Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

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私の子供時代からのおしゃべり好きについて。幼少・学校時代の頃の、父母の私の英才教育?常に私は、学校でも家庭でも、口から先に生まれたような、よーく喋る子供であった。福島県郡山市の教育の優秀性!

2023年01月05日 08時21分41秒 | 学校・教育特集・学生生徒時代の想い出

 私が、以前、確か、中学時代の話で文化部部活動の「社会部部長」の時の、ブログ記事を見た人だろうか、その方から、だいぶ、私が、高校時代から、おしゃべり、話好きになり、それ以前は、もじもじした、恥ずかしがり屋の、内向的な人間、人物だと思い込む人に、私は出会った事がある。これは、私の、ネット上での話を真に受けた、誤解である。

 実際は、私は、子供時代、それこそ、生まれた幼少の頃から、子供として、産み落とされた時代から、母親や、父親とは、かなりのおしゃべり人間であり、元々一人っ子でもあり、父や母を独占できる人間関係の利を利用しない手はなかった。

 もう、毎日が、父母への質問攻め、あれってな―に、これってなーに、という、感じの、そんな毎日の日常であった。

 特に、父とは、父は私が物覚えが付いた頃には、身体障碍者であり、うちにずっと居て、母が一人で外で働いていた。その間には、私は父を独占状態にしていた。
 父は、学問は、出来たんだか出来なかったんだか、高等小学校卒であり、学歴は全く無かった。母が、高校卒であり、背の高さでは、「ノミの夫婦」という言葉があるが、うちの場合は、学歴の「ノミの夫婦」であった。
 しかし、父にも、得意な学科、得意教科が勿論あり、特に社会科、地理と歴史と政治経済、等々が大得意であった。これには、父なりにかなり自信があったらしく、自分の仕事、その後の人生の、牛や馬の売り買い、博労(馬喰・伯楽)であったり、外商、訪問販売、セールスマンをやったり、工場勤務をやったり、その前の出身家庭は、自身、農家、大農家、豪農の長男坊であり、そこから、単身、独立した訳である。
 その際にも、その、学校時代に習い修めた、社会科・地理・歴史・政経が、人との出会い、商売上も、大変に役に立ったと後年、否、その、私の保育園時代から、私は毎日のように言い聞かせられて育ち、特に父からは、私は、それら、社会科の英才教育というものの特訓を受けた。
 とにかく、父との濃密な時間はたっぷりとある訳である。それは、まず、地理の勉強の手始めに、地理の地図の勉強をした。うちにある地図帳で、世界地図、日本地図、を父は指し示した。そして、特に、自身の出身地であった、東北地方の、東北六県を、今度は、地図のみでなく、チラシの裏に父自身が絵で大体描き、これが青森県、これが岩手県、これが秋田県、これが宮城県、これが山形県、そして、一番最後に、これが自分が生まれた福島県なんだ、福島県は、東北では一番南にある。今は、我々家族は、神奈川県の川崎市中原区に住んでいるが、そんな、こんな、人口密集地帯の、人でゴミゴミした、家もマッチ箱の様な、軽自動車の様な家ばかりの、形ばかりの家が並んでいるが、今度連れて行く、福島県の郡山市や、親せきの居る本宮町(現・本宮市)を見てみい。立派な家ばかりが並んでいるから。それだけの、土地の大きさ、立派な土地が、果物も野菜も魚も肉も美味しく、観光産業でも立派に成り立っている。福島っちゃ、物凄い、いいとこなんだぞ、と。
 これで、私の、福島熱、福島への憧れは、次第に高まってゆく。よっぽど、福島って、いいとこなんだろうな、って。
 そして、福島の親戚から送られてくる、リンゴだの、梨だの、桃だのの、その非常に立派な美味のおいしさ。舌がとろけるとは、この事だ、と信じこんだ。
 私の中で、次第に、福島県への憧れ、興味が湧いて、尽きなくなってゆく。
 そして、とうとう、父も、憧れの地の、福島移住を決め、昭和の頃、昭和五十年代に、私が小学校二年生の頃に、福島県郡山市の、現在の現在地、住居に引っ越して来た。私の得意然、得意満面の笑顔ったら無かった。これは、父と子の、理想郷、父の元々いた、故郷に舞い戻っただけなんだが、私は、父との子供時代からの、誓いを果たした気分が旺盛、濃厚であった。
 それから、社会科の、地理の、地図の、父による英才教育の話に戻すが、父は、世界地理、世界地図を我が子、我が息子に教え、訓示する為に、今度は、父の小遣いで、私に、当時、川崎市中原区、国鉄(現JR東日本)南武線の沿線の、武蔵中原駅か、武蔵新城駅の、ほど近い場所にあった、「ダイエー」という、スーパーにて、最初は、ごく小さな「地球儀」を買い求めてくれた。その当時、四千円位だろうか。しかし、余り小さく、心許ない感じがした父は、当時、今度は私の為に、大枚の七、八千円位出して、私への投資をしたくて、もっと大きなサイズの、天体の衛星の、月の小さな球儀まで付いた、非常に立派な「地球儀」を、私の為だけに、奮発して思い切って買い求めてくれた。父には、非常に感謝しきり、最敬礼!、である。
 買ってからは、私は父から、家にて、地理の特訓である。これがソ連、ソビエト社会主義共和国連邦、ソビエト連邦、ソ連邦、ともいう。これが中国。正式名称、中華人民共和国。北朝鮮。正式名称、朝鮮民主主義人民共和国。韓国。正式名称。大韓民国。アメリカ。正式名称。アメリカ合衆国。イギリス。フランス。ドイツは当時、西ドイツと東ドイツに分かれていた。イタリア。南米の国々。アフリカの多くの国々。アジア・オセアニアの国々。中央アジア、中東・アラビアの国々。
 私の興奮気味の、興味一心の気持ちは高まり、後の、小学校時代、中学校時代、高校時代、大学時代、と進学の一助となり、これら知識が、非常にその後の自身の、社会科が誰よりも得意となり、社会への非常な知識欲に満たされたその後の人生は、全て、この時の、父の私に対する、英才教育に尽き、全てが円満にそれら勉学が非常に向上する事を約束され、私自身の教育上の肥やしとなり、父には、私なりに、有難う御座います、という感謝の言葉以外には、全く見当たらず、有り得無い。
 未だに、自身の社会科への興味は尽きない。もし、私の側に父が居なかったならば、私は確実に、何の得意な科目も持たない事が決定されて、社会科では、否、社会科でも、尚、劣等生であり続けたであろう。

