古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

鶴亀句会 2月例会 2018-2-16

2018-02-16 23:01:04 | 鶴亀句会

会日時   2018-2-16  10時

句会場        パレア9F 鶴屋東館

出席人数   9人(不在投句1人) 

指導者    山澄陽子先生(ホトトギス同人)

出句要領  5句投句 5句選   兼 題  梅

世話人    近田綾子 096-352-6664 出席希望の方は左 へ。

次 会   3月16日(金)10時パレア9F 兼題 桃

 

山澄陽子選

梅ふふむ間近を走る新幹線          優 子

ぶくれてコンビニおでん食べにけり      〃

吾が庭の白梅亡父の愛せし木         茂 子

梅林の香り漂ふ通り道             〃

恋知らぬまま果てにける我が猫よ       武 敬

梅見つつ懐メロ歌ふ老五人           〃

金柑の雪を被りて愛らしき          礁 舎

葵紋庫裡にかけある梅の寺           〃

白梅や師は厳しくも優しかり         小夜子

鏡台に亡母の口紅寒椿             〃

地震の崖踏ん張る一樹梅開く         安月子

紅梅の一輪に庭華やげり            〃

沼の端に光り揺らして蝌蚪生るる        〃

菜の花のおひたし食ふて酒旨し        順 子

梅園や声よく通る友のゐて           興

肥後独楽を道いつぱいに打ちし昔        〃

梅の枝床に活けあり師を追慕         綾 子

廁窓梅の蕾を見やりけり            〃

 

 

先生の句

春立ちぬ八重の潮路を航く汽笛

南国の幸雪掻きの労もなく

降りゐてもどこか明るき春の雪

この小さき浦曲懐かし暖かし

煩悩の虜になりて春を待つ

 

 


下田西宮神社

2018-02-13 21:23:37 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年十月廿七日

一、南郷布田手永下田村氏神雨宮大明神え風霜留めの立願結び置き候に付願解きとして御国の人形廻しを雇い右社内において一日軽く願解き仕り度由 御惣庄屋布田九左衛門書付 御郡奉行衆より相達せられ候に付 例書相添え 御家老中へ相達し願いの如く仰せ付けられ候事

 この神社は「下野の巻狩り」を取り仕切っていた社として名高い。巻狩りと言えば源頼朝が富士の裾野で行ったのが有名であるが、それを実施するに当たって頼朝は古代から巻狩りを行っている阿蘇大宮司家へ梶原景時を派遣してその作法等を学ばせた。阿蘇家側の応対者はこの神社の宮司であったので、梶原はここで手ほどきを受けたことであろう。

 それは鎌倉時代のことで江戸時代になると巻狩りなどは行われなくなり、ここも五穀豊穣を祈願する普通の神社になって、秋祭りには上記のような催事が行われた。


宇土郡網田若宮神社

2018-02-13 11:21:54 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年九月廿五日

宇土郡網田村若宮祭礼九月廿九日にて候 前々より宮下の氏子共笹踊り仕来り候に付て当年も旧例の通り笹踊りにて神事相勤め度き由 御惣庄屋書付御郡奉行衆より差し出され申され候に付 例書相添え御家老中へ相達し願いの如く仰せ付けられ候事

 これは解説を要しない平明な文章です。「前々より宮下の氏子ども笹踊り仕り来たり候」という表記のうちに、年に一度のお祭りを村人たちがどれほど楽しみに待っていたか分かります。これを中止することなど藩主といえども出来なかったようです。


豊野神社(小熊野神社)の祭礼

2018-02-13 09:52:22 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年九月廿五日

一、下益城中山手永長岡図書殿知行所下郷村水少なき所柄にて古田並びに加成田共に水不足仕り候に付 例年御給人方より所の氏神小熊野郷上郷村妙見社え水不足不仕様に立願を結び 願解きの儀は御鬮(くじ)次第に仕り候様にとの儀に付当年は踊りの御鬮下り候間御国内の春駒を雇い願解きの踊り仕度由御惣庄屋中山孫左衛門書付相達され候に付例書相添え御家老中相達され願いの如く仰せ付けられ候事

