2月9日(水)と22日(火)の2回に亘り、石橋山合戦古戦場跡、逃げ隠れたしとどの窟、船出した