古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

5月最後の読み合わせ会 膝栗毛初編15

2016-05-26 20:48:14 | 膝栗毛初編

平井さんのヤフオク購入品

会員の平井さんがヤフーのオークションで買ったと言って持参されました。浮世絵のトランプと手習のテキスト。桝添都知事が美術品を購入したあのヤフオクです。

東海道53次(浮世絵)をあしらったトランプ。日本橋から箱根までを並べました。

江戸時代の手習い用テキスト

慶応四戊辰年 書翰用文鑑 蘭月吉祥   ※ 蘭月は陰暦7月の異称(この年の9月8日に明治と改元)

これは近田綾子さんが購入された新刊本

崩し字は「左様御承知可被下候(左様御承知下さるべく候)」と読みます。近田さんは前会入会されたばかりですが、なかなか熱心です。


しらみうせ紐 膝栗毛初編14

2016-05-25 15:36:50 | 膝栗毛初編

しらみうせ紐の看板

 弥次・喜多の初日の泊まりは戸塚宿でしたが、2日目宿を発って街道に出ると乞食坊主に出会い銭をせびられます。その遣り取りがおもしろいので以下に引用します。

むこうよりちょんがれぼうず、やぶれたあふぎにて手をたたきながら、

坊主「ヒヤア御はんじょうの旦那方一文やつて下しやいませ」、

弥次「つくな つくな」、

坊主「とことことこよいとこな」、

喜多「コレ、つくなといふに、銭ハねえへ」、

坊主「ナニ、ないことがござりやしよ 道中なさるおかたにはなくて叶わぬぜにと金、またも杖・笠・蓑・桐油なんぼ しまつな旦那でも、足一本でハあるかれぬ。その上 田町反魂丹、コリヤさつてやのしらミ紐、ゑつちうふどしのかけがえもなくてハならぬ。そのかハり古いやつハ手ぬぐひにおつかひなさるが御徳用」、

弥次「エエやかましい、ソレやろう」

と、はヤミちより一文ほふりだす。坊主「コリヤ四文銭(なミセん)とハありがたい。」

弥次「ヤ四文ぜにか、なむさんぼう、三文つりをよこせ」

坊主「ハゝゝゝゝゝゝ」

弥次「いめへましい」

 上のやりとりで面白いのは乞食坊主のセリフの中に旅の携行品目がでてくるところです。ぜに金、杖、蓑、笠まではわかりますが、桐油とは・・?これは紙製の合羽のこと。雨具、防寒兼用です。桐の実から製した油を塗ってあります。

 反魂丹、俗に越中富山の反魂丹と呼ばれる腹薬のこと。ここでは芝田町境屋のものを言っているようです。

 さつてやのしらみ紐というのは挿絵を載せました。小伝馬町に  さつてや という店があったようです。

春よ江戸かゆいところへ手がとどく  椎下堂 活麿

 正確な名称は「しらみうせ紐」といい、腰紐様の紐に水銀を混合した薬品をぬり襦袢の下に付けておくとしらみ除けに効があったそうです。近代になってからも軍隊の中で重宝がられ大陸へ行く兵隊はこれを携行したそうです。

 旅の乞食坊主が、いきなり銭の無心をしますが、弥次・喜多はそれに応じます。その態度に少しも不自然さがなく、江戸時代というのはそういう社会だったのですね。「反魂丹」、「越中ふんどし」等もっと解説をしたいのですが、それは別の機会に・・。


俳誌「松」 若竹号  主宰 茂木連葉子

2016-05-20 22:42:09 | 俳句

矢切の渡しと小説「野菊の墓」

 表紙絵は例によつてBENさんの作品で「矢切の渡し」です。細川たかしが唄って大ヒットした同名の歌謡曲があります。調べてみたら昭和59年の発売でした。32年も経つのですね。

 「つれて逃げてよ・・・ついておいでよ・・」カラオケでずいぶん歌ったものです。この曲は石本美由起の作詞ですが、巧い歌詞ですね。「噂かなしい柴又すてて・・」という歌詞から松戸へ上がり、さてそれから先は・・「しらぬ土地だよ・・」と格好よく強がりを言ってはみても、悲しい逃避行に変わりはありません。が、そんなことを追求してもあまり意義のないことで、ここはわが民族のノスタルジーの世界に浸って居ればよいのでしょう。

 近松の心中物を読むような感興に打たれますが、高度成長期にあってもこういう復古調が流行るのですね。そう言えば「昭和枯れ芒」というのもあったなあ・・どちらも高度成長に乗り遅れた人々の哀感を反映したものなのでしょうか。

