人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

最近読んだ本 『ウイリアム・アダムス』

2025-03-14 16:19:58 | 日記

ベルギー生まれの著者、フレデリック・クレインスが書いた『ウイリアム・アダムス ー家康に愛された男・三浦按針』を読みました。この本は読売新聞の「編集手帳」に紹介され、トランプ大統領が興味を示した北極航路に引っ掛けて紹介されていたものです。フレデリック・クレインス氏は、現在国際日本文化研究センター教授をしていますが、オランダ語が堪能であり、『十七世紀のオランダ人が見た日本』(臨川書店)などの著作があります。日本に興味を持つ外国人研究者が増えたせいかもしれませんが、外国人の書いた歴史書が多く出版され、それも翻訳でない著者自ら日本語で書いています。また文献調査も国内資料だけでなく、国外の図書館などの資料を活用し、ワールドワイドで日本を捉えていて、これまでの歴史書にない視点で楽しむことができます。

本の内容については深入りしませんが、あの徳川家康が国際感覚のある自由貿易主義者であったとは知りませんでした。またウイリアム・アダムスがイギリス人であり、オランダ船主の船に乗っていたことが、ポルトガルやスペインのカトリック国による侵略の企てを未然に防ぐことが出来たこと。そして難破して日本にたどりついたウイリアム・アダムスの才能を見抜き、素直にその意見に従った徳川家康の度量の広さに感心しました。大袈裟な言い方ですが、この二人の関係がなければ、日本も他のアジア諸国と同様に列強の植民地化策に呑み込まれていたかもしれません。これまでウイリアム・アダムス=三浦按針について名前を聞いている程度で、その功績については全く不勉強でしたが、この本を読んで大いに理解が深まりました。是非読んでいただきたいお薦めの一冊です。

見出し写真は、この本の内容と全く関係のない御霊神社と江ノ電の一枚。絶妙なタイミングでシャッターを切ることができました。

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鉄印帳の旅 ーー20明智鉄道に乗る--

2025-03-12 20:13:47 | 日記

3月某日、両親の墓参りに岐阜県恵那市岩村町(墓は山岡町)まで車ではなく鉄道を利用し、訪ねました。JR中央本線の恵那駅で乗り換えですが、明智鉄道の恵那駅の改札で鉄印帳のポスターが目に留まりました。この鉄印帳については、旅行読売臨時増刊「ローカル線に乗って 鉄印帳の旅」(2024年9月発行)を以前購入していますので記憶に残っています。興味をそそられ、「鉄印帳フリー版」(1320円)と明智鉄道の鉄印を買い求めました。これが新シリーズ「鉄印帳の旅」のスタートですが、多分、最初の1ページだけで鉄印帳の頁は増えないかもしれません。この鉄印帳に参加している鉄道会社は「第三セクター鉄道等協議会」に加盟している40社で全国に散らばっています。そろそろ後期高齢者にならんとする身では、今さら40社全部の鉄印を集めるのは無理。死ぬまでに何社チャレンジできるか?まずは北海道・東日本から攻めていくことになりますが、愛知県、岐阜県まで24社くらいなので10社以上乗れたら上出来でしょう・・・?。

見出し写真は岩村駅で写したもの。右の車両は乗ってきたラッピング気動車。全11駅ありますが、今回は恵那駅から岩村駅までの往復でした。途中、飯沼駅は日本一の急こう配(33パーミル)にある駅として知られており、たどり着くまでの気動車のディーゼルエンジンの呻きは、なんとも心地よい響きです。飯羽間駅は、農村景観日本一と言われる富田地区の最寄駅。そして岩村駅は、女城主で知られた岩村城があるところ。短い距離ながら見どころがたくさんある鉄印の旅でした。さて次はどの鉄印がゲットできるか?いまからワクワクしています。