 今では豊野神社と呼ばれていますが、藩政期は「妙見社」と称していたことがこの文書で分かります。また、長岡図書というのは細川家御一門の刑部家のことで小熊野郷は同家の知行所であったことも分かります。この辺りは水不足勝ちであったとあり、なるほど小熊野川一筋ではさもあろうかと思われます。同川は浜戸川の支流で川というより沢というべき細流です。さて、秋祭りの催事を何にするか、それを鬮で決めるところが他に見られぬ面白いところ。この年は踊りに決し「春駒」廻しを雇うことになりましたが、他にどんな選択肢があつたのか「芝居」、「神楽」、「相撲」等思いつきますが本当のところは分かりません。また「春駒回し」というのは正月の門付け芸とも思われ、専門の芸人が合志郡竹迫村に居たことはわかっていますが、芸能の中身は伝わっていません。

 


大名間の水夫の貸し借り 人吉藩より申し入れ

2018-02-07 22:27:30 | 享保年間の熊本藩古文書

享保四年九月十三日

一、相良遠江守様御手船今月十六日大坂え指し登せられ候に付八代郡植柳村のもの共五人水夫に御雇い成られ度由球磨小屋在番衆より高田理右衛門へ申来たり候間差し上せ当十二月中に罷り下り申す筈に候 理右衛門五人之もの共邪宗門転び類族にも之れ無く候差し登せられ下され候様にと理右衛門書付御郡奉行衆より相達され候に付御家老中へ相達し願いの如く埒明き候事 御奉行方逗留中念を入れ候様に堅く申し聞かせ遣はされ候様にと沙汰しめ候事 

 これは隣国人吉藩から水夫を5人ばかり操船のために雇いたいという依頼文書である。大名間のこのような人員の貸し借りは広く行われていたようである。大坂へ船を出すというのは米の輸送と考えてよいであろう。

※高田理右衛門というのは八代郡高田手永の御惣庄屋である。決裁の流れは「御惣庄屋」→「郡奉行衆」→「郡方」→「家老」

 


俳誌「松」 水仙號 平成30年1月

2018-02-01 14:38:23 | 

主宰5句   村中のぶを

柿の秋斑鳩の里塔見えて

秋幽明救世観音の御前かな

秋日濃き中宮尼寺へ築地みち

鮟鱇の阿鼻叫喚の身を曝し

空さやに風さやに遠冬嶺かな


  雑詠選後に    村中のぶを

鋼板(かうはん)のごとき水なり蓮の骨       菊池洋子
 掲句は枯れ枯れた蓮田の景色を詠じてゐるのですが、つまり既知のやうに蓮は厳冬になると枯れ果てて、水中に没したり泥田にくの字に折れ曲ったり、また葉柄を突き立てたりして哀れな光景を曝すことになるのです。季語の「蓮の骨」とは斯様な風景を指してゐるのですが、「鋼板のごとき水なり」とはどの様な事象を叙してのことか、都心なら不忍池、当方では土浦市近郊の、全国一のれんこん生産を誇る広大な泥田を連想するのですが、厳寒の頃の蓮田は実に無残な荒れ様を呈してゐます。そしてその田水は氷る氷らずとも一切張り詰めた硬板の様な水面が行き亘り、鈍い光を露にし、一句はこの景観を鋼板のごとき水なりと意を強くして描写してゐるのです。 改めて上五、中七の叙述は当節の蓮田を如実に表出してゐると思ひます。尚またかうばんと読まず、かうはんと清音で読ませてゐるのは、作者の文語、文体への感覚を示してゐます。
 
