鎌倉宮は明治天皇により明治2年(1869)に創建された後醍醐天皇の皇子護良親王を祭神とする神社です。もともとこの場所には東光寺という寺があり、そこに幽閉されていた護良親王が足利直義の家臣である淵野辺義博に殺害されたという話はあまりにも有名です。この鎌倉宮の宝物殿には護良親王の絵物語が飾られていますので是非ご覧ください。
この物語は『太平記』に載っており、悲劇の主人公護良親王と悪役の足利直義の話は古くから伝わっていました。江戸時代の『新編鎌倉志』には、当時既に廃寺であった東光寺の敷地に幽閉されていた土牢が描かれています。私はこの顛末は明治以降に大いに脚色されたもの思われ、余り好きにはなれませんでした。足利直義に同情的な私としては、いくつかの反論材料を持ちだし、復権を願うばかりです。
まず「土牢に閉じ込められていたのは本当か?」です。これは多くの文献で既に否定されています。真実は東光寺の土壁のある座敷牢に1年近く幽閉されていたようです。
次は「護良親王の首は淵野辺義博によって藪に捨てられ、理智光寺の住職が探し懇ろに葬った」という話です。本来ならば主君の命で殺害した護良親王の首は足利直義に見せるはずですが、そうしなかった淵野辺の対応に納得できませんでした。この話『太平記』読むと、なぜ主君のもとに持っていかなかった理由が書かれていました。岩波文庫の『太平記』には「干将鏌鎁(ばくや)の事」という項があり、理由を書いています。どんなことか?ちょっと内容を紹介します。
中国の周代の話です。周の楚王がいて、ある時に妃が懐妊しました。その妃は鉄丸一つを生み落し、干将という鍛冶に宝剣を作らせました。干将は雌雄の剣二つ作り、一つは楚王に、もう一つ生れてくる我が子のために隠してしまいます。楚王はその剣をもらい大いに悦びますが、その後対になっている剣があることに気付き、嘘をついた干将の首を落します。干将の妻鏌鎁は子(名は眉間尺)を産み、雌の剣を探し出します。干将を知る客が眉間尺の前に現れ、親の敵楚王を討つなら、雌剣の先を三尺ばかり食いちぎり、口に含め死に、楚王の前に出た時に、その剣を吐き出せと話ました。その客は眉間尺の首をとり、楚王に渡します。楚王をこの首を獄門に掛けますがいつまでたっても生きているようで、さらに鼎に入れ溶けるまで煮てしまいます。頃合いをみて楚王は鼎の蓋を開け、中を覗き込むと、眉間尺の口から雌剣の先が吐き出され、楚王の首が鼎の中に落ち、さらに自ら落した客の首も鼎に落ち、鼎のなかで三つの首が煮られ、最後は眉間尺、客ともに目的を達したとして、失せてしまいました。
なんともおどろおどろしい物語であり、淵野辺はこの話を知っていて、直義に災いが及ぶのを懼れ、藪に棄てたということです。後世に伝わる話では、この物語にはふれず、ただ淵野辺は怖くなって棄てたと語られています。淵野辺義博の名誉も回復してあげたいものです。