 また、この渡しは映画「男はつらいよ」でも屡々登場しました。昭和44年に公開された第1作では冒頭に出て来ます。この時、寅次郎は松戸側から乗船して柴又へ上がり帝釈天を訪ねます。大人30円、子供20円と書いた古ぼけた板が映し出されます。

 矢切の渡し」に詩的情調を付与したのは明治の歌人、伊藤左千夫。

 伊藤左千夫に「野菊の墓」という小説があります。明治39年(1906)『ホトトギス』に発表され、漱石が激賞したことなどもあって好評を博し、以来読み継がれているだけでなく、幾度となく映画やテレビドラマになり、また舞台でも上演されました。

 小説のクライマックスは「矢切の渡し」での別離のシーンです。ここは涙なしには読めぬところで、映画でも女子学生の紅涙をしぼるところとなっています。 ただし作中の「矢切の渡し」は江戸川を渡って柴又へ向かう実在の渡しではなく、千葉方面へ行くときの「渡し」として設定されている架空の渡しなのですが、小説の舞台が矢切村であることから、実在する「矢切の渡し」をイメージして書かれたことはまちがいありません。


神奈川宿 台町とは・・? 膝栗毛初編13

2016-05-18 14:33:16 | 膝栗毛初編

~~はや神奈川のぼうばなへつく。それよりふたりとも馬をおりてたどり行くほどに神奈川の台に来る。ここは片側に茶店軒をならべ、いづれも座敷二階造り、欄干つきの廊下桟(かけはし)などわたして、浪うちぎワの景色いたってよし。~~

 弥次・喜多は川崎宿で大名行列を見物したあと、勧められるままに200文を払って2里半の道のりを馬に乗って神奈川宿に来ました。200文というのは2匹の馬を並べてとありますから、1人100文ということになります。

 「ぼうはな」というのは「これより神奈川宿」と記した棒杭のこと、もしくはそれが建っている地点を指し、「神奈川の台に来る」というのは台町に着いたということで、広重の絵でも分かるとおり、ここは少し登り坂になっています。台町は宿の中心なのでしようが、道の右側に建物はないのでしようか、広重はそこを描きこんでいないし、一九の文章もそこには触れていません。台町は片側町だったのか、気になりますがご存知の方教えてください。

 広重の浮世絵 神奈川宿

 ~~ちゃヤのおんなかどに立ちて「おやすミないやァせ、あったかな冷飯もございやァす。煮たての肴のさめたのもございやァす。そばのふといのをあがりやァせ。うどんのおつきなのもございやァす。お休みなさいやァせ。」~~

 おもしろい呼び声ですね。 「・・・やァせ、・・・やァす」というのは考証がありますが、「あったかな冷飯、煮たての肴のさめたもの・・」以下の呼び声は一九の創作のようです。

 茶屋のむすめ「お休みなされやアせ、奥がひろふございやす」、喜多八「おくがひろいはずだ、安房・上総までつづいている。」

 広重の絵を見ていただきたいのですが、海の向こうの島影は正に安房・上総なのです。広重はこの絵を描くときに一九の文章を参考にしたのではないか。膝栗毛は享和2年(1802)の上梓、広重の絵は天保4年(1833)31年後のことですが、文章と絵があまりにぴったりとはまっています。


新入会者あり、8人の会へ

2016-05-13 07:52:36 | 日記

 5月12日(木)の例会時に入会希望の方が見えました。

 新老人の会俳句サークルの代表をなさっている近田綾子さんです。俳句会の席で古文書サークルの紹介をしたことがありましたが、まさか例会の場へ突然訪ねて来られるなど想定外の出来事でした。

 世話人の今村さんはじめ皆さん大喜びで、我が古文書会も8人の会へと成長しました。

 男性⒋人、女性⒋人の構成です。

この建物の2階で読み合わせ会をやっています。(第2・4木曜日)

公園参道の鳥居が撤去されました。締まりのない風景になったようでさびしい・・早く再建してほしいものです。

池の水が少し戻ってきました。干上がったところを全て埋め尽くすまでにはなっていませんが、一頃の殺風景が幾分緩和しました。

 

 


往来手形 膝栗毛初編12

2016-05-06 09:53:17 | 膝栗毛初編

~旦那寺の仏餉袋をやわらかにつめたれバ外に百銅地腹をきつて往来の切手をもらい、大屋へ古借をすましたかわり、御関所の手形をうけとり・・~

 上記の文章から往来切手というものは2種類用意したことが窺えます。つまり百銅(百文)の自腹を切って貰った手形は諸国寺院向けでこれは旦那寺からもらい、関所向けは大家に頼んだということです。では実際の書付けがどんなものであったか、江戸飯倉町一乗寺発給の手形を見てみましょう。

