人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 仮名手本忠臣蔵 ーー

2016-10-17 09:14:09 | 日記

国立劇場の十月歌舞伎公演『通し狂言 仮名手本忠臣蔵』で、10月は第一部として大序から四段目までが上演されています。ご存じの通り、元禄十五(1702)年に大石内蔵助率いる赤穂浪士が吉良上野介邸に討ち入りを果たしました。その47年後の寛永元(1748)年に、『仮名手本忠臣蔵』が大阪竹本座で人形浄瑠璃として上演され、その年末には歌舞伎化されています。ただその時代、武家社会の出来事を実名で脚色することは禁じられていたため、江戸を舞台とすることは許されず、時代は太平記の世界、場所は鎌倉となっています。

ということで、幕開きは「鶴ヶ岡社頭兜改めの場」で鶴岡八幡宮。足利直義、高師直、塩冶判官髙定、桃井若狭之助安近といった14世紀の人物が登場します。私自身、これまで歌舞伎には全く興味はなく、お恥ずかしい話ですが、この演目が鎌倉を舞台にしていることも知りませんでした。この『仮名手本忠臣蔵』は大当たりし、江戸時代、上演されれば大入り間違いなしということから、当時の万能妙薬になぞらえ「芝居の独参湯」と呼ばれていたようです。このように18世紀半ばには『太平記』の物語とか鶴岡八幡宮の地名が上方の人々に馴染み深いものだったと思うと、非常に興味深いです。

さてこの歌舞伎の内容ですが、はじめてみた演目でしたが、何回でも見たいと思うほど惹きつけられました。特に、三段目の「足利館 松の間刃傷の場」。師直が判官を鮒に譬えていたぶる市川左団次の演技。そして四段目の「扇ヶ谷 判官切腹の場」はその50分間、劇場内の入出場は禁止され、観客の目は切腹する判官一人にそそがれ、咳払いすらない静まりかえった世界が広がります。判官の「無念さ」とそれを心にしまい込む由良之助の思いをこういった形で表現するものかと、つくづく感心しました。真っ白な世界のなか、刀の先についた赤い血色が目に焼き付いて離れません。この演目は人間の情感に訴える脚本、演じる役者の所作と台詞、そして浄瑠璃の語りと三味線の哀愁溢れる音色など、全てが心に沁みこんできました。やはり歌舞伎は日本の宝ですね。

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もうはまだなり まだはもうなり

2016-10-07 17:25:03 | 日記

2016年10月2日(日)。読売新聞日曜版の名言巡礼にあった格言「もうはまだなり まだはもうなり」。もう値上がりする頃だと思う時には、まだ状況は変わらない。まだ同じ状況が続くだろうと思っている時、もう局面は転じている・・・と書いてありました。

この格言を読んで、はて? 自分のこれまでの人生はどうだったのか考えさせられました。自分で稼げるうちはいいのですが、年金生活に入ると思い切った勝負はできないもの。もっと要領よくできなかったかと考えてはみました。とはいっても、世の中、そして人生は「ゼロ・サム」の世界。どっかで帳尻があっているもので、ずーっと勝つこともないし、負け続けることもない。そして死ぬときは、あの世に何ももっていけないし、死んでしまえば自分の評判を聞くこともできない訳で、結局、水素・酸素・炭素の分子と化し、骨と煙になって生まれる前の元の状態に戻るだけ。そう思うと、写真のクラゲのように気ままに浮いたり沈んだりして生きていくのもありかと思ったりしました。

冒頭の格言でこんなふうに人生を考えるのか?ウケ狙いのまだまだ生臭い生き方をしている自分をみて、ちょっと笑ってしまいました。

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ちょっとブレイク ーー ハドソン川の奇跡 ーー

2016-10-05 15:55:50 | 日記

2009年1月15日。USエア・ウェイズ1549便がニューヨークのマンハッタン近くを流れるハドソン川に不時着水したニュースをみて、その奇跡的出来事に感動した方もいらっしゃるかと思います。私もその一人ですが。

その事件をクリント・イーストウッド監督、トム・ハンクス主演で映画化したのが『ハドソン川の奇跡』です。原題は「Sully」。機長の名前です。昨日みてきましたが、みる前はそれをどう描いたのか興味深々でした。機長を英雄化してハッピーエンドの映画で終わるのなら普通の映画でしょうが、さすがイーストウッド監督。そうは描いていませんでした。あとは一度、ご覧になってください。

