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近江FWⅢ -8-

2024-11-24 07:25:39 | 取材・旅行

近江FWⅢ -8-

令和6年11月16日、いつものメンバー(積知積徳会)で、観音寺城周辺へFW(フィールド・ワーク)に行ってきました。その様子を数回にわたってお知らせします。

今回の訪問地周辺です。

安土城や近江八幡城、沙沙貴神社ついては 近江FWⅡ をご覧ください。

今回は、観音寺城-4- まとめ です。

地図を持って歩かなかったので、今一つ自信がないのですが、たぶん歩いたルートです。

木村邸は行っていないので、他サイトから引用します。

Google Map から引用します。

木村邸の石垣です。周囲を石垣で囲んでいます。

伝木村邸は、観音寺城主要部がある繖山西尾根の東斜面中段にあります。城郭に関連する曲輪です。
埋門(うずめもん)は、曲輪南辺の石塁にあります。この石塁は、伝池田丸南側下の「大石垣」に連なる観音寺城外郭ラインありますが、外郭ラインの石垣としては貧弱です。
埋門の両壁高は0.7~0.8m、奥行きは1.7mです。床がこのレベルかどうかは不明ですが、正直、出入り口としては狭すぎると思います。

出典 https://yukimufort.net/castle/kannon07/2505/

曲輪の中から見た埋門

外から見た埋門

曲輪の中。


伝木村邸の南の道から、表林道まで下りてきました。

図の表坂道を登ります。

画像出典 https://yukimufort.net/castle/kannon08/2715/

見附と思われる石垣があります。

 

ここにも石垣が。

整備されています。

途中、アルミの棒がないところがありました。まさか盗難?

ゴール近く、3番の名言です。

2番の名言。

その通りですね。

最後の名言は・・・

そう、厄年はありません。気の持ちようなのです。

振り返ると・・・


ここで、観音寺城について、自分なりに考えてみます。

再び全体像。さすがに、日本五大山城といわれるだけのものがあります。

出典 https://minkara.carview.co.jp/userid/387724/blog/45619334/ (埋蔵文化財活用ブックレット11 – 観音寺城跡より。)

中心部を拡大してみましょう。

6家老の配置や見附の位置、石垣や大土塁の防御を見ると、現在の観音正寺を中心に配置されていることが分かります。

西側の本丸等が以前からの佐々木六角氏の居城。それを六角高頼が観音正寺を居城としたため、観音寺城が麓の観音谷に移りました。その後、観音寺城が信長に攻められ消失した後、観音正寺が1597年に元の場所に戻ったということなのです。

 

Q 安土城以前に、なぜこんな立派な石垣を作ることができたのか?

 山全体が安土山と同じ、湖東流紋岩でできており、原材料が豊富にあったことが原因でしょう。観音寺城の石工が、安土城の石垣建造に動員されたと書かれていますが、その通りでしょう。

 石切り場の動画もあります。

【観音寺城 石切場】(滋賀県近江八幡市)

【観音寺城・観音正寺 石切場】(滋賀県近江八幡市)

 興味深い論文を見つけました。


 観音寺城では大小1,000ヶ所に及ぶ曲輪が確認されており、そのほとんどに石垣が用いられているらしい。これらの石垣は、観音寺山に産する湖東流紋岩を使用し、ほぼ垂直に積まれた野面積みの石垣である。湖東流紋岩は非常に硬質でありながら、石の目(節理など)で比較的容易に割ることができる。また、風化しにくい特徴をもつため、割面と自然面を容易に判別できる。 (2008 北原)

https://www.shiga-bunkazai.jp/wp-content/uploads/site-archives/download-kiyou-21_kitahara.pdf 全12ページ


「近江盆地の浅層地下地質」小 松 原 琢 という論文も読みましたが、私にはさっぱり理解できません。https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography/119/4/119_4_683/_pdf/-char/ja


Q 六角氏はなぜすぐに撤退したのか?

 これが、今回の私のテーマでした。

Wikiによると、

〇 古典『太平記』には、南北朝時代建武2年(1335年)に、南朝側の北畠顕家軍に備えて北朝六角氏頼が篭もったという記述があり、そのころには築かれていたと考えられている。ただ、この時はまだ観音正寺を臨戦用の砦として活用していたのではないかと考えられている。

〇 観応の擾乱の最中の観応2年(1351年)9月には近江国にて足利直義の兵が南朝と連合して、足利尊氏方にあった佐々木道誉(京極高氏)や六角氏頼・直綱兄弟らを破り、敗れた道誉らが当時「佐々木城」と呼ばれた観音寺城に逃げ込んで籠城している

〇 第一次観音寺城の戦い

細川勝元率いる東軍に属していた京極持清の長男勝秀は六角高頼の居城観音寺城を攻撃した。城主の高頼、陣代の山内政綱らは京都におり東西の戦闘に参加していたので、観音寺城の留守居役の伊庭行隆が迎え出た。

数日間攻防戦が続いたが、伊庭行隆は敗れ、応仁2年(1468年)4月1日に城を明け渡した。

〇 第二次観音寺城の戦い

応仁2年11月初め、陣代山内政綱が京都より帰国し観音寺城の防備を固めた。弓削の戦いで六角高頼に敗れた六角政堯と京極持清の連合軍は、第一次観音寺城の戦いに続き戦闘準備を整えた。

同年11月8日、六角・京極連合軍は観音寺城に攻撃を開始。(中略)高頼軍は山内政綱、伊庭貞隆、伊庭行隆を観音寺城やその支城、周辺の砦に配置し、交戦状態になり、京極軍を撃退することに成功する(第三次観音寺城の戦い)