蕎麦刈りて干すドリーネに風湧く日    安部 紫流
 句は山口秋吉台のカルスト台地の諷詠でせう。ドリーネとは石灰岩地帯に生じた揺鉢状の窪地の事とありますが、その窪地に窪地に蕎麦を干し、一帯の石灰岩と共に白々しい秋風を、一句は「風湧く日」と、印象的に詠み取ってゐます。私も一度訪ねてゐますが、やはり白い石灰岩群が目に残ってゐます。

 

わが老を諾ふ小春の影法師    向江八重子
 (俳句は日記)と唱へる俳人がゐますが、一句もまた目の前の日常の些事を刻むやうに詠じてゐます。その「小春の影法師」とはどの様な姿なのか、それが如何様な姿であれ、読者には小春の日の「わが老」の影に納得し、自身を委ねやうとする、安息に似た作者の明るい心情が伝はつて来ます。それに私は作者が熱心なカトリックの方であることに納得しました。
 
捨てる神に拾ふ神あり冬ぬくし    小泉 晴代
 慣用語の 「捨てる神に拾ふ神あり」とは、辞書の一つに(日本には八百万の神がゐるのだからくよくよすることはない、捨てる神があれば助ける神あり)とあります。つまり見捨てられても、一方で救ひの手が伸べられるとの事、このやうな文言を一句に上げるとは面白いと思ひます。それに当節も「冬ぬくし」と大らかに叙して、ひいてはユーモアと諧謔とを交へた人生詠を示してゐるのです。
 
いにしへの納屋に宴や炭火美(は)し   竹下 和子
 「いにしへの納屋」とは普通の農家の納屋ではなく、昔の商業用の倉庫などの事を叙してのことか、作者が球磨の方であれば、きつとその「宴」は古びたうす暗い焼酎蔵でのことかと思ひます。そして結句の 「炭火美し」はなにか往時の暮らしを象徴してゐるかの様です。

 

わたましの妹に茶の花日和かな     園田のぶ子
 「わたまし」とは耳馴れない言葉で辞書には古語として(移徒・渡座)と表記され、転居、転宅の尊敬語とあり、渡座の祝の略、とあります。
 作者は島原の方ですが、実は先年刊行された『まぼろしの邪馬台国』といふ書に、有明海の西海岸を邪馬台連合国の一国だったとし、島原地方も属する説を載せてゐます。そこでこの様な説が伝はる地方であればこそ、転居の祝もわたましと言って古い言葉が日常交はされてゐるのかなと思ひ至るのです。「茶の花日和」と呼ぶ風光と共に一句は、とある在所の穏やかな平常を伝へてゐると思ひます。
 
海風のいつはりのなき寒さかな    勝  奇山
 一読して「いつはりのなき」とは異質の表現だと思ひます。つまり自然の風候を人語に譬へて叙してゐるからです。それも当季の海よりの寒風を平易な口誦性の措辞で表出して、それこそ海辺に住む作者の土着の証としての、風趣ある諷詠と評してよいでせう。

 

枯山に眠りうながす全き日    温品はるこ
 「枯山」とは草木が枯はてた山を指すのですが、「眠りうながす全き日」とは、(山眠る)といふ季語があって、重ねてその日ざLを強調した句意に注目すべきでせう。

 

ヒュッテめく知事公館や枯樺(かんば)    山岸 博子
 札幌の方の一句ですが「ヒュッテめく」は山小屋の様だと叙して、「枯樺」 の木立の中の公館を詠じてゐます。それもなにか北欧らしい風光で、確かに北国ならではの詠情だと恩ひます。
 
母思ふ「回天」の遺書秋ふかし    中村千恵子
 詠句の「回天」とは人間魚雷として一隻の潜航艇に一人乗り、敵艦に体当りした特攻隊の事ですが、私の中学生の頃の戦況が甦ります。『きけわだつみのこえ』 岩波文庫にその遺書集がありますが、一句はその記念館に展示の遺書の事です。最期の時まで若人の母への文は胸を衝きます。