【例1】

   一   札

一 拙寺檀家江戸京橋古着店三右衛門母とみ儀心願に付今般千ケ寺参詣に罷出候、以御慈悲諸国

   御関所無相違御通可被下候。為後日往来一札仍而如件

                   江戸芝飯倉町

文政十一戊子年            一乗寺 印

諸 国

御関所

御番衆中 

【例2】

   一   札

一 拙寺檀家江戸京橋古着店三右衛門母とみ儀心願に付今般千ケ寺参詣に罷出候、

一返之御首題奉希候、若行暮候はゞ一宿被仰付可被下候、万一病死仕候はゞ、以御慈悲其所に御取置被下、幸便之節為御知可被下候、為後日往来一札仍而如件

                   江戸芝飯倉町

文政十一年戊子年           一乗寺 印

諸 国

  御寺院中

 弥次・喜多が貰った手形がどのようなものだったか作品に記載がないので分かりませんが、それは上記2例のようであったろうと思われます。手形文言中の「誰それ母とみ儀」というところを「江戸神田町何々店弥次郎兵衛及び食客喜多八儀」と書き換えればよいのです。

 例1は諸国関所、番所宛てのものです。仏餉袋(ぶっしょうぶくろ)にやわらかにつめたればとあるのは、寺の法要(彼岸、盂蘭盆会、施餓鬼等)の時檀家は仏餉袋に米を詰めて持参するのですが、しみったれの弥次・喜多はそれをやわらかに詰める、つまり3合のところは2合5勺、1合のところは8勺とケチッて納めていたので、寺のウケが悪く、手形をもらう段になって自腹を切らされたというのです。

 また例2は諸国寺院宛てのもので、旅行中病死をしたようなときは当寺へ知らせて欲しいと書かれています。この手形は大家に頼んで発給者へ申請するのでしようが、店賃が溜まったままでは頼めないので店賃をすっきり清算したということです。

 江戸芝飯倉町 一乗寺というのは港区麻布台に現在も存在する日蓮宗の寺院です。「一返之御首題」というのはお題目「南無玅法蓮華経」の功徳を授かることで日蓮宗に特有の文言のようです。

 また別の文書に、「今般心願ニ付甲州身延山並諸国霊場参詣ニ罷出候処一返ノ御首題御受ケ下サレ度候・・」という文言が見えこれも日蓮宗寺院発給の手形と思われます。

 さて、上記2例の文書は古文書を翻刻したもので、古文書のサイトとしては古文書そのものを載せたいのですが、それは所有者の著作権に触れる事になり無断ではできません。 やむを得ず翻刻文を掲載しているのですが、それも読みつらいので読み下し文にしてくれという要望があります。便宜のために本文のみ読み下し文を掲載します。

一 拙寺檀家 江戸京橋 古着店 三右衛門母とみ儀 心願に付今般 千ケ寺参詣に罷出(まかりいで)候、御関所相違なく御通し下さる可く候。後日のため往来一札よってくだんのごとし。

一返之御首題希い奉り候、若(もし)行暮候はゞ、一宿仰せ付けられ下さる可く候、万一病死仕候はゞ、御慈悲を以て其所に御取置下され、幸便之節 御知らせなし下さる可く候、後日のため往来一札よってくだんのごとし。


四時軒被災 熊本震災4

2016-05-02 22:16:49 | 熊本震災

 私の家から四時軒までは直線距離で1.36Kmです。ご近所と言って良いくらいの距離ですが、その四時軒の被害がひどいです。明治時代に大きな地震があったと聞きますが、四時軒はのこりました。また震災3で紹介した清田家住宅もその時は無傷だったようです。そのことを考え合わせると今回の地震は古今未曾有の大地震ということになります。

この写真はネットより取得しましたが、震災前の四時軒の座敷(12畳)です。早春の柔らかな日差しが畳の上にまで差し込んで和風ならではの静閑の気が横溢する雰囲気のある写真です。

 この部屋で小楠は客に会い弟子に講義をしていたはずです。元治元年(1864)には坂本龍馬が二度(2月と4月)にわたつてここを訪ねていますが、その時もこの部屋で会談したことでしょう。下に勝海舟宛て小楠書簡を引用しました。

 この書簡で小楠は金子を贈られた礼を言っていますが、この時(4月)勝は幕命で長崎へ来たついでに龍馬を使いに出して金子を贈ったのです。禄を離れた小楠の経済事情を察しての思いやりでした。

