今日は令和7年3月27日。一週間前に降った霰が嘘のようにここ数日温かく、めっきり春めいてきました。春と言えば桜、そして桜と言えば広町緑地の大桜。今年も元気に咲いているか?やはり気になります。西行の『山家集』でこんな歌をみつけました。
わきて見む老木は花もあはれなり今いくたびか春にあふべき
大桜をみに行くことができなくなる我が身が先か、大桜の樹勢が衰えるのが先か、古希を過ぎ、病院通いが増えたこの頃を思うと、ついつい先のことを考えてしまいます。
腰越までいつものコーヒー豆を買おうと、途中にある広町緑地の大桜に会いにゆきました。まだ咲いてないか心配したのですが、すでに風に吹かれ花びらがちらほら舞い落ちている様子でした。ただ桜の花かずは毎年毎年確実に少なくなっているようです。樹勢を保つためしっかり養生しているようですが、やはり齢には勝てませんか?そしてそのコーヒー屋さんも「暫らく休みます」の張り紙がしてありました。店主は私より年上の方でしたので入院でもしたのか、心配です。そして毎週来てくれていた腰越の豆腐屋さんも、最近来ないので店まで見に行きましたが、シャッターが降ろされたままでした。たぶん2店ともこのまま廃業してしまうかもしれません。寂しい限りです。
さて桜は散りぎわが美しく、『山家集』の中にも多く取り上げられています。その介添え役は風。風と桜は切っても切れない仲なのかもしれません。西行は次の二首を詠んでいます。
風さそふ花の行方は知らねども惜しむ心は身にとまりけり
風にちる花の行方は知らねども惜しむ心は身にとまりけり
上の五文字は違いますが、あとは同じです。普通に考えればどちらか一方にするのですが、西行はあえて二首のせました。その気持ちは知る由もありませんが、「風さそうふ」も「風にちる」もどちらも捨てがたい歌です。花の立場になって考えてみれば、個人的には「風さそうふ」に軍配をあげたい気がしました。「風にちる」では何か、花に主体性がなく寂しい感じがします。