芝泉堂峻谷先生書
隅 田 川 往 来
東都書林 泉栄堂梓
隅田川往来
昨日飛鳥山の花に
戯れ流石永き春の
日を黄昏はやきと 原画(早稲田大学古典籍)
※ 芝泉堂とは芝浜松町二丁目にあった筆道塾の名称ですが、主宰者の号でもありました。主宰者は坂川峻谷。芝泉堂二代目です。初代は「消息往来」、「商売往来」等多数の書がある坂川暘谷。暘谷の活躍iによって芝泉堂は門弟三千人と言われるほどに発展し、溝口流の本流とまで称えられました。一方泉栄堂は書肆の名称。紛らわしいですね。
惜候へき其節御物語
申候隅田川の事旧たる
気色一日御同伴申度候
弥生十五日は梅若塚
念仏供養にて候思召
在候ハんや任貴報竹馬の
輩申合両国橋より
小船に棹さゝせ若 原画(早稲田大学古典籍)
風波あらくハ駒形堂に
暫見合大船に乗かえ
順風に真帆うちかけ
勢猛く漕ゆき端芝
よりあかり爰にて案
内を頼名にしをハゞいさ
こととはむ都鳥と閑麗
一説も有之事にや委しく
尋木母寺に参梅若
墳の縁起を見すミ
た川の流清をみて秋の
よの月隈なからんことを
浅茅か原のまつ
かせを時雨とや疑はん 原画(早稲田大学古典籍)
徳泉寺の堀地に千
弥三郎か古墳を尋て
武士之いさほしをしたひ
妙亀比丘の朝暮 閼伽の
水取たまふと聞およひ
にし鏡の池を見めくり
待乳山ゆふ越くれは
庵崎のと大宮人の 原画(早稲田大学古典籍)
※ 待乳山 まつちやまゆふこえゆきていほさきのすみだがはらにひとりかもねむ(羇旅・五〇一)という歌の原歌は、『万葉集』の、弁基歌一首
亦打山 暮越行而 蘆前乃 角太河原爾 独可毛将宿
(巻三・二九八)
上記弁基の歌から、隅田川・まつち山・廬崎が歌枕として定着します。奈良県・和歌山県境の橋本市にこの地名は存在します。ですから弁基の歌はそこで製作されたと諸説一致。ところが東京にもあるのです。隅田川・待乳山はすぐに分かりますが、廬崎というのは秋葉神社もしくは向島あたりに存在したと中世文書などに散見されるそうです。偶然の一致なのか、それとも何かあるのか興味をそそられます。
よミをかれたる旧跡浅草
寺の観音堂はなの
しら雲たなひきし
上野根本中堂金銀
珠玉ハ霞のうちに輝き
草木枝をたれ葉をしき
実かしこき霊地にて
道より遙に西になかめ 原画(早稲田大学古典籍)
夫より宮戸川辺の民
の家居煙たちつくも
ゆかしく苗代水になく
蛙の声長閑に聞えて
面白き気色云ハかりなく候
ハん夫より白髭の明神
※秋葉権現 現住所: 墨田区向島; 解説: 火伏せ(防火)の神を祀る静岡県の秋葉神社を勧請して、正 応2(1289)年に創建したと伝わる。江戸時代には江戸城大奥や諸大名の信仰を集めた 。江戸中一の紅葉の名所。門前には料理屋も多く、参詣の人々で賑わった。
現の社にいこひて甕を
ひらき酔狂の余り都鄙の
老若男女にましはりて
芝生のすミれ皷草(たんぽゝ)なと
手毎に手折りそことしも
なく霞をわけ遊き疲に
臨まは時花駕に夢を
むすひ業平墳の夜の 原画(早稲田大学古典籍)
雨と誰人か詩作られ
たる風色盛情もたし
かたく石原の尼寺多田
薬師太子堂をふし拜ミ
なを日高くハ亀井戸
天満宮に詣吾妻の森
真間のつき橋同まゝ
寺これらはかさね手に 原画(早稲田大学古典籍)
いたし羅漢寺より永代
嶋八幡宮に誓をかけ
汀にうちいて漂々たる
海辺安房上総を遙に
なかめ筑波山水無触
川ハ何處かと陽成院の
釣するあまの小舟由
良の湊もかくやらんと
夕はた雲のさしかゝり
たるに驚き家路に
おもむけはむかふに富士
のしら山鹿子またらの
風情右に浅間かたけ
をちこち人のミやハとかめ
むと在五中将の昔を 原画(早稲田大学古典籍)
したひ侍らん天晴此
春の眺望これにすく
へからす御随心におゐてハ
本望たるへく候来廿五日
月次の御会弥御出座と
存候万端其節可申展候
恐々頓首
月 日 原画(早稲田大学古典籍)