浄光明寺は鎌倉の扇ガ谷にある寺院。京都の泉涌寺の末寺として準別格本山の寺格が与えられています。創建は建長三年(1251)の頃で北条時頼と北条長時が開基、真阿和尚の開山と伝わります。北条長時は北条重時の子供で赤橋流北条氏はこの長時から始まりました。以前でしたら北条長時の名前がでても聞き流していたのですが、最近、北条重時の『六波羅殿御家訓』を少しかじりましたので、重時、長時、義宗、久時、守時と繋がるこの家系に非常に興味を持ちました。
さらに北条氏が滅んだ後も後醍醐天皇の皇子である成良親王の祈願所になるとともに、赤橋守時の妹婿である足利尊氏からも寺領の寄進を受けるなど庇護され、さらに中先代の乱後には後醍醐天皇に謀反の嫌疑をうけ、尊氏がこの寺で一時蟄居していたなど、度々歴史の舞台に登場しました。また元弘三年(1333)から建武二年(1335)の頃に描かれた「浄光明寺敷地絵図」も発見され、寺領の広さや赤橋流北条氏との関係も明らかになってきました。実際に長時や久時、守時の墓があったと伝わっています。さらに境内の背後の山には冷泉為相の墓とされる宝篋印塔もあり、話すことには事欠きません。
宝物庫に安置されている阿弥陀三尊像は国の重要文化財です。修理の際に正安元年(1299)に作造されたと記された胎内文書が発見されました。この桧木の寄木作りの阿弥陀如来像には土紋が施されており鎌倉独自文化の痕跡を今に残しています。さらに足利尊氏の弟直義の念持仏とされる桧木の寄木作りで金泥で塗られた矢拾い地蔵も置かれていますが、この地蔵尊は鎌倉二十四地蔵尊霊場の第十六番札所になっています。
収蔵庫のある場所から急な階段を登りますと、以前地蔵院があった平地に着きます。背後の崖のやぐらの中には網引地蔵(同第十六番札所)が置かれています。そして平地の北西端には柵をされ今は通行止めになっている地蔵院をお詣りするためくぐった洞穴があります。
写真は近くの英勝寺から移設された山門です。