人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --神護寺展を拝観する--

2024-07-26 10:31:10 | 日記

神護寺展は、神護寺の創建1200年記念 特別展として東京国立博物館 平成館で2024年7月17日~9月8日までの会期で行われています。国宝の薬師如来立像、五大虚空蔵菩薩坐像、伝源頼朝像などや重要文化財の展示物は数知れず、たぶん生きている間は二度と見ることはできないと思い、鎌倉から出かけました。特に国宝の伝源頼朝像は昨年開催された「特別展 やまと絵」にも出展されましたが、出かけた時は既に展示期間が終了しており悔しい思いをしました。絵画は長く展示すると劣化しやすいので展示期間が短く、せっかく行ったのに見損なうということがあります。今回の神護寺展での伝源頼朝像の展示期間は、前期の7月17日(水)~8月12日(月・休)。また国宝の山水屏風や重要文化財の文覚上人像などは後期の8月14日(水)~9月8日(日)までになっています。

この伝源頼朝像は、源頼朝を描いたものではないという説もあり、大変興味深い展示物ですが、実物は等身大の姿を描いたものであり、教科書の写真を見てあれこれ考えるより、本物を見ることをお薦めします。同時に江戸時代に冷泉為恭が描いた模写が展示されていましたが、冷泉為恭は源頼朝像だからわざわざ模写したのだと思いたいですね。私は神護寺の見解と同じでこれは源頼朝を描いたものだと考えています。

そして今回の最高の展示物は、国宝の薬師如来坐像です。この仏様は2年前の8月に神護寺を訪れたときに拝観しました。朝早かったのでお薬師様がいらっしゃる金堂には私一人しかおらず、お寺さんの好意で仏様を目の前で見ることができたました。ただ広い金堂の高いところにいらっしゃったせいか、お顔の様子まではあまり覚えていません。今回の特別展では真近で拝観できました。像高は169.4センチメートルでカヤの一材から彫りだされたものです。図録の解説には、「日本彫刻のなかでも異彩を放つ存在である。眼差しは厳しく、拝する者の心を見透かすようである。頬は引き締まり、山形の唇に強い意志を感じる。面部や胸部の肉身には細かな鑿跡が残り、その粗さが像の威力を増しているように思える。」と書かれています。実際に拝観した印象もその通りで、素晴らしいお薬師様を拝ませていただきました。このブログを読まれた方は是非拝観されることをお薦めします。

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鎌倉を知る ーー鎌倉花火 2024--

2024-07-19 10:34:52 | 日記

7月17日(水)19:20~20:00まで5年ぶりの鎌倉花火が開催され、花火見物に出かけました。天気は前日までは梅雨空でしたが、当日は午後から天気は回復し、月も顔をだした絶好の花火日和でした。今年は2600発が打ち上げられ、警備費用を賄うためにクラウドファンディングを行い、目標以上の応募があったと今朝の新聞に書いてありました。最近の河川敷で実施される花火大会は燃えカスが枯草に燃え移ったりして中止するところが多いのですが、海上で打ち上げられる鎌倉の場合はその心配もなく、無事に開催できたようです。主催者発表の観客数は16万人。鎌倉市の人口とほぼ同数が海岸に集まったことになります。鎌倉の海岸は由比ガ浜から材木座海岸まで海岸線が長く彎曲しており、見物場所として恵まれているかと思います。正味30分位の打上げでしたが、名物の水中花火も2度みられ、結構楽しめました。交通渋滞などの問題もあり、鎌倉市民のなかには反対論も根強くありますが、継続して開催してもらいたい夏の行事の一つと思います。年寄りはともかく、若い人にとっては仲間同士で楽しめるイベントではないでしょうか。

