結社の主宰というのは孤独な存在で、誌上に作品を発表してもそれについて評言を述べる読者は一人もないというのですね。主宰は結社内では権威をもつ存在で、その主宰にたとえ鑑賞文のようなものでも、もの申してはいけないというような不文律がこの世界にはあるようです。
主宰の側からこれを見れば作句に無反応というのは寂しいことに違いないと思うのです。わたくしは読者ではあるけれど投句はしていないので比較的自由な立場にあるので主宰の俳句を鑑賞してみようとおもいます。
主宰五句 村中のぶを
奥津城や提燈花の一ところ
独活の花山はろけさにあるばかり
夏帽子背にすべらしし髪愛し
撰一日明窓机邊花あふひ
「川辺川」とふ球磨焼酎の宜しさよ
「奥津城や」の句
奥津城(おくつき)というのは「奥深い所にあって外部から遮られた境域」という意味で古代においてはそういうところに「柩」を置いたので、そこから転じて墓域、お墓を指すようになりました。ただし「釈」 と刻まれているような仏教墓と区別して神道における埋葬形式の墓をこのように呼ぶそうです。
作者が敢えて「奥津城」と遣う場合はやはり神道意識があるのだと思います。そういうお墓の近くに提灯花(ほたる袋)が一所にかたまって咲いているというのです。一見なんでもない風景のようですが、これは作者の心の中にある神道的な原初風景と眼前の風景とが同期してたがいに響き合う状態にまで高まったのです。そういう場合人は大いなる感動を覚えるものです。その精神の昂ぶりから迸り出た言葉が句になったのではないか。だからこの句は単純を装っていながらけして単純な句ではないのです。わたくしにはこんな句はとても詠めない。
「独活の花」の句
独活(うど)は林の際など日当たりのよい場所か半日陰の傾斜地などに自生する多年草で、せり、わらび、タラの芽などと同じくこれを食すると体内の毒素を除くと言われ、かすかにアクがありますが、それが躰によいそうです。
作者は山林の登り口付近に立って賑やかに群生している「独活の花」を見ているのですが山に登る気はなく、静かな山だなあと思ってしみじみと山の姿を見ていたというのです。内容的にはそれだけの句ですが、この句は措辞の上で面白い句となっています。
それは「はろけさ」という辞の名詞化です。「遙けし」原辞はク活用の形容詞ですが、これを「はろけし」と読ませ更に「はろけさ」と名詞化したのです。そのために一句は佳句になりました。「山ははるけくあるばかり」と比較してみてください。
「夏帽子」の句
妙齢の女性の髪が帽子をはみ出して背へ垂れている。そこを描写したのですがそのテクニックが実に素晴らしい。先ず「すべらしし」、この措辞が素晴らしさの中心です。初めの「し」はサ行5段活用「滑らす」の連用形。普通には助詞「て」をともなつて「つい口を滑らしてしまった」のように遣う。ここではもう1つ「し」がついて「すべらしし」となつている。2番目の「し」は文法的にはちょっと難しいですね。
過去の助動詞「き」の連体形の「し」とすることもできるのですが、この句は現在進行形でしょう。「大空にまた湧き出でし小鳥かな 虛子」の「し」と共通しています。虛子の句の「し」も過去ではなく現在眼前に展開している光景です。これはけして過去のことではない。わたしは完了・存続の助動詞の連体形ではないかと思うのですが、どの文法書にもそれはありません。
下5の「髪愛し」は「カミカナシ」と読みたいですね。女性の豊かな髪は美しいものですが、加齢ととも褪せてゆく。その速度は意外に速いのです。「無常迅速」。
「撰一日」の句
主宰ともなれば送られてきた投句を選句して序列を付けなければならない。この撰ということが一大事で、投句者に上手、下手があったとしても真剣に詠んだ句を投句して来るのだから、その期待に応えるためにも心を引き締めて選を行い正当な評価を与えねばならない。
下5の「あふひ」もいっそのこと「葵」と漢字表記にしたかったのではないか。一日書斎に籠もって選句作業に打ち込んでいる緊張感が、きりりと引き締まった漢字表記に顕れています。また季題「あふひ」がよく働いてその感じを深めています。これが「薔薇」や「牡丹」では何かちぐはぐな句になってしまうでしょう。
「川辺川」の句
かねて謹厳な主宰もお酒には目のないお人のようですね。球磨焼酎ときけば目尻の下がるお人ではないだろうか。投句の中に球磨焼酎を詠んだ句などと遭遇すると思わず舌なめずりをしてしまうような、そんなお人となりを想像してしまいます。