〇 長享・延徳の乱

高頼が幕府御料地を侵略した際には延徳元年(1489年)9月に9代将軍足利義尚親征(鈎の陣)を、延徳3年(1491年)8月には従弟の10代将軍足利義稙の親征を受けたが、高頼は二度とも観音寺城を放棄し甲賀の山中でゲリラ戦を展開、一時的に城を明け渡すが共に奪回している


応仁2年までは戦っています。延徳元年で甲賀に逃げ、ゲリラ戦で勝つという成功体験をしてしまいました。観音寺城の複雑な曲輪群は、もともと住んでいた側にとっては、ゲリラ戦には強いのです。

言い換えると、観音寺城は攻めやすく守りにくいということになります。

これまで見てきた多くの山城と比べると、石垣は立派ですが、堀、堀切、竪堀、等々、相手を困らせる工夫が少ないように感じます。

 

この後は、みなさんご存知の通りです。

永禄11年、信長は六角氏を攻めますが、甲賀に敗走しています。甲賀の力を弱めるために、六角が隠れた寺(長寿寺)を移設させ摠見寺になっていることは以前に紹介しました。

次のような意見もあります。


打って出る戦術をとり、躊躇なく放棄された山城

戦国期における六角氏の戦術では、観音寺城を拠点として本格的な籠城戦で対抗したという事例が見当たりません。
これは前線に出撃して防備するというスタイルにもよりますが、一方では観音寺城は防御力に劣る城という考え方も唱えられてきました。攻撃を受けると躊躇なく一旦放棄し、その後奪還するということが再三あり、戦闘のための要塞というよりは政庁機能を重視した権威付けの城だったのではないかという見方です。
半面、当時においては最大限の工夫が施されており、進化していく築城技術の発展途上として位置づける意見も提唱されています。

 出典 https://kojodan.jp/castle/70/memo/4277.html


観音寺城の総合サイトを紹介します。

1 観音寺城前史(1)  佐々木六角氏の起源。沙沙貴神社など。
2 観音寺城前史(2)  小脇館、金剛寺城(金田館)、浄厳院など。
3 観音正寺と観音寺城(1)  観音正寺、奧之院、奧石神社など。
4 観音正寺と観音寺城(2)  家臣名曲輪群と六角氏の家臣団集住政策の怪しい関係。
5 観音正寺坊院群(1)  伝松岡邸、伝進藤・後藤邸など。
6 観音正寺坊院群(2)  伝進藤・後藤邸。
7 観音正寺・観音寺城 埋門  伝後藤邸、伝木村邸、伝平井丸、扉石。
8 本谷道(大手ルート)  登山道(参道・城道)、伝本丸大石段など。
9 御屋形跡  「御屋形跡」名はいつ成立したのか。
10 観音正寺と観音寺城 中世本堂位置と城域(1)  現境内地と現境内地上部削平地群。
11 観音正寺と観音寺城 中世本堂位置と城域(2)  中世本堂「根元観音堂説」、伝三井邸・伝馬渕邸。
12 観音正寺と観音寺城 中世本堂位置と城域(3)  中世本堂現境内説、本堂移動説と石寺里坊、奧之院の位置と堀切など。
13 観音寺城・観音正寺 年表  観音寺城と観音正寺に関連する歴史年表。
14 観音寺城 築城  文献史料から見た観音寺城築城過程を4段階に区分
15 観音寺城主要部(1) 伝平井丸  朝倉館と観音寺城主要部。伝平井丸(主殿・会所)。
16 観音寺城主要部(2) 伝本丸  伝本丸の遺構と虎口。
17 観音寺城主要部(3) 伝本丸上部 、見付(1)  伝本丸の守備の要となる伝本丸上部曲輪群と薬師口見付・裏見付。
18 観音寺城主要部(4) 伝落合丸・伝池田丸  迎賓館的施設(会所)、または嫡子・隠居御殿が想定される伝池田丸。
19 観音寺城 石垣(1) 悉皆調査  観音寺城石垣配置図、ダウンロードページ。
20 観音寺城 石垣(2) 矢穴(1) 石切場  伝池田丸下石切場と奧之院裏石切場。矢穴石がまとまっている。
21 観音寺城 石垣(3) 矢穴(2)  大石垣・伝池田丸の矢穴。「観音寺城技法」について。
22 観音寺城 石垣(4) 矢穴(3)  御屋形跡他の矢穴。「観音寺城技法」その後として八幡山城。
23 観音寺城 石垣(5) 編年(石垣の変遷)(1)  石垣の分類(1)。石垣の高さ。
24 観音寺城 石垣(6) 編年(石垣の変遷)(2)  石垣の分類(2)。石垣の勾配、長さ、端部と隅角、積み方など。
25 観音寺城 観音正寺・観音寺城の変遷 (1) 石垣の編年(変遷) 。最古の石垣はいつ築かれたか。
26 観音寺城 観音正寺・観音寺城の変遷 (2) 観音正寺・観音寺城変遷図。まとめ要約。
27 観音寺城 観音正寺・観音寺城の変遷 (3) 観音寺城前史(観音正寺)と観音寺城前期、六角定頼の時代です。

出典 https://yukimufort.net/kannon00/

参考文献

この出典も https://yukimufort.net/kannon00/

動画です。

観音寺山城の規模がデカすぎです!さすが日本五大山城!織田信長に徹底抗戦した近江の雄・六角氏。石垣を駆使した巨大山城をめぐり語ります

観音寺城の規模がデカすぎです Part2

明日に続きます。明日は、観音正寺-2-です。

近江FWⅢ-1--2--3--4--5--6--7--8--9--10--11--12--13-


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