人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

雨降山大山寺

2018-02-27 09:42:33 | 日記

雨降山大山寺

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きょうの旅 ーー 雨降山大山寺 ーー

2018-02-25 20:50:42 | 日記

丹沢山系、標高1252mの大山中腹に雨降山(あぶりさん)大山寺があります。寺の縁起によれば、奈良の東大寺を開いた良弁上人が755年に開山したといわれています。この大山寺はもともとは神仏習合の寺院として大山阿夫利神社下社(標高678m)にありましたが、明治の廃仏毀釈で破壊され、その後現在の場所に移りました。お不動さんとして広く信仰され、関東三十六不動霊場第一番札所になっています。

ご本尊は文永十一年(1264)に願行上人が鋳造したと伝わる鉄不動です。像高97.9㎝、台座をいれた総高287㎝、重量130貫(約480㎏)の大きさで、実際に拝んだ感覚は、その眼光と、威圧感によりはるかに巨大にみえます。大山不動像も明治の初めに破壊されかけましたが、なんとか免れました。なお鎌倉の覚園寺愛染堂にある「試みの鉄不動」は、大山不動像を造立するための試作仏といわれています。

本尊のご開帳日は毎月8・18・28日。参拝した2月23日も御開帳されており、諦めていましたが運よく参拝することができました。本堂の奥に鎮座するそのお姿の迫力ある威圧感と重量感には目を見張るものがあります。目は鎌倉時代ならではの玉眼が埋め込まれていますが、どのように作ったのか全く想像出来ません。覚園寺の不動像は鉄の塊という印象でしたが、大山鉄不動尊の完成度ははるかに高く、当時の優れた鋳造技術に驚かされました。鉄製の仏像は鎌倉周辺にしかないようですが、この鎌倉の鉄文化もっと研究されてても良いはずなのに、あまり知られていません。ちょっと残念な気がします。

興味ある方は一度拝観してください。百聞は一見にしかず。きっと何かを感ずると思います。

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曽我 梅の里の旅⑧ 宗我神社

2018-02-21 17:31:57 | 旅行

聞きなれない名前の神社です。祭神は宗我都比古命・宗我都比女名命の夫婦の神様。大和政権の蝦夷征伐に従った曽我一族がこの地に土着し、大和橿原にある宗我坐宗我都比古神社を勧請したものです。地図で調べると確かに近鉄大阪線の大和八木の隣、真管駅のそばに宗我神社はありました。

では何故に曽我一族の人がこの地に住み着いたのか?城前寺のある山の中腹から西側の箱根の山々を眺望しますと、ふとどこかで見た景色だと記憶が蘇ります。この景色は奈良盆地の東から金剛生駒連山を眺めた景色によく似ています。遠い故郷に帰れなかった曽我一族が故郷の景色を懐かしんでこの地に土着したのかもしれません。

今回の旅の終着点である下曽我駅までは10分位。御殿場線の電車は1時間に1~2本間隔ですので、時刻表を確認しておくとよいでしょう。それと発券機が1台で現金しか利用できませんので、少し早めに着くようにした方が無難です。

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曽我 梅の里の旅⑦ 法輪寺

2018-02-21 16:56:08 | 旅行

城前寺から法輪寺に行くルートは宗我神社の参道からの道と梅林を楽しみながら大きく回っていく道の2つです。せっかくなのでちょっと遠回りでも梅の里の景色を楽しみながら歩くのが好いでしょう。途中みかんの集荷場などがあって楽しめます。

法輪寺は臨済宗建長寺派のお寺。建長寺三十五世の了堂素安の開山です。曽我祐信の菩提寺であった崇泉寺は近くにありましたが、火事で焼けたため法輪寺に合併されました。そのため祐信の位牌がこの法輪寺に祀られています。本尊は釈迦如来坐像。本堂横の薬師堂瑠璃光殿には薬師三尊と十二神将像が安置されています。南向きの山の中腹にあるせいか、陽当りがよく気持ちよく参拝できます。また境内にある七福神像をさがしてみるのも好いでしょう。

 

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曽我 梅の里の旅⑥ 城前寺

2018-02-21 10:10:34 | 旅行

城前寺は浄土宗のお寺で曽我兄弟の菩提寺として知られています。兄弟の育ての親 曽我祐信の曽我城大手門がこのあたりあったことから城前寺という名前がついたといわれています。本堂裏手にある曽我祐信、満江御前、曽我兄弟の墓があるところは少し小高くなっており、曽我城の土塁が築かれていました。

吾妻鏡には、曽我兄弟の仇討後、源頼朝は兄弟の育ての親である曽我祐信に対し曽我荘の貢租を免じ、兄弟の菩提を弔うように命じました。「これひとへに彼等が勇敢の怠りなきを感じさせたことによる」と書かれています。頼朝にとって殺害された工藤祐経は寵愛する家臣であったはずですが、この扱いは特別です。実際、吾妻鏡が書かれたのは仇討事件から100年後の13世紀後半と言われ、この事件はかなり脚色されていると考えて間違いないかもしれません。

なにがそうさせたか?仇討事件があったとされるのは建久四年(1193)。その後、この出来事をキッカケとした曽我兄弟にかかわる御霊信仰が広く伝わったのではないか。その供養のために、後世に菩提寺としてこの城前寺が創建され、傘焼き祭りなどが毎年行われてきたのではないかと考えられます。また箱根の精進池の近くに曽我兄弟・満江御前の墓といわれる五輪塔が数基ありますが、忍性菩薩が建立に係ったとされる宝篋印塔の側にあり、曽我兄弟の供養とかかわりがあると推測されます。

写真は城前寺の入口に安置されている阿弥陀如来坐像。この阿弥陀様は忠臣蔵で知られる吉田忠左衛門の遺児で、城前寺14世の到誉達玄和尚が元文元年(1736)に亡父の33回忌に建てたもので、孝行阿弥陀と呼ばれています。

この城前寺。曽我兄弟の仇討と忠臣蔵の二大仇討とかかわりがあり、興味本位で仇討の事を語るのが憚れる気がしてきました。ただ仏教の世界には追善供養という言葉ありますが、何よりも兄弟の事を忘れずに思い出すことが大切なのかもしれません。さて次は法輪寺に行きます。この寺も曽我祐信ゆかりのお寺です。

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