熊本市指定文化財「清田家住宅」の12代当主清田泰興氏から清田家の先祖附きを見せて頂きました。コピーをいただいて一読したのですが、これがなんとも面白い古文書でした。以下に一文を記載します。
文中2行目「義統(よしむね)落去之刻一同ニ落去仕候」の一節があり、これは文禄2年(1593)朝鮮の役の時大友軍に重大な失敗があって秀吉の怒りを買い改易になった事を指しています。この事件を境に大友一族の流浪が始まり、清田五郎太夫も牢人の境涯を余儀なくされます。
主家が滅べば家臣たちは仕官の口を求めて奔走することになりますが、ある年のこと五郎太夫の目覚ましい働きが黒田如水の目にとまりました。4行目から5行目にかけて「人を誤り欠落仕候者御座候に付御城下にて首尾よく討ち放ち申候」とあり、これは奴隷商人に売り渡されようとしていた日本人奴隷を五郎太夫が見事に解放した働きと思われます。その働きを城内から如水が見ていたというのです。ちょっと芝居がかった話なのですが、そのくだりが古文書にしてはおもしろいのです。
ここで我が国における奴隷貿易について簡単に説明をしておきます。鉄砲伝来以来ボルトガル商人には西洋文物の持ち込み等肯定的評価がある反面、同時に「雑兵狩り」といわれる否定的な裏面のあったことが近年の研究で明らかとなりました。つまり雑兵として戦場へ駆り出された農民が負け戦の結果奴隷としてポルトガル商人などに売りつけられていたことが明らかとなったのです。
雑兵狩りをするのは勝者側の雑兵でその楽しみがあるので戦場に出て来るのですが、負け戦となれば自分が雑兵狩りに合う訳ですから、雑兵にとっても、それは賭けであったわけです。また、領主の側はその事をけして良しとしていたのではありませんが、それを禁じたら雑兵が集まらないという事情があつたようで、見て見ぬふりをしていたのでしょうね。
豊臣秀吉は自国の民が九州において大規模に奴隷として売買されていることを大変不快に感じ、1587年7月24日にイエズス会の副管区長のガスパール・コエリョに手紙を書き、ポルトガル人、タイ人、カンボジア人に日本人を買い付けて奴隷にすることを中止するよう命じていますが、これくらいのことで奴隷貿易がなくなるはずはなく、それが消滅するのは我が国の鎖国制度が完成するまで待たねばならなかったのです。
城内より使者が来て五郎太夫は如水の許へ召し寄せられ、盃を賜り仕官の約束も取り付けて己れの幸運を喜んだことでしょう。下がって沙汰を待つようにと言われ、連絡を待ちますが、五郎太夫のところへ如水からの使者は来ませんでした。「はて面妖な・・」と訝しみながらも、仕方なく豊前手拭町の住居へ帰ります。五郎太夫の面白いところは自分の方から催促がましい事を一切言わなかったことです。こういう潔さが戦国武将の気質なのでしょうね。
終わりの5行にその顛末の説明があります。なんと如水は五郎太夫との約束をすっかり忘れていたというのです。後日そのことに気付くのですが、そのとき五郎太夫は既に城下を立ち去っていました。逃がした魚は大きいと言う、「探せ・・!」ということになったのでしょう。やがて、森与三兵衛という武士が「千石之折紙と白銀拾貫目」を携えて五郎太夫を尋ねて来ました。その時の会話の遣り取りを想像すると一席の講談を聞くような心地良さを感じますが、意外にも五郎太夫はこの仕官の口を断ってしまうのです。ここがまた講談めいて面白いのてす。
