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「石」の意味は?-3-

2009-10-06 05:58:37 | 社会科こぼれ話
 「石」の話題の続きです。
 「石」とは、米の容積であり、領地の広さでしたね。その他の視点を考えてみましょう。

【 兵 力 】
 司馬遼太郎の『関ヶ原』だったかと思いますが、戦国時代の戦闘員の動員能力は、およそ「1万石につき250人」だったと書いてありました。
 19万石の石田三成は、250×19=4750。
 関ヶ原の戦いでの石田軍は約5000人と言われているので、なるほどという数式です。

 しかし、平和な江戸時代になると減ります。
 加賀100万石の前田家で1万人といわれているので、せいぜい1%です。
 長州藩36万9000石が禁門の変で動員した3000人という数もわかります。 

【 財 力 】
 江戸中期には、米の仲介業者である札差が武士から買う米の値段は、1石1斗=1両でした。
 前に1石=1両と書きましたが、この1斗分が手数料なのでしょうか。

 たとえば1万石の領地から得られる年貢米を5000石とすると4500両。今のお金に換算すると、1両=10万円として、4億5千万円です。
 ここから諸経費を引いて、1%の動員兵力100人で割ると…。
 苦しい生活であったことが予想されます。

 ところで、紀伊国屋文左衛門が江戸城をも焼いた明暦の大火の時に、木曽の材木を買占めて一気におよそ百万両を手にしました。なんと1千億円です。
 先ほどの計算式に当てはめると、222万石の大名に匹敵します。

【 家 格 】
 大名家には家格があります。
 石高、官位、徳川家との関係などを総合して決まります。外様は、石高と家格が比例していたと言ってもよいでしょう。

 石高の評価は、秀吉時代の「太閤検地」(写真)が基本となっています。
 薩摩藩は、実際に米は30万石足らずしか獲れなかったのですが、太閤検地で60万石以上とされ、江戸幕府からは77万石と評価されてしまいます。
 江戸幕府は、この石高で労役(御手伝普請)を割り当てるので、薩摩藩は大きな負担を強いられたわけです。

 一方、他のほとんどの藩では、公の石高の評定(表高)よりも、実高の方が何割も高いというのが普通でした。
 秀吉の頃に比べて、米の生産性が高まったためです。

 薩摩藩がなぜこれだけ高い評価を得たのか疑問ですが、米以外の収入もすでに織り込んでいたようです。

 水戸藩も、薩摩藩同様、実高は表高を下回っていました。これは、徳川御三家の一つとして見栄を張ったためのようです。

 ちなみに、尾張藩は表高55万石に対し実高は80万石超だったようです。
 詳しくは、http://homepage3.nifty.com/ksatake/index.htmlhttp://homepage3.nifty.com/ksatake/index.html  をご覧ください。


 「石」とは、米の容積、領地の広さであり、兵力・財力・家格を表す、広義の概念なのです。

 「○○石」の意味がわかりましたか?

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