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江南市縁の七人の戦国武将-7-

2010-04-27 06:39:45 | 郷土の歴史
《 生駒 親正 》

江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。

大永6年(1526年)出生・丹羽郡小折村小折城(生駒屋敷)(現江南市小折町)
幼名・近正、正成、甚助、七郎左衛門、従五位下
『雅楽頭親正初代高松城主 17万石』賜う
慶長8年(1603年)78歳 逝去

この生駒親正も信長、秀吉に仕え、それ故に関ヶ原で苦悩した武将です。

1526年、美濃国の武士、生駒親重の子として生まれます。その後、父とともに織田信長に従い、稲葉山城攻め、長篠の戦いなどで活躍します。
本能寺の変後は、秀吉の家臣となり、山崎の戦、賤ヶ岳の戦に参陣し、功を挙げます

60歳にして、近江国高島郡に2万石を拝領し大名になります。その後、加増されながら、伊勢国神戸城主、播磨国赤穂、さらに讃岐国一国17万6千石と出世します。
高松城を建て、小田原城攻め、文禄の役に参陣します。

そして、三中老のひとりなります。
三老中とは、後の五大老・五奉行と呼ばれた側近に加え、その仲裁役のような存在でした。
生駒親正(讃岐高松17万石)、堀尾吉晴(遠江浜松12万石)、中村一氏(駿河府中14万石)の3名が任命されています。

ご存じのように、堀尾吉晴は今の大口町の生まれです。

五大老・五奉行の争いが一因になった関ヶ原の戦。
どちらに付けばよいか苦悩します。

讃岐国という地理上、そして秀吉の大恩のために西軍に味方し、兵を派遣しますが自らは病気を装い本戦には参加しません。
さらに子の生駒一正は東軍につかせます。

結果はもちろん東軍の勝利。
生駒家は安堵されます。

高松に居城を築城し、高松市の基礎を築いた親正は、1603年、江戸開府の翌日に78歳で亡くなりました。

ちなみに、信長の室(後に正室?)となった吉乃は、親正の娘だったという説や、兄嫁だったという説があります。

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