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鎌倉を知る --野間の宝山寺(湯殿跡)ーー

2025-03-10 08:07:40 | 日記

見出しの写真は、源義朝が殺害された湯殿跡です。この湯殿跡は野間大坊の側にあると思っていたのですが、1.3km位離れた宝山寺のそばにあると野間大坊のご住職に教えていただきました。地図をみますと名鉄の野間駅の近く、折角なので訪れることにしました。途中に長田忠致一族の屋鋪跡の案内板がありましたが、宝山寺はさらに300m位離れています。この湯殿は長田の屋敷内にあったとは思えず、わざわざ遠く離れた宝山寺の敷地内にあつらえたのかもしれません。義朝が湯殿で殺害された状況は『平治物語』に生々しく描かれています。長田忠致・景致親子は鎌田政家(『愚管抄』では正清)の舅になりますが、義朝主従が訪ねて来た時から無事に関東に下向させるつもりはなく、どうやって義朝一行を殺害するかの算段をしていたようです。義朝に湯あみをすすめる一方で、鎌田政家には歓待の酒宴を催し、油断させるという姑息な方法をとっています。長田屋敷から湯殿までは遠く離れており、異変に気付いても直ぐに駆けつけられません。後世に宝山寺近くにわざと湯殿を作ったのかもしれませんが、『平治物語』には、「御馬をまゐらせよ。いそぎ御とほりあるべし」との給いければ、「せめて三日の御いはひすぎてこそ、御たち候べけれ」としきりに長逗留を勧める様子が書かれています。湯殿をこしらえるための準備をしていたと思われます。

一方、『愚管抄 全現代語訳』(慈円 大隅一雄訳 講談社学術文庫)には、義朝は足もはれ、疲れはてていたのでそういう縁をたのみ、(長田)忠致の家をたよっていったのである。忠致は喜んで待っていたといって義朝主従をたいへんいたわり、湯をわかして湯浴みをすすめた。しかし、(鎌田)正清は事の気配を感じとり、ここで殺されるであろうと見てとったので、・・・。そこで正清は主君の首を打ち落として、ただちに自分もあとを追ったのであった。さらに、京都に運ばれさらしものされたその首のようすを詠んだ歌がのせられています。(噂では、九条大相国伊通公の作)

  下つけは木の上にこそなりにけれ よしともみえぬかけづかさ哉 

歌の意味は、下野守義朝は紀伊守〈獄門の木の上に通ずる〉になった。このかけづかさ〈兼官、下野守と紀伊守の兼任、かけは獄門に懸けるに通ずる〉は、よいこととも〈よしともは義朝に通ずる〉思われない

慈円の『愚管抄』は義朝・正清は自ら命を絶ったという立場をとっています。『平治物語』との違いは明らかですが、義朝が殺害されたと伝わる「湯殿跡」に立ちますと、こんな死に方をした義朝主従の無念さを感じられずにはいられませんでした。せめての救いは、四半世紀すぎた文治元年(1185)八月に義朝の首が後白河法皇の手で探し出され、義朝の子頼朝の手に届けられたことでしょうか。それも多少なりとも歴史を勉強したから分かることであり、観光地として野間大坊を訪れただけなら、なにも感じずに通り過ぎていたと思います。何度も来れる場所ではないので過去にタイムスリップした気分になり、いい旅ができました。

 

 

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鎌倉を知る ーー野間大坊(源義朝の墓)--

2025-03-08 11:09:16 | 日記

ここで少し源義朝(1123~1160)について触れましょう。源義朝は源為義の子で、子供のころ東国に下向、その後成長した義朝は南関東に勢力を拡大し、主要武士団にも一目を置かれる地位を確立。そして天養元年(1144)に伊勢神宮の荘園である大庭御厨を襲撃するという事件を起こしました。仁平三年(1153)に下野守に就任、いまだ検非違使にとどまる父為義との地位を逆転させ、河内源氏嫡流の立場を確かなものにしました。義朝の子は何人もいますが、熱田大宮司家の藤原季範の女、由良御前との子、頼朝が嫡流で、その後鎌倉幕府を開くことになります。義朝にとって人生のピークは保元元年(1156)の保元の乱で後白河天皇側につき、崇徳上皇、藤原頼長側を破ったことでしょう。ただ敗者となった父為義ら一族を亡くしたことは大きな禍根となりました。しかしながら絶頂期は長く続かず、平治元年(1159)12月9日に藤原信頼に味方した義朝は後白河の院御所三条殿を急襲し、後白河院を幽閉するという暴挙にでました。これが平治の乱、義朝一族の悲劇のはじまりとなります。京都を離れていた平清盛が戻ってから形勢が逆転、12月25日に二条天皇が内裏を脱出し六波羅に行幸したあとは一気に攻め込まれ、敗れた義朝勢は敗走、東国へ落ち延びて行きました。義朝の終焉の地は尾張国の野間というところです。なぜに野間にいったか?その辺の経緯は『平治物語』や『愚管抄』に書かれています。

