人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --映画「ゆきてかへらぬ」を観る--

2025-02-26 17:09:09 | 日記

先日公開された映画「ゆきてかへらぬ」を観にいきました。別に広瀬すず、木戸大聖、岡田将生らの演者のファンである訳でもなく、読売新聞に載った根岸吉太郎監督の記事に惹かれた訳でもなく、単に、長谷川泰子・中原中也・小林秀雄の三角関係が映画でどう描かれるか、鎌倉との関わりが映像に出て来るかを知りたかったことにつきます。

この映画のタイトル「ゆきてかへらぬ」は、中原中也詩集『ありし日の歌』のなか「永訣の秋」にある「ゆきてかへらぬ」という詩、長谷川泰子の同名の本からとられたものと思います。その「ゆきてかへらぬ ー京都ー」は、 ー僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒ぎ、風は花々揺つてゐたー からはじまる複数行の詩です。昭和11年(1936)、中原中也が29歳のときに発表されましたが、直後に以前から小児結核を患っていた愛息の文也が死ぬという悲しい出来事があり、そのあと中原自身も体調を崩し、鎌倉の寿福寺に転居して間もなく、昭和12年10月22日に鎌倉養生院(現清原病院)で30歳の若さで亡くなりました。妙本寺の海棠の下での小林秀雄との再会の話はあまりにも有名です。

中原中也17歳、長谷川泰子21歳、小林秀雄23歳。泰子を中心に展開する三角関係は、自分の学生時代と比較しても、あまりにも早熟に感じられました。三人がそれぞれ天才的な個性の持ち主だったのか、大正モダンという時代がもたらしたものか、今の若者がどう受け入れるのか少し興味がありました。この不思議な三角関係は、大正13年(1924)に中原と泰子が同棲し、その翌年に泰子と小林が同棲し、それも昭和3年(1928)に破綻しますが、映画はこの4年間の愛憎劇を僅か2時間に凝縮する訳で、監督も大変、演じる役者さんも苦労したかと思います。正直なところ、多感な泰子、感性豊かな天才中原、冷静で論理的思考に長けた秀才小林を、現代の俳優が演じるのは無理があるような気がしました。

手元の『中原中也詩集』(新潮文庫)の背表紙の関川夏央氏の文章に、小林秀雄の書いたもの(「」内)が紹介されています。「私は中原に対して初対面の時から、魅力と嫌悪とを同時に感じた」。そして「三人の協力の下に(人間は憎み合う事によっても協力する)奇怪な三角関係が出来上がり、やがて彼女と私は同棲した」「口惜しき人」中也は、泰子の荷物を秀雄の家まで運んでやった。・・・。この『中原中也詩集』には、「ゆきてかへらぬ」の次に「一つのメルヘン」という詩が掲載されています。この詩は中学か高校の教科書にあったもので、中原中也の詩のなかで一番好きな詩です。60年近く経った今でも記憶に残っています。光と音とが言葉となり、頭のなかを「さらさらと、さらさらと」流れれいく。天才中也の傑作かと思います。実はこの詩は賽の河原を表現したものらしく、中原の子である文也が亡くなる前に発表されたものです。

とりとめなく映画のことを書きましたが、エンディングロールの協力者名に京都の妙心寺と鎌倉のお寺の名前がありました。どこも私にとっては馴染み深いお寺でしたので、2時間の上映時間もあっという間に過ぎ、満足して劇場をあとにしました。

  

 

 

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鎌倉を知る --固瀬河(片瀬川)物語--

2025-02-23 09:21:51 | 日記

2月になって湘南モノレール湘南江の島駅からJR藤沢までのガイドをしました。梅の見頃な常立寺を拝観し、江の島道を歩くコースです。見出し写真は湘南江の島駅5階の展望デッキから富士山を写したものです。中世の東海道は富士山と明神ヶ岳の間にある足柄峠を抜けて相模国を横断し鎌倉に向かいました。丁度この辺りが片瀬という地名で、昔は固瀬と書いたようです。藤沢市内の寺社や史跡は守備範囲外で江の島、遊行寺くらいしか馴染みがなかったのですが、今回調べてみて新たな視点で鎌倉を見直すことができました。その中で今回は「固瀬(片瀬)」をフォーカスして紹介させていただきます。

固瀬(片瀬)の字句は筆者が気付いた範囲ですが、『吾妻鏡』に数か所でてきます。最初は、文治元年(1185)八月三十日の条。

・・・。(後白河)法皇また勲功を叡感したまふの余りに、去る十二日、刑官に仰せて、東の獄門の辺りおいて故義朝の首を尋ねだされ、正清の首を相副へ、江判官公朝を勅使としてこれを下さる。今日公朝下着す。よって二品(源頼朝)迎へたてまつらしめんがために、固瀬河の辺りに参向したまふ。