 それから、母ではあるが、母は、私には、小さな頃から、絵本や簡単な文学書などの、本を読んでもらった記憶がある。私も母に、「これ読んで!」と言ってせがんだ。
 それから、中学時代の、数学・英語が極めて不振を極めた私の不良成績に母なりに心を痛め、私を英数塾・教室に通わす手を打つと共に、私に、大進学校・東京都立戸山高等学校出身者の母の、私が、英語と数学に対して心を入れ替えるよう、個人教授、私と母との共同作業、共同勉強、母の教え示す、数学と英語は、学校で習い損なった、私に記憶の欠落を、補い得るのに、余りある、大威力を発揮した。
 その後、私は、英語も数学も、大得意となり、それに加えて、社会科・国語科・理科も、五教科、それに、美術・音楽・書道・体育・技術家庭・道徳、その他、どんな教科でも、何でも来いの、自信と誇りと勇気の溢れる人間・人格へと変貌、変わって行った。

 しかし、私の、おしゃべり好きなのは、先程も述べた通り、幼少期の頃からの、トレードマーク、これは、絶対不動の地位を占める。
 私は、今から考えると、父は、寡黙な人と言うか、あんまり、黙っている時が多く、特におしゃべり、という訳じゃなかったが、私と接する時に限っては、常に饒舌であった。父は、外では、借りてきた猫のように、ムスッとして、あんまりしゃべらないのに、家では、私のおしゃべり好きに、非常に楽しく付き合ってくれた。家には、母は外で働き、いつも父と二人きり、家を二人して、守る以外無かった。