     一書奉呈仕候益御安泰ニ被為成   (一書呈仕たてまつり候、ますます御安泰になられ)

     御勤恐悦ニ奉祝候先以熊本     (御勤恐悦に祝いたてまつり候、先ず以て熊本)

     御通行之砌ハ坂下生御遣し懇々  (御通行の砌は坂本生御遣わし懇々)

     被仰聞其上金子拝戴         (仰せ聞かされ、其上金子拝載)

     御厚情不浅奉存候・・・         (御厚情浅からず存じたてまつり候・・)

上の写真の座敷が今はこの有様です。

休館の張り紙が痛々しいです。

 

四時軒からの眺望。坂本龍馬の2度目の訪問は4月でしたからちょうど今頃の季節です。手前の窪みは秋津川で今は水がちょろちょろと蘆間を流れている程度の小流れですが、往時は湧水量も桁違いに多く清冽な流れでした。龍馬もこの景色を眺めたはずです。


清田家住宅被災 熊本震災3

2016-05-01 21:23:53 | 熊本震災

 水前寺古文書の会世話人の今村さんと清田家当主の清田先生とはともに豊後大友家支族の裔で、そういう間柄は自然にそれなりのお付き合いが生まれるようで、今回の地震に際してもお見舞い旁お手伝いに行きませんかと今村さんからお誘いがかかり、二つ返事に了解して夫々の車で出かけました。

 私は自宅から江津塘の道路(R266)を蓍町橋(めどまちばし)まで行きそこを右折して下流二つ目の橋である迦堂橋を左岸へ渡って清田家に至る経路を想定して行きましたが、蓍町橋手前での右折は堤防補修工事のため通行止め。仕方なく橋を渡り左岸側の堤防を下ることにしましたが、ここも通行止め。旗振りの人に聞いたのてすが、緑川の堤防はずっと下流まで、堤防補修工事で両岸とも通行止めになつているということでした。地震のダメージの大きいことを思いしらされました。

 清田家に着いてみると今村さんは未着、長屋門を潜って声をかけましたが清田先生も御留守のようで屋敷内は森閑としています。仕方なく屋敷内外の被災状況を勝手に見て廻りましたが、ひどい有様です。被災を免れているのは庭に咲いているアヤメ、アイリス、芍薬、一八、春菊等の季節の花のみでした。

 解体しかないだろう・・と清田先生が漏らされたそうですが、主屋は傾いて捩れも加わって土壁はいたるところで落下、米倉は全壊、長屋門も外壁に亀裂が入り、内外の塀はいたるところで切れて傾いています。有形文化財に指定された建造物のすべてが被災しています。清田先生のつぶやきも無理からぬ事ですが、これは文化財であり復原して遺してほしいものです。

清田家住宅の概要と写真を以下に掲載します。

     熊本市指定有形文化財(建造物)

清田家住宅 附細川忠興知行宛行状他九点

指定年月日   平成二十一年六月十五日

員 数       主屋、長屋門、米蔵、外壁、内壁及び古文書

建築の年代   明治六年(1873)~明治九年(1876)

構造と沿革   入母屋造り木造瓦葺き、廃藩後居宅として創建

所在地      熊本市富合町釈迦堂字土位ノ内二十二番地

所有者      横浜市港北区大曽根1-5-8-34  清田泰興 

【指定の理由】

 清田家は、もと豊後国主大友氏の支族であったが、細川氏豊前国統治時代、初代五郎太夫は忠興の家臣となり、弟寿閑の娘・吉は立孝(宇土支藩祖)、興孝(刑部家祖)を生んだ。近世後期に本家を嗣いだ栄太は、明治維新後城下を離れ、縁故のあったこの地で地主業に転じた。

 清田家の屋敷内には主屋を中心に、長屋門、米倉、外塀、内塀が残されている。主屋の内部は、東側に家族の生活の場である茶の間、土間、西側に接客のための玄関、座敷が続く。

 この形式は江戸時代松木の庄屋造りを踏襲するものの、屋根は入母屋、瓦葺きである。また内部の柱、桁、梁などの部材は太く、このため力強い生活空間を形成している。

 清田家所蔵文書のうち、慶長十七年(1612)の知行宛行状、同目録には忠興の花押、ローマ字朱印が、また寛永十年(1633肥後入国直後)の知行目録には忠興のローマ字藍印が押されるなど、貴重なものである。

 平成二十一年十月  熊本市教育委員会

瓦の由緒書き

大破した米蔵の前で左から今村、清田、平川の順