※ 「千石之折紙と白銀拾貫目」について少し説明します。「折紙」というのは手紙のこと、千石というのは当時博多の町に「千石屋」という紙問屋があったと言われ、そこの和紙に書いた手紙と解釈されています。また、白銀拾貫目というのは銀貨の事で贈答に遣う場合は銀と言わずに白銀と言ったようです。拾貫目というのは銀の重さで、37.5Kgあります。これを金貨に換算すると200両になります。金200両は懐へ収納できますが、銀貨の場合は袋に入れて馬にでも載せて運んだことでしょう。
黒田如水召し抱えの良縁を蹴った剛勇の武士がいるという噂は豊前城下にも伝わり細川忠興の耳に入りました。細川家と黒田家、いずれも関ヶ原合戦の論功行賞で領地の大加増を果たした大名家です。細川忠興は丹後田辺18万石から豊前国一国と豊後杵築を合わせ39万9千石に、中津藩黒田家は12万3千石から筑前53万9千石にこれまた大加増。両家とも急増した領地経営のために家臣団の補充が必要でした。五郎太夫のような豪傑は両家にとって垂涎の人材だったのです。
細川忠興と黒田長政はともに東軍として働いた同僚武将でしたが、長政は忠興の恨みを買う事を仕出かします。国替えの時長政はその年の年貢を持ち去ったのです。そのためにあとから入国した忠興には年貢の徴収ができなかったのです。食い物の恨みは深いといいますが、両家の仲が悪かったのはそのためだと言われています。忠興には長政の鼻を明かしてやりたいという対抗意識があって、そのためにも五郎太夫を意地でも召し抱えたかったのでしょうね。
寛永9年(1632)細川忠利は加藤家改易の跡を襲って熊本藩54万石の太守となりますが、清田家も主家に従って肥後に来ました。
五郎太夫は正保5年(1648)病死しましすが、その時何歳になっていたか文中に記載がないので分かりません。第12代当主の清田泰興氏にお尋ねしましたが、70歳代の高齢になっていただろうと言われるだけで正確な年齢は分かりません。墓所は坪井流長院にあります。
句会日時 2018-7-19 10時
句会場 パレア9F 鶴屋東館
出席人数 8人
指導者 山澄陽子先生(ホトトギス同人)
出句要領 5句投句 5句選 兼 題 晩夏
世話人 近田綾子 096-352-6664 出席希望の方は左 記 へ
次 会 7月20日(金)10時パレア9F 兼題 鳳仙花
山澄陽子選
終列車までの約束盆踊 小夜子
日盛りのぴたりと止みし蝉時雨 〃
夏休みふるさと思ひつつバイト 武 敬
敗退し合宿たたむ晩夏かな 〃
くちなわの通せんぼするたんぼ道 〃
青田風雨の暗さを払ひけり 安月子
鷺降りて青田の色を深めけり 〃
漁協の灯点る晩夏の入江かな 礁 舎
鴉かあーと啼いて梅雨明けにけり 〃
涼しさや覆とれたる天守閣 〃
炎天下色鮮やかな葉鶏頭 優 子
入院の吾子のまなこに大文字 〃
車椅子きしむ廊下や夏深し 興
打水やサンダル濡らす不調法 綾 子
本閉ぢる眼鏡を外す夜の秋 〃
先生の句
無残やな四葩豪雨の泥に伏す 陽 子
遠近の地震や出水や方丈記 〃
大地ある限りは生るる蝉の穴 〃
白南風や憂ひを忘れゐる一日 〃
青葡萄悩みし頃の懐かしき 〃
通町筋電停から熊本城を撮りました。気温37℃超、熊本の夏です。熊本の夏が暑いのは日中の高温だけを云うのではありません。日没後の蒸し風呂のような暑さが余所と違うのです。それは西側に金峰山山系が屏風のように立ちはだかって有明海の海風を遮っているからです。
