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哲学入門88 国家主義 ナショナリズム

2019-04-20 05:16:31 | 哲学の窓
白坂慎太郎先生の哲学入門

第88回、国家主義 ナショナリズムです。


 ここから https://www.youtube.com/watch?v=O7t6uu--XTM

明治になり、国は、自由民権思想と富国強兵・欧化政策の思想が対立します。

これは、国が中心か、個人が中心かの対立です。

その中で、教育勅語が出されます。

デジタル大辞泉の解説を見てみましょう。

【教育勅語】

明治天皇の名のもとに、明治23年(1890)10月30日に発せられた「教育ニ関スル勅語」。教育の根本を皇祖皇宗の遺訓に求め、忠孝の徳を国民教育の中心に据えた。昭和23年(1948)、国会でその失効および排除を決議した。


教育勅語は、立憲主義の政治と儒教道徳とを、天皇中心の国家主義の立場から統一したものでした。
天皇中心の憲法のもとで、勅語は忠孝を根本とした国民道徳を説き、皇室への中世と愛国心の発揚を求めました。

この教育勅語が、学校教育を通じて国民統合を強めた反面、国家に対する個人の権利や自由を不安定にし、国民の批判精神を抑圧しました。

治安維持法もつくられました。
国がそのままなら、ヨーロッパからの侵略に耐えられないということで動いていったのですが、結果的には、軍国主義に流れました。

少数意見は抹殺されるのは怖いですね。今の北朝鮮はもちろん、中国でさえも批判勢力はとらえられています。

当時の日本は、近代国家の建設という点では一致していたのですが、富国強兵優先か、国民の権利優先かの、国権論と民権論が対立したのでした。

結果的には、国権論が優越していったのです。

デジタル大辞泉の解説で徳富蘇峰を見てみましょう。

【徳富蘇峰】

[1863~1957]評論家。熊本の生まれ。本名、猪一郎。蘆花の兄。同志社中退後、自由民権運動に参加。のち民友社を設立、「国民之友」「国民新聞」を発刊し、平民主義を主張。日清戦争後は政府と結び、国家主義の鼓吹者となった。著「近世日本国民史」など。


民権派だったのが、国家主義の鼓吹者となったのです。

同じく、国家主義の流れにあったのが西村茂樹です。

【西村茂樹】

[1828~1902]道徳教育家。下総(しもうさ)の生まれ。明六社に参加。また、明治9年(1876)東京修身学社を創設(のち日本弘道会と改称)し、儒教的倫理思想に基づく国民道徳の高揚に努めた。著「日本道徳論」など。


日本は滅私奉公が好きなのかもしれませんが、バランスの中で考えないと気をつけなくてはいけません。


三宅雪嶺は、国粋主義を訴えます。

【三宅雪嶺】

[1860~1945]思想家・評論家。石川の生まれ。本名、雄二郎。政教社を創立、雑誌「日本人」を創刊し、欧化主義と藩閥政治を批判。また、多数の社会時評・人生論などを発表した。文化勲章受章。著「我観小景」「真善美日本人」「同時代史」など。



岡倉天心も欧化政策に反対する、国粋主義的な思想家でもありました。

【岡倉天心】

[1862~1913]美術評論家・思想家。横浜の生まれ。本名、覚三。フェノロサに師事。東京美術学校開設に尽力し、のち校長となる。日本美術院を創立し、明治日本画家の指導者として活躍。その後ボストン美術館中国日本美術部長。英文著書による日本文化の紹介者としても知られる。著「東洋の理想」「日本の覚醒」「茶の本」など。



陸 羯南 は、国家主義と民本主義の統合を意図しました。

【陸羯南】

[1857~1907]新聞人・評論家。青森の生まれ。本名、中田実。新聞「日本」を創刊し、日本主義・国民主義の立場から政治批判を展開。著「羯南文集」「羯南文録」など。



明治から昭和初期にかけては、国家主義と民本主義が対立し、国家主義へと傾いていった時代だったのです。

そうして、日清、日露、15年戦争へと歴史は流れていきます。

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