『平治物語』の「義朝はとかくして、美濃国青墓の宿につき給ふ」から始めましょう。青墓の宿は、現在の岐阜県大垣市の青墓(美濃国国分寺跡)ですが、木曽三川、揖斐川の手前になります。そこで義朝主従は散り尻なって落ち延びる決断をします。頼朝は途中の野路辺りではぐれ、その後は囚われの身、命だけは運よく助けられました。義朝自身は尾張国の野間にいる長田を訪ねます。「まづ、尾張の野間にゆき、(長田)忠致に、馬、物具こひて通らんずる」、一緒にいた平賀(四郎義宣)「長田は大徳人にて、世をうかがう者なれば・・・。」と申しけれども、「さりとも鎌田(政家)が舅なれば、何事かあらん」との給へば、・・・。」、そして義朝は「海道は宿々とほり得がたかなる、是より海上を内海へつかばやと思ふはいかに」と話します。義朝主従は揖斐川を下り、知多半島の内海を目指しました。知多半島からは、上手くいけば渥美半島に渡るチャンスがあり、そうすれば義朝の再起もあり得たかもしれません。残念ながら、天は平清盛に味方しました。

写真は野間大坊にある義朝の墓です。うず高く積まれているのは木刀です。頼朝は風呂に入っている時に謀殺されましたが、最後に「我に木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされます。この言葉は『平治物語』にも『愚管抄』にも出てきません。多分後世の人が「油断するな」と戒めの言葉を残したのかもしれません。

 

 

 

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鎌倉を知る --源義朝の終焉の地を訪ねる(野間大坊)--

2025-03-05 19:43:05 | 日記

野間大坊は正式には鶴林山大御堂寺と言い、知多八十八か所霊場50番札所として多くの巡礼者が訪れます。お寺のホームページには、天武天皇の時代に阿弥陀寺として建立され、承暦年間(1077~1081)に白河天皇を祈願するために御堂寺となったと書かれている歴史のある真言宗のお寺です。そして何よりも、この野間大坊は、平治の乱で平清盛に敗れ、落ち延びる途中で謀殺された源義朝の墓があること有名で、鎌倉に住んでいる限り、一度は訪ねたいと思っていました。この場所は名古屋から50~60km位の距離で知多半島の先端近くにあります。行き方は名鉄電車を利用すれば名鉄知多新線の野間駅が最寄り駅。自動車なら名古屋高速道路、知多半島道路、南知多道路を乗り継いで約1時間。源義朝ゆかりの場所が野間大坊の周りに点在しており、電車で行くのはあまりお薦めできません。やはりマイカーかレンタカーを借りて行くほうが無難かと思います。

平治の乱で敗れた源頼朝主従は関東に落ちのびるのですが、追手から逃れるために東海道からはるかに離れた知多半島の野間の地が安全かと判断し、選びました。野間には側近である鎌田政家の舅の長田忠致がいて、義朝らを匿ってくれるはずでしたが・・・。

写真は大御堂寺本堂です。真言宗のお寺なのに本尊は阿弥陀三尊。境内には、源義朝の墓、義朝の首を洗ったとされる血の池、源頼朝が父の供養のために建立した五重塔跡などが野間大坊の境内にあります。

 

 

 

 

 

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