鎌倉市発行の『図説 鎌倉回顧』(昭和44年11月3日)に「明治20年代の望夫石」という写真がありました。その解説を読むと、どうも畠山重忠の子である重保に関係があるということで調べてみました。その望夫石のことは『鎌倉江ノ島名勝記』(明治23年発行)に掲載されており、その部分を紹介しましょう。
望夫石 観音山の上にあり、畠山六郎重保由井浜に於いて戦死せし時、其婦此山に登り望見悲嘆の餘、恋死すという所なり、按ずるに、望夫石というもの、異朝にも、本朝にも、往々あるもと知るべし、必ずしも、石に立って戦死の夫を恋望したるに因らざるか如し、程伊川の謂う、望夫石は只だ是れ江山を望みて形ち石人の如くなるものなり云々、今此の山にあるものも此の類なるべきか、望夫石の辺りより望臨せば、由比ガ浜の景を観るのみならず、全鎌倉の景勝眼下にあり、近頃山頂に二三の家店を新築して客の観遊に便にす、此の観音山は鎌倉停車場の北にあり、遠景絶佳にして、汽車中より望見せば、頭上に笑い迫るの思いあり、
この話、畠山重保の妻が悲嘆のあまり死んで石になったという話が伝っていますが、原典は中国で、あまりの絶景を見て石のように固まってしまうという意味かと思います。実際、程伊川(1033-1107)は中国北宋時代の儒学者で、兄とともに朱子学・陽明学の源流をなす学者です。
明治時代中頃までは、この観音山の山頂から由比ガ浜まで展望されたようで、ひょっとしたら一の鳥居の側にある高さ3.4mある畠山重保の墓と伝わる宝篋印塔が見えたかもしれません。なんともロマンのある話です。この部分は私の妄想ですが・・・。写真は今の観音山です。JR鎌倉駅西口から今小路を寿福寺方面に向かい紀ノ国屋先の駐車場から写しました。