映画をみて感じたのは、まず日本のタイトルの付け方です。日本人は「奇跡」という言葉が好きで、「ハドソン川の奇跡」というタイトルをつけました。アメリカの原題は「Sully」です。映画はまずハドソン川に着水したのが正しかったのか、運輸安全委員会は徹底して追求します。近くの飛行場に戻れたはずだとして。滑走路ならまだしも、川や海の水面に胴体着水するのは至難の業で危険な行為とされています。それも気温が氷点下のハドソン川です。アメリカという国は「奇跡」を奇跡として片づけない国です。人がなした行為、その一つ一つが正当な判断であったのか、別の人がやっても同じことが出来るのか、それをマニュアル化して残します。日本人なら、神業・神風で済ましてしまいます。

このサリー機長は、アメリカ軍のパイロットで飛行時間も長く、いろんな状況に対応して的確に判断できる能力を身につけています。機長を査問する運輸安全委員会側はハドソン川に墜落した行為を無謀として糾弾するのですが、果たしてイーストウッド監督はどういう思いでこの映画をつくったのでしょうか。映画をみて想像してみるのも面白いですね。

ところで写真はハドソン川ではなくシベリア上空のものです。

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鎌倉の寺社 ーー 長谷寺 ーー

2016-10-04 09:09:56 | 日記

時代は遡り13世紀後半、塔の辻から長谷小路を西に行けば、稲瀬川沿いに長楽寺(鎌倉文学館付近)を右に望み、安達盛長邸、甘縄神社、千葉胤綱邸を過ぎれば長谷山の中腹に長谷寺がありました。坂東三十三観音霊場の4番札所。観音堂には大和の長谷寺と同体の十一面観音菩薩像が拝めます。今も多くの参拝者で賑わっていますが、鎌倉時代も近くの阿弥陀様の大仏とあわせ、民衆の信仰の対象となっていたと思われます。

お寺の縁起によれば、大和の長谷寺の開山である徳道が天平八(736)年ころ開いたと伝えられていますが、『吾妻鏡』等の当時の資料にこの長谷観音の名前がでてきませんので、はっきりしたことは分からないようです。ただ文永元(1264)年の年号と「新長谷寺」の文字がある大鐘が遺されていることや、観音三十三応現身像、『長谷寺縁起』、銅造十一面観音懸仏などの宝物をみると、お寺の由緒を感じます。当時の鎌倉幕府は京から鎌倉入りする西の入口に、東大寺の大仏や長谷観音に負けないくらい大きい仏像を造ることで、権勢を誇示したのではないかと推測されます。

では何故に『吾妻鏡』などに記録がないのか?長谷(深沢)の大仏や廃寺となっている極楽寺西方にある聖福寺などは、北条一族が旦那になって建立されたと考えられますが、史料によれば民衆の浄財によって建てられたことになっています。北条一族が正面にたたず、民衆主体の事業であったことを強調する必要があったかもしれませんね。

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鎌倉を知る ーー 光則寺 ーー

2016-10-01 16:46:26 | 日記

光則寺は長谷寺から鎌倉大仏に向かう途中、長谷寺の隣にあります。山号は行時山。北条時頼に仕えた宿谷行時・光則親子の名に因んでいます。長谷寺や鎌倉大仏はいつも多くの観光客で賑っていますが、光則寺は静かに鎌倉のお寺の風情を楽しむことができます。特にカイドウの花が咲く春は見事ですが、それ以外の季節でも庭に植えられた花々がもてなしてくれます。

さてこの光則寺は、宿谷光則が自分の屋敷に日蓮の愛弟子「日朗」のために建てた日蓮宗のお寺です。境内には「日朗上人土の牢」がありますが、これは「龍ノ口の法難」の時に日蓮と一緒にいた日朗らが捕えられ押し込められた土牢です。ご存じの通り、日蓮は処刑を免れ佐渡に流されますが、その途中相州の依智(厚木市)から日朗に宛てた手紙『土の牢御書』が残されています。自分の命すらどうなるか分からないのに、弟子に宛てた心遣いあふれる内容が印象的です。

   日蓮は明日佐渡の国へまかるなり。今夜の寒きに付ても、牢のうちのありさま、思いやられて痛わしくこそ候え。あわれ殿は、法華経一部を色心二法共にあそばしたる御身なれば、父母六身一切衆生をも助け給うべき御身也。法華経を余人のよみ候は、口ばかり言ばかりはよめども心はよまず。心はよめども身によまず。色心二法共にあそばされたるこそ貴く候え。 「天諸童子 以為給使 刀杖不加 毒不能害」(法華経 安楽行品)と説かれて候えば、別の事はあるべからず。 牢をばし、出でさせ給い候わば、とくとくきたり給え。見たてまつり、見えたてまつらん。 恐恐謹言 (昭和定本日蓮聖人遺文五〇九頁)

法華経安楽行品の一節は 「天の諸童子が守護するから、刀や杖を持って傷つけたり、毒を盛って命を奪うことはできない。」という意味です。宿谷光則はこの弟子を思う日蓮の気持ちにうたれ、自分の屋敷を寺にしたそうです。

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