来年の大河ドラマは北条義時が主人公。そのためいま鎌倉では義時ゆかりの寺社を巡る企画で盛り上がっています。このブログの妙本寺もその一つ。長い間ブログを書いていますが妙本寺を取りあげたのは初めてだと思います。JR鎌倉駅から10分位の所にあり、町中にありながら閑静で広い境内が人気ですが、これまで取り上げる機会がありませんでした。
長興山妙本寺は文永元年(1260)の創建で開山は日蓮上人、開基は比企能本です。山号の長興は能本の父である比企能員の法名、妙本は母の法名です。日蓮宗のお寺のなかでは身延山の久遠寺、東京池上の本門寺に並び大変格式の高いお寺です。比企能員は比企氏の乱で北条氏に滅ぼされました。
正治元年(1199)に源頼朝が死んでから鎌倉は混とんとした時代を迎えます。一応源頼家が二代将軍を継ぎますが、頼朝ほどのカリスマ性はなく、残された御家人たちの間で生き残りをかけた駆け引きや死闘が繰り広げられます。御家人や重臣13人の合議制といっても名ばかり。正治二年(1200)には梶原景時が失脚、頼朝の伊豆配流時代からの老臣安達盛長、三浦義澄も亡くなり、翌年には三善康信も死にました。明らかに頼家周辺のパワーバランスは崩壊寸前。そんななか建仁三年(1203)7月に頼家が危篤状態になり、世の中は騒然とし始めます。頼家の乳母夫(めのと)比企能員は自分の娘(若狭局)の子である一幡を次期将軍に据えようと画策し、一方頼家の弟(千幡)の乳母夫である北条時政と政子・義時姉弟は千幡(のちの実朝)を後継にしようと動き始めます。先に仕掛けたのは北条時政で同年9月に比企能員を殺害し、政子・義時は一幡の暮らす比企ヶ谷にある小御所を襲い比企氏一族を滅亡させました。これが世にいう比企氏の乱です。しかしよく考えてみれば、頼家の子である一幡が後継将軍になることがほぼ決まっていたのですから、実際は北条氏の乱であったと思います。まさに妙本寺があるこの比企ヶ谷で起こった事変が後の北条氏の世の出発点となったわけです。
その後、元久二年(1205)6月には畠山重忠一族が滅亡し、7月には北条時政が出家し伊豆に下向、同月には時政の後妻である牧氏の娘婿である平賀朝雅が殺害されました。これにより三代将軍源実朝の時代が到来し、それを北条義時が支えることになります。