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鎌倉を知る ーー鎌倉の祭り 八雲神社例祭ーー

2024-07-18 16:43:12 | 日記

7月13日(土)に鎌倉市大町で行われた八雲神社例祭に行ってきました。写真では見たことがあるのですが、30年近く鎌倉に住んでいて実際に現地で見物するのは初めてでした。大町の八雲神社は大町の鎮守様。もともと江戸時代までは祇園天王社と呼ばれていました。その由緒は、11世紀後半の永保年間、新羅三郎義光が、兄八幡太郎義家の奥州攻め(後三年の役)の助成に行く途中に鎌倉に立ち寄った際、疫病に苦しむ人びとの姿をみて京都祇園社の祭神を勧請したのが始まりといわれています。いってみれば八坂神社の鎌倉版で八雲神社となった訳です。祭神は明治以降は須佐之男命ですが、それ以前は牛頭天王でした。牛頭天王は古代インドのヒンドゥーの神様なので仏教の仏様ではないのですが、明治時代の神仏分離のため神話の世界の神様になりました。

八雲神社例祭では4基の神輿が登場します。須佐之男命(牛頭天王)、その妻稲田姫命(婆梨采女)、その子八王子、そして佐竹天王です。最初の三神輿は京都の祇園祭りと同じで疫病退散を祈願するものなので、その意味するところは容易に理解できます。ただよくわからいのが佐竹天王の神輿です。この神輿は八雲神社例祭では一番神輿とされ、神幸祭の神輿渡御では氏子たちに担がれて佐竹屋敷があったとされる大町大宝寺で神幸所祭が行われます(『鎌倉の神社』吉田茂穂監修による)。

さて筆者が祭りを見学したのは、薄暗くなって4基の神輿が八雲神社を発輿する午後19時前から。19時には宮出となります。八雲神社を出て大町四ッ角から辻のはな(JR踏切手前、辻の薬師のあたり)の間を往ったり来たりして、途中で4基の神輿を連結する「四社つけ」が21時までに3回実施されます。それぞれの神輿につけられた提灯に火がともされており、四社つけのまま練る間に天王唄が披露されます。特に20時頃の大町四ッ角での2回目の四社つけの練りがクライマックスでしょうか。この提灯の火はローソクなのですが、今年は雨仕様の電灯でした。たぶん例年は四連結された神輿が揺れるたびに提灯の火もゆれ、一層幻想的な雰囲気が演出されたと思われますが、電灯の火でも十分楽しめました。

ではここからが妄想の世界です。「四社つけ」という形は非常に稀有で鎌倉市内でも大町の八雲神社例祭だけに見られます。4基の神輿の担ぎ手の息がぴったりと合わないと、連結したり、離れたり、そして連結したまま天王唄に合せて練るのは至難の業です。このお祭りは他所からの担ぎ手は断っているようですが、理解できます。ではいつごろから「四社つけ」が始まったのか?資料によりますと、佐竹天王が合祀されたのは応永年間(1394~1428)とされています。鎌倉を舞台にしたその前後の出来事はなにか?

まず鎌倉公方、足利氏満の康暦元年(1379)に氏満の京方への敵愾心を諫めるため関東管領上杉憲春が自害しています。その後、足利満兼を経て足利持氏の応永23年(1416)に上杉禅秀の乱が起きました。これは山内上杉(上杉憲基)と犬懸上杉(上杉禅秀=氏憲)の対立ともいわれていますが、京方の助けを得た持氏側が勝利しました。このとき禅秀側についたのが佐竹与義(ともよし)でした。これを根に持った持氏は応永29年(1422)に佐竹与義を討伐し、同じく禅秀側の京都扶持衆であった小栗満重、宇都宮持綱らを滅ぼしました。これがために持氏は室町幕府の足利義教と対立。永享10年(1438)には永享の乱が起き、翌年負けた足利持氏は鎌倉永安寺で自害して果てました。持氏の死後、鎌倉府は宝徳元年(1449)に持氏の子、成氏が鎌倉公方になるまで消滅した状態でした。その成氏も戦乱を経て康正元年(1445)には鎌倉を落ちのび古河公方となり、鎌倉は時代から取り残された状況が長く続くことになります。いつから「四社つけ」が始まったのかは不明ですが、以上の出来事が契機であることは間違いないでしょう。鎌倉公方は鎌倉を脱出できても、そこにいる民衆は逃げることはできません。自分たちの暮らしを守るために怨霊封じの「四社つけ」が自然発生的に出来上がったのではないかと考えています。

 

 

 

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