炎帝にまみえて白き天守かな 礁 舎
主宰5句 村中のぶを
帰るさの櫻蘂ふる月夜かな
夏立ちし白帷子の宮司かな
断崖に車輪梅に海の明け
桐の花はかなき色を流しつつ
ゆく雲の方へ咲きけり竹煮草
松の実集
五月雨るる 柿川キヨ子
五月雨るる阿蘇のお宮の新松子
復旧の進まぬ社さみだるる
梅雨晴の錦江湾や火山灰曇り
三日月を映す代田や蛙鳴く
よく揃ふ蛙の声や夜の植田
口 笛 釘田きわ子
新緑に眼を洗ふ朝かな
木洩れ日の若葉トンネル九十九折り
口笛を吹きつつ自転車麦の秋
枇杷うるる椀ぐ人もなき刑場址
滝音に憂ひ一気に流さるる
花 冷 中山双美子
黒南風やあらがふ園児誕生会
花冷や学生街に古書積まれ
露天風呂駿二両来たれる五月尽
一汁は手摘みの芹や人膳
弟の生まれたと告ぐ兄の夏
雁回山の初夏 西村泰三
万緑や地震崩え告示谷ごとに
よみがへる万緑の照り陽ざしきて
ひねもすの乱鷺庭に墓を守る
雁を射る絵を天井に堂涼し
不如帰正午のチャイムに応へ鳴き
雑詠選後に のぶを
蟻生まれ蟻の死ぬ時誰も知らず 小鮒 美江
歳時記の「蟻」の例句に (蟻の国の事知らず掃く箒哉 虚子)がありますが、掲句はその境涯を詠んで、つまり作者の内なる、いのちへの思ひと共に、ひいては人の生涯をもきびしく見据ゑた表出だと私は強く思ひます。
水中のめだかや水面のあめんばう 白石とも子
前に芭蕉林の句があって、作者は熊本の方ですので、熊本近代文学館に隣接する芭蕉林嘱目の詠句でせうか。その池水の情景をよく詠み取って、童心を覚ます一句です。因みに芭蕉林は、私の本貫の地より歩いて数分の所です。
壇ノ浦ゆたかに迅し青葉潮 温品はるこ
地名がよく生かされた旅吟です。そして読者には改めてその史実が甦つて来て、中七の措辞がそれを余すところなく伝へてゐます。
大雅展へ京七条の夏 菊池洋子燕
「大雅展」とは、池大雅展の事なのです。「京七条」とあれば作者は大雅展が開催されてゐる京都国立博物館へ向かってゐるのです。「夏燕」は鴨川を渡る七条大橋が想起されてその風光をよく叙してゐます。橋を渡ると左手に博物館、右手に三十三間堂の長い屋根が見えて来ます。またこの東山七条は著名な多くの寺社が点在してゐます。一句は以上の風致を物語ってゐるのです。
人生をふはふは生きて蚊を叩く 金子知世
「蚊」が飛ぶやうに、自分も心許無く今までを過ごして来たが、その我と同じ様な蚊を今は叩いてゐると、自省的な思ひの一端を綴った詠句です。しかし「ふはふは」と叙したオノマトペになにか明るさが感じられて、読者は救はれます。興味ある句です。
万緑となりし集落静もれり 柿川キヨ子
「万緑」といふ季語がみごとに把握され、表現された句です。描写に一点の無駄もなく、読者にとっては懐かしい風景であり、作者もまたご自分の里曲に更めて挨拶をしてゐるやうな、そんな情緒の句です。高浜虚子の言葉を借りますと(句に光)があります。
人影も身の寄りどころ黒揚羽 鎌田正吾
「人影」は作者自身の影でせう。「身の」とは「黒揚羽」そのものを指してゐます。つまり句意は作者自身の人影に黒い揚羽が寄って来たと言ふのです。然しそれも「身の寄りどころ」と詩的に表白してゐます。ここに句の眼目があって、達意の一句と評してよいでせう
励ましは子にも我にも蝸牛 勝 奇山
好きな句に(かたつむり日月遠くねむりたる 夕爾)がありますが、「蝸牛」には何故か星辰的な印象があります。
