先日公開された映画「ゆきてかへらぬ」を観にいきました。別に広瀬すず、木戸大聖、岡田将生らの演者のファンである訳でもなく、読売新聞に載った根岸吉太郎監督の記事に惹かれた訳でもなく、単に、長谷川泰子・中原中也・小林秀雄の三角関係が映画でどう描かれるか、鎌倉との関わりが映像に出て来るかを知りたかったことにつきます。
この映画のタイトル「ゆきてかへらぬ」は、中原中也詩集『ありし日の歌』のなか「永訣の秋」にある「ゆきてかへらぬ」という詩、長谷川泰子の同名の本からとられたものと思います。その「ゆきてかへらぬ ー京都ー」は、 ー僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒ぎ、風は花々揺つてゐたー からはじまる複数行の詩です。昭和11年(1936)、中原中也が29歳のときに発表されましたが、直後に以前から小児結核を患っていた愛息の文也が死ぬという悲しい出来事があり、そのあと中原自身も体調を崩し、鎌倉の寿福寺に転居して間もなく、昭和12年10月22日に鎌倉養生院(現清原病院)で30歳の若さで亡くなりました。妙本寺の海棠の下での小林秀雄との再会の話はあまりにも有名です。
中原中也17歳、長谷川泰子21歳、小林秀雄23歳。泰子を中心に展開する三角関係は、自分の学生時代と比較しても、あまりにも早熟に感じられました。三人がそれぞれ天才的な個性の持ち主だったのか、大正モダンという時代がもたらしたものか、今の若者がどう受け入れるのか少し興味がありました。この不思議な三角関係は、大正13年(1924)に中原と泰子が同棲し、その翌年に泰子と小林が同棲し、それも昭和3年(1928)に破綻しますが、映画はこの4年間の愛憎劇を僅か2時間に凝縮する訳で、監督も大変、演じる役者さんも苦労したかと思います。正直なところ、多感な泰子、感性豊かな天才中原、冷静で論理的思考に長けた秀才小林を、現代の俳優が演じるのは無理があるような気がしました。
手元の『中原中也詩集』(新潮文庫)の背表紙の関川夏央氏の文章に、小林秀雄の書いたもの(「」内)が紹介されています。「私は中原に対して初対面の時から、魅力と嫌悪とを同時に感じた」。そして「三人の協力の下に(人間は憎み合う事によっても協力する)奇怪な三角関係が出来上がり、やがて彼女と私は同棲した」「口惜しき人」中也は、泰子の荷物を秀雄の家まで運んでやった。・・・。この『中原中也詩集』には、「ゆきてかへらぬ」の次に「一つのメルヘン」という詩が掲載されています。この詩は中学か高校の教科書にあったもので、中原中也の詩のなかで一番好きな詩です。60年近く経った今でも記憶に残っています。光と音とが言葉となり、頭のなかを「さらさらと、さらさらと」流れれいく。天才中也の傑作かと思います。実はこの詩は賽の河原を表現したものらしく、中原の子である文也が亡くなる前に発表されたものです。
とりとめなく映画のことを書きましたが、エンディングロールの協力者名に京都の妙心寺と鎌倉のお寺の名前がありました。どこも私にとっては馴染み深いお寺でしたので、2時間の上映時間もあっという間に過ぎ、満足して劇場をあとにしました。