 福島県郡山市の、家を買い、大槻町に住むようになり、我が家は、ペット屋、小鳥屋さんをやる。その時も、私は、学校では、ワンパクであり、先生も舌を巻く程の、おしゃべり人間であり、川崎市が、そういう風土の土地柄なんで、それら、川崎なんて、暴力的な土地、生徒が不良が一杯居る街、そんな感慨も、担任先生なりに思って居たみたいだ。とにかく、学校でも、授業中も、これは、今の時代ならば、学級崩壊児と言われかねない程、私は騒ぎ屋であり、学校では大騒ぎでしゃべっていた。

 これが、私は、今は、日蓮正宗では占いはあまりやらずに、占いは御法度に近いんだが、それでも、血液型占いだけは、参考には少しはしている方ではある。(ズバリ、当たる確率が高いんだもの。ほんとはいけないのは、理解しているが)私の血液型は、表裏の無い、人の良いとされる、変わり者が多い、変人奇人タイプの、凝り性の、一途な「B型」である。これと今回の話が、何か関係があるかと言えば、余りない。

 しかし、裏表がない、というのは、正に私の性格の代名詞の様なものであり、私は学校時代、あれだけ、学校でしゃべり倒して来たのに、今度は、家でも、父にも、母に対しても、その日学校であった事、自分の今、興味が在る事、今、欲しい物、友達の話、その親兄弟姉妹の情報、学校の先生の話、授業中の起こった出来事、習った印象に残った言葉や行事、素晴らしいと個人的に思った事共、今、困っている事、今悩んでいる事、ぜーんぶ、ありったけ、自身の思いをさらけ出して、一日の内、テレビを見ながらでも、食事中であろうと、それら以外の、自由時間でも、親と入るお風呂の中でも、小学校時代から、私は常に、おしゃべりに時間を費やすのには事欠かなかった。

 これは、今も全く変わらない。これは、私の人格の全て、性格として、出来上がってしまったものであり、これを、今は、私の電話対応や、メールその他、このブログでも、私の長文、長い喋りが与える、人様への、影響の度合いを考えると、それは、時には、時として、拷問にも近いのではないのか、との自責の念慮・心配も、今の私には、抱くだけの、皆様、特に、お寺関係の、御住職様、講頭さん各講員の皆様のお気持ちを察するに、余りある御教示を頂き、確かに、今までの私の人生、半生は、それら、おしゃべりに彩られて来たのではあるのだけれども、それは、私が今申したように、私の生まれ、出自が、一人っ子であり(何不自由なく、甘やかされて、我がまま一杯に育てられてきた)、親に大切に育てられ過ぎた、正に溺愛、と言って良い程の教育の受け方であり、他の、特に兄弟が多い家の皆様なんかは、そんな、一人に構ってはいられずに、むしろ、親に無視され得るのも有り得るのではないのか?そんな感慨を抱く。むしろ、それが自然であると。

 私は恵まれすぎて育った。その弊害も余りある。世の中というものを、余りに知らず、世の中をバカにして、世間慣れしていない、世間知らずの自分であり、それで良しとして、斜に構えている所がある。世の中を知らない「一人っ子」のコワい所である。
 釈尊でもないのに、「唯我独尊」を良しとしている所がある気がする。

 これを、是非とも、人並みにしてゆくように、寧ろ、人様よりも、身を低くして、平身低頭、「不自惜身命」の、特に、お寺の方々へは、慣れ親しんでいるせいか、余りに軽い、生意気な小僧の様な口の利き方をせず、もっとその相手の人格・性格を重んじ、相手に親身になって接する事。「親しき仲にも礼儀あり」である。人様に、絶対に、御迷惑を、掛けてはいけない。人が困るような事をするのを、非常に慎み深く、用心すべきである。それさえ心がければ、この世は、楽に生きられる。仏教の、抜苦与楽である。