一句の「励ましは子にも我にも」とは、将来へ向かって努力することの、それは作者自身にも共通する事であるといふ。その対象にかたつむりとは別に不可解なことではなく、むしろ成句として面白い表現だと恩ひます。そして句の背景には作者の人生観が窺へます
ゆく春や医師淡淡と癌を告ぐ 安永 静子
前句に「春愁や癌に片肺無くすやも」がありますが、作者は実に冷静にご自分の病息を吐露して、反面、病に対するその身構へが伝はつて来ます。 唯唯、ご本復を願ふばかりです。
花も名も芝居気取りの菖蒲園 福島公夫
一句の「芝居気取り」とは直ぐ歌舞伎のことを恩ひ出しました。朝顔には団十郎とか名の付いたものが店頭に並び、歌舞伎では朝顔日記といふ場面を思ひ出すのですが、花菖蒲では直ちに思ひ付くものはありませんでした。所が勝手なことですが、「花も名も」 の措辞に、いはゆる歌舞伎のきらびやかな、菖蒲にも名優の名が付き、それにあの見得を切る場面が浮かんで来て、都内に住む作者であれば、堀切菖蒲園辺りの嘱目の風景かと思ひ出しました。見得を切って居並ぶ場面に市相羽左衛門などの弁天小僧がすぐ浮かんで来ました。
先師の (己の感性を養ふために、何でも観ておく事が大切です)と。常々聞いてゐましたが、未だ私の胸に残ってゐます。
臨終の猫に添ひ寝の明易し 赤山則子
生命の尊厳といふ言葉がありますが、人も猫にしても全く同じと思ひます。「猫に添ひ寝」は私も経験があります。
夏帽に笑まふ遺影の母抱き 吉永せつ子
誰もが一度は経験する悲しみですが、「夏帽に笑まふ遺影」の明るさが況して哀感をそそってゐます。「母抱き」は母その人を抱いてゐる様です。
寺歴によれば西福寺の創建は1566(永禄9)年、山本武重3男鬼熊丸が鮎帰村早水に天台宗の「昇道庵」を開基したのが初めと伝わる。
この文書には1720(享保5)年の日付があり西福寺の寺号を認められるまでに154年の歳月を要していることが分かる。
端書無之
今度寺號西福寺と 今度寺號西福寺と
願之通遂言上候處 願之通り言上を遂げ候ところ
則被成 御免候間難 則ち御免なられ候間難
有可被存候依如此候也 有がたく存ぜらる可く候依て此の如に候なり
横田内膳 花押
享保五年
庚子七月八日
西光寺殿門徒光厳寺下
肥後国八代郡松求摩村
西福寺
宗見
文書にある西光寺殿というのは熊本市細工町にある西本願寺派の古刹で本願寺では熊本で最も古い寺院である。その門徒である光厳寺の更に下の寺格であると格付けている。宗見はその時の住持である。
相良佛飯講宛 一通
端書無之
今般 思召を以
御開山様御影被下置候間
難有安置有之弥法義
無油断被為相続
御本山御馳走可有之旨被
仰出候也
嶋田右兵衛尉
慶応三年卯年
六月廿七日 正誼 花押
肥後相良
北山講中
上の文書は京都の西本願寺から肥後相良北山講へ発給された文書です。日付は慶応3年とありこの時代人吉藩は浄土真宗は禁教でしたから親鸞上人の御影と文書は取り次ぎ寺である鮎帰り西福寺まで届けられました。
さて、文書と御影を秘密裏に現地の講中へ届けるのは慎重を要する作業であったに違いありません。講中の門徒とも相談の上、文書は西福寺が保管し、御影だけが講中へ渡されたものと思われます。御影は失われています。
日曜だというのに健軍商店街は閑散としています。校区内の幼稚園、保育園の七夕飾りが飾りつけてあるのが却って空しさを誘います。何とかならないかなあー・・