷹匠町に搾乳業広乳舎を創む。

21年   27歳    創業5年にして住宅を新築す。松原米子を娶る。

22年   28歳    8月25日長男亮生る。※2月11日憲法発布。

                    ※4月熊本市制施行。

          5月熊本市会議員に当選(最年少。)

          7月28日熊本地方大地震。

            託麻選挙(騒動)について財務整理に当る。

23年   29歳   第1回国会議員選挙

24年   30歳   ※7月1日九州鉄道門司より熊本まで全通。

25年   31歳    3月23日二男統生る。※国会議員選挙大干渉、徳富蘇

           峯応援に来熊。

26年   32歳    託麻郡本荘村に土地を購入牛舎を新築移転。右により

           熊本市議会議員を辞任。

           鷹匠町の屋敷を熊本電気株式会社に売却。

27年   33歳    ※日清戦争始まる。5月本荘村々会議員に当選。

           戦傷病兵の後送により衛戍病院への牛乳納入激増す。

28年   34歳    鷹匠町の家を本荘に移す。

           6月29日三男徳生る。

29年   35歳    三里塚種畜場に至り初めてホルスタイン種牛ローヤル

           号を買入る。10月九州商業銀行熊本支店支配人とな 

           る。

30年   36歳    6月27日父真雄逝く73歳。

           9月27日義母藤枝逝く。

32年   38歳    九州商業銀行本店を熊本に移し紺屋町に新社屋建築、

           支配人となり次いで取締役に任ず。横浜の米人よりホ

           ルスタイン種牡牛を買入る。

33年    39歳    7月15日白川大水害に漁舟を借りて牛乳を配達す。

           ※9月立憲政友会創立され党員となる。

           飽託郡々会議員となる。

34年   40歳    全国的パニックにより九州商業銀行も支払停止となり

           引責辞職したが間もなく取締役に再選、整理に当る。

35年   41歳    11月大演習のため天皇御西下牛乳御用命を受く。

36年   42歳    失火のため牛舎の半ばを焼き牛6頭焼死。

           牛の結核検査実施病牛を出す。

           銀行整理を終え正式に辞任。

           飽託郡々会議員に再選。

37年   43歳    日露戦役起り陸軍予備病院に設置により牛乳の需要激

           増。牛舎増築乳牛50余頭にたっす。

39年   45歳    8月蒸気機関、消毒器設備牛乳の瓶装消毒を実施。

           立憲政友会隈本支部幹事となる。

40年   46歳    10月県会議員に当選。

43年   49歳    1月同志と共に九州実業新聞を引受けて監督となり6月

           1日より九州新聞解題発刊。

45年   51歳    県会議員に再選。

           ※7月30日明治天皇崩御。

大正   2年    52歳    5月岩手県小岩井農場よりホルスタイン種牛買入れ。

              10月鹿児嶋で開会の第1回九州各県連合畜産共進会で   

              表彰を受く。

     3年   53歳    ※7月欧州大戦勃発。8月対独宣戦により膠州湾

              撃。12月九州新聞社長となる。

    4年   54歳     県会議員満期。

    5年   55歳     10月飽託郡黒髪村字留毛に新牧場を設く。11月政友

               会県支部総務となる。

    6年   56歳    4月の衆院議員選挙違反事件に連座。

    7年   57歳    4月右違反事件により収監されたが29日間で特赦。

              ※11月欧州大戦終る。

              12月政友会支部幹事長となる。

    9年  59歳  3月肥後農工銀行取締役となる。

             3月公民権復活し5月衆院議員に当選。

   10年  60歳  5月九州新聞社株式会社に改組され取締役社長となる。 

             6月北海道農場からホルスタイン種牛買入れ。

    12年   62歳   5月下総御料牧場よりジャージー種牡牛、群馬県神津牧

             場より同種牡牛買入。