 これは、この世の中の全ての人々に、適用、応用、敷衍(ふえん)できる。それらが、自身、治るように、努力を重ねて自己改革、自己変革を重ねて、心して自分自身が成長してゆかなければと思い直している。

 ただ、郡山市立大槻小学校時代の、小学校二年生から、四年生までの、私の受け持ち担任だった、恩師・秋山芳子先生は、私のワンパク振りに手を焼きながらも、次第に、私が、落ち着きの方向へと向き始めていたのを、先生なりに、実感し、知悉し抜いていた。
 ある日、秋山先生は、小学四年の、その年の冬頃になり、私が、既におしゃべりもやめて、先生の話にじっくりと注目を重ねて、手を膝に置き、落ち着いて、黙ってじっくりと集中力を切らさずに一言も聞き漏らさずに聞いている姿勢を見て取り、それらを一心に見抜いた先生は、一言、
 「wainai(私の事)は、実に、今年になってから、本当に落ち着いて来た。先生は、実感する。実に驚いた。本当にwainaiは、落ち着き澄ました、それだけ、落ち着きを払い、成長したんだね。その調子その調子!!いいぞ!!wainai!!その調子でやり、全うして、そのままで、お行きなさい。」
 と言って、私の落ち着きぶりを先生なりに、お褒めになった。私も、戸惑いつつ、自身が皆の前で褒められたのを、非常な誇りを持って、その時に自分自身で一人、実感していた。

 それが、この福島県郡山市での、小学校教育の中での、自身を常に省みるクセ、自身を日々、改革し、反省してゆく、毎日、日々を自身の変革・更新の時と自覚し始める、正にそれが、それらへの一瞬間の始まりであり、その後の人生の上での、中学・高校・大学と、貴重な自分の財産となって、この身に有難くも、それら最初の教育財産・遺産を、私は、その、小学校時代に、恩師・秋山芳子先生、福島県郡山市の教育システムにより、心に刻まれ、自身の宝として、正に身命に一心に、この身に譲り受け、預かり戴ける事となるのである。

 「教育とは、その、教えられた事の、残りの部分が、如何にその人の胸の記憶に残っているか。その人から、それら教育の記憶の忘れ去った残滓(ざんし)、残りカスの様な、幾星霜を過ぎ去り、記憶に残った最小の極小極細単位の単一の一部分こそが、例え、人が、その教えの大半を忘れ去ったとしても、その残りの核となる教えがあればそれで良いのだ。
 その残りの教えが、本来本当の意味での教育の真髄であり、一番のその人への、教育というものがその人を大事にする、後世へ残し果たし得た、学校で習った事の全ての内のものの中の、それら小さな残りの物事の全てが、教育の持つ大きな意味・意義の全てだと言って良い程の事・物なのである。
 人にとり、人には、たとえ、忘れても、最後まで、忘れ得ないものがある。その一つの残り香のような、頼り甲斐が無いが、けれども、確実に、その人の記憶に留まり残った数少ない、貴重な人生、心の遺産・財産、教えそのものを、ズバリ、それらを名付けて『教育』というのだ。」(『金八先生』俳優・武田鉄矢のことば・趣意)

 (テレビ局。6チャンネル。TBSテレビ、東京放送。福島では、地方ローカル局、TUF、テレビユー福島。放送放映。テレビドラマ『金八先生』武田鉄矢主演・語録。趣意。極説。概略。私の、昔、金八先生のドラマを見ていた時の、武田鉄矢演ずる金八先生が、教え子、近藤真彦に屋台で語っていた時の名シーンの、私なりの記憶の断片からの、大体の引用。以上は、私の記憶に則り頼った記述であり、実際上のあっさりした映像放送表現感よりも、彼、金八の語った事実・セリフとはだいぶ異なり、かなり、私のは、妄想・空想に基づく、かなりの、偏った、誇大・誇張した表現を取っている事を、ここにお断わりさせて頂く。しかし、大体の意味、その時の放映の雰囲気、輪郭は、掴んで頂けるものと、確信している。)

 以上。よしなに。wainai


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