次は、四代将軍である藤原頼経の頃。執権は北条泰時です。貞応三年(1224)六月六日の条。ここに書かれている「霊所七瀬の御祓」というのは、中国の占星術や陰陽五行説など道教の影響を受けた北斗七星の信仰に基づくもので、公家である九条家出身の将軍の発案かと思われます。

炎旱旬に渉る。よって今日祈雨のために、霊所に七瀬の御祓を行はる。由比の浜には国道朝臣、金洗沢池には友輔朝臣、固瀬河には親職、六連には忠業、鼬川には泰貞、杜戸には有道、江島の龍穴には信賢。この御祓は、関東に今度始めなり。

後嵯峨上皇の皇子で鎌倉幕府六代将軍となられる宗尊親王が鎌倉に下向した時の条。

建長四年(1252)四月大一日の条で、天晴れ風静かなり、寅の一點、(宗尊)親王関本の宿より御出。未の一尅、固瀬の宿の著御。お迎への人々、この所に参会す。小時あって行列を立つ。

また『承久記』には、(義時追討の)院宣の御使には、推松(『吾妻鏡』では押松丸)とて究めて足早き者有ける、・・・承久三年(1221)五月十五日の酉刻に都を出て、劣らじ負けじと下りける程に同十九日の午刻に、鎌倉近う片瀬と云所に走付たり。 と書かれています。

以上、縷々書き連ねましたが、固瀬河(片瀬川)という場所は古くから鎌倉の西の玄関口として知られていたと考えられます。その場所がどこかは特定できませんが、賑やかや集落があり、館らしきものがあったのではないでしょうか。その場所はどこか?筆者はお寺の由緒からみると、本蓮寺あたりではないかと推察しています。

それともう一つ。『吾妻鏡』の建長六年(1254)四月小十八日の条に、聖福寺の鎮守の神殿を上棟すると書かれていて、その条の最後に「相模国大庭御厨の内にその地を卜せらるるところなり」とあります。聖福寺旧跡は稲村ケ崎5丁目の聖福寺公園にこの場所にあったという石碑が建っていますが、稲村ケ崎、七里ヶ浜東の住宅地あたりまで大庭御厨の支配地だったということでしょうか・・・??

 

 

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最近読んだ本 --『兜率天の巡礼』ーー

2025-01-05 16:56:44 | 日記

『兜率天の巡礼』は、文春文庫の『ペルシャの幻術師』(司馬遼太郎著)に納められている中扁で昭和32年(1957年)12月の「近代説話」で発表されました。何と68年前の作品ですが、司馬遼太郎ファンを自認する筆者がはじめて読む小説。年末に読んだ『アマテラスの暗号 上下』(伊勢谷武著)、そして『隠された聖徳太子』(オリオン・クラウタウ著)に続く、キリスト教(景教)やユダヤ人渡来説に関する3冊目の作品です。これが偽史か正史かの判断は専門家に委ねるとして、文中に展開する諸説、渡来説を証明する数々の史跡の紹介を読んでみますと、史実かなと思いはじめているから不思議です。

その『兜率天の巡礼』の主人公である閼伽道竜は、『隠された聖徳太子』にも登場する、キリスト教渡来説を発表した元京都大学法学部の教授であった池田栄(1901-1989)をモデルとしており、中篇ですが、司馬遼太郎らしく、中国で発見された大秦景教流行碑、英国のエリザベス・A・ゴルドン(1851-1925)の説、兵庫県にある大避神社、京都市太秦にある大酒神社や木島神社などを調べ上げ、渡来人の秦氏とキリスト教(景教)との関係を軸に物語が展開しています。仮に秦氏がユダヤ人であったとしても、800年、1000年もたてば現代人すべての先祖となってもおかしくないと語り、また渡来説を証明するはずだった京都のお寺にある壁画が、主人公である閼伽道竜とともに焼失してしまうという結末となっています。

聖徳太子の後ろ盾になり、広隆寺や伏見稲荷大社などを創建したと言われる秦氏一族がキリスト教(景教)徒であったかどうかという説は、ずいぶん前からありますが、司馬遼太郎が『兜率天の巡礼』を発表してからも70年たち、いまさら持ち出すのはお恥ずかしい限りです。ただ秦氏が渡来人であったことは明らかであり、間違いなく古代日本に先進的な文明をもたらしました。絹織物、製鉄、鉱山、土木など先端的な技術を身につけていることから、中国や朝鮮半島というより、遠くギリシャやローマ帝国から渡来した可能性は否定できず、これまで疑問に感じたことで解決できることも少なからずあります。

巻頭写真は鶴岡八幡宮の平家池で写したもの。逆さにしてみたら、どちらが正か偽か分かりません。歴史上諸説あるものも、頭から否定するのではなく、一度見直してみる大切さを学んだ年末年始のひとときでした。