             5月九州新聞社社屋完成、輪転機2台増設、7月盛大な披

             露を行う。9月1日関東大震災、新聞広告に打撃を受けた

             が義援金募集に努力、11月現地を視察す。

    13年  63歳  ※1月清浦内閣成立、政友会分裂して床次竹二郎らの政友

              本党に入る。5月衆院議員に再選。

    14年   64歳    5月宇留毛牧場牛舎改築。

             八景水谷に1万坪を買入れ新牧場を設く。

     15年   65歳   八景水谷新牧場の最新式諸設備完成、約80頭の乳牛を養

             う。

昭和   3年   6 7歳      1月台湾視察旅行。

                                     12月農工銀行勧業銀行と合併、取締役を辞任。

                ※1月衆議院解散2月初めて普通選挙行わる。

     4年  68歳    本荘町の牛乳処理設備に大改善を加う。

     5年  69歳    5月熊本電気株式会社監査役となる。

     6年  70歳    ※9月満州事変勃発。

             11月の特別大演習に御料牛乳を納む。

     8年  72歳   7月日本新聞協会大会につき満州各地を旅行。

               10月ポルトガル領マカオに乳牛8頭を輸出。

     9年  73歳    3月13日九州新聞1万号に達し大祝賀会を催す。

     10年  74歳    4月日本新聞協会大会熊本に開かれ東邇宮より表彰さ

             る。

               10月帝国牛乳教会会長となる。

    13年   77歳    11月3日喜寿金婚双賀会熊本市公会堂於て最も盛大に行

             わる。

      15年   79歳    4月九州新聞社長を辞す。11月紀元2600年祭典にお召

             を受く。

    16年  80歳  5月広乳舎外4社と合併して新たに熊本合同牛乳創立され

             その社長となる。

             10月熊本電気株式会社監査役辞任。

             11月帝国牛乳協会長辞し顧問となる。

               ※12月8日大東亜戦争勃発。

    17年  81歳   5月1日九州新聞九州日日新聞と合併し新たに熊本日日新

            聞創刊さる。

   20年  84歳   ※7月1日熊本市大空襲を受け大半焼土となる。

            ※8月15日終戦の勅下る。

   21年  85歳   2月12日妻米子逝く。75歳。

   24年  88歳   8月20日自ら主催して子、孫を集め米寿祝賀会を開く。

   25年  89歳   熊本牛乳株式会社社長辞す。10月最後の上京を果たして知

            友を訪問或いは弔問す。

     27年   91歳   12月12日逝く。91歳。

            同14日葬儀、万日山の墓地に葬る。

広乳舎発祥の地 

16年  22歳  市内鷹匠町に搾乳業広乳舎を創む。と年譜にありますがその住所は「熊本

区鷹匠町65  番地」と上の絵にあります。下は昭和4年の熊本市街地図ですが〇印の所   

に65の数字が見え弘乳舎はこの場所に創立されたことがわかります。

下は現在の地図です。矢印の所が広乳舎跡です。 

創立時の広乳舎の敷地は160坪とあるので丸印の範囲ではと思われます。

 

 

 


迦南俳句を読む27  春光寺の迦南句碑

2018-05-01 10:34:00 | 横井迦南

 虚子、年尾、汀子句碑の建っている傍らに膝まづくように迦南句碑はありました。虚子、年尾の句碑が白御影の堂々たる石柱であるのに比べ、このへり下りようはいかにも迦南らしく思われました。しかし春光寺の句碑は迦南句碑が第一号で、虚子其の他はその後に建てられたものだそうです。

春光寺の迦南句碑

此処とてもまた仮の宿日向ぼこ  迦 南

 迦南は昭和16年に朝鮮竜山鉄道を定年退職して鹿児島市へ転居しますが、一所に定住できず鹿児島市から霧島市へ、さらに多良木町へと移転を繰り返し、昭和24年三角町へ移り死去までの5年間をそこに過ごしました。この句は鹿児島時代に詠まれたもので、流浪する老年を象徴するような句です。

 この句はよくよく味わってみると、しみじみとした迦南の感懐にこころ打たれます。