 

 

 

 

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鎌倉を知る --葛原岡神社から望む富士--

2025-01-05 14:50:05 | 日記

令和7年1月1日。今年の初詣は源氏山にある葛原岡神社に行きました。自宅から鎌倉山を越え、梶原の山の上ロータリーから山崎・台峯緑地管理事務所を過ぎ、源氏山公園に至る行程です。歩いた時間は1時間強。いつも初詣は鶴岡八幡宮でしたが、混雑を嫌い、静かな参拝を選びました。社殿のまえでは神主さんにお祓いしていただき、心静かにお参りできました。さらに「霊峰富士山展望台」の案内に誘われるまま社殿脇の道を上りますと、そこから藤沢市街のむこうに富士山が見える絶景が広がっています。これまで葛原岡神社には何度もきていますが、ここから富士山を拝めたのは初めて。どうも山頂の真下に建物が建つらしく、それに反対する市民の方が積極的に開放したようです。

この葛原岡神社は日野俊基公を祀った神社で明治20年(1887年)の創建です。日野俊基公は1332年にこの葛原岡の地で処刑され、辞世の句と辞世の詩を遺しています。

 秋をまたで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらむ

 古来一句 無死無生 万里雲尽 長江水清

最後に富士を望み、そのはるか遠くの京都を偲び、辞世の句・詩を詠んだものと思われます。

その展望を遮るような無粋な建物が建てられるとは?俊基公も悲しむと思いますね。残念です。 

 

 

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最近読んだ本 『隠された聖徳太子』ほか

2024-12-30 14:07:36 | 日記

『隠された聖徳太子』(ちくま新書)はオリオン・クラウタウという東北大学教授が書いた本です。想像するに梅原 猛氏の『隠された十字架ー法隆寺論ー』を意識してつけたタイトルかと思います。『隠された十字架』(昭和47年発行)は50年以上前に発行され、聖徳太子を扱った異質な内容から当時かなりの話題となりました。その切り口が斬新なので、すっかり梅原ファンになり、『神々の流竄』など何冊も読んだ懐かしい記憶がよみがえりました。

さて『隠された聖徳太子』は、オカルト文化の視点から聖徳太子を捉えたものですが、その内容には詳しく触れませんが、興味ある方は一度チャレンジしてください。筆者がこの本を読んで興味を持った箇所は、渡来人である秦氏が聖徳太子のために創建したと伝わる京都にある広隆寺について書かれたところです。広隆寺は国宝の弥勒菩薩半跏思惟像があることで有名で秦氏の住んでいた太秦にあるお寺です。たぶん皆さんも一度は訪ねたことがあると思います。そして広隆寺のそばの大酒(避)神社の名前の由来がネストル派キリスト教(景教)の「ダビテの礼拝所」であり、木島(このしま)神社にある三角鳥居はキリスト教の三位一体を示していること、大秦は古代中国ではローマ帝国の呼称、唐代の景教の教会を大秦寺といったことなどの諸説が紹介されています。

また別にインターネットで検索すると、この大酒神社の祭神は秦始皇帝、弓月王、秦酒公。弓月王のいた弓月国は、中央アジアのカザフスタンと中国の国境付近にあった国で、起源70年に滅亡したイスラエルの人々の一部や、BC722年に滅んだ北イスラエルの人々の一部がつくった国と言われています。また弓月君は応神天皇の時代に百済から渡来したと日本書紀に書かれています。さらに秦氏が創建した伏見稲荷大社は、もともと伊奈利(いなり)と書き、ラテン語の「INRI」??。『ユダヤ人の王、ナザレのイエス』(イエス・キリストの磔刑の時の罪状)ではなかったかという説を語る人もいます。ここまでくると妄想でしょうが、興味深い説ではあります。

もう一冊は『アマテラスの暗号 上・下』(伊勢谷 武著 宝島文庫)です。この本も切り口は違いますが、古代にユダヤ人が渡来したという説で物語が展開しています。著者はゴールドマンサックスに勤務したことのある方なので、「この小説における神名、神社、祭祀、宝物、文献、伝承、遺物、遺跡に関する記述は、すべて事実にもとづいている」と書かれ、歴史や旧跡などのガイドブックとしても面白く読ませていただきました。

ここからは筆者の妄想ですが、聖徳太子の思想が景教(キリスト教の一派で一神教)の影響を受けているとすれば、聖徳太子から信仰の啓示を受けた親鸞聖人の浄土真宗の「一心に南無阿弥陀仏の名号を唱えれば往生できる」という教えは、多分にキリスト教などの一神教的であり、なるほどと思いました。

巻頭写真の雲は、空に浮ぶ「スノーマン」に見えませんか?なにごとも信ずるものは救われます。

 

 

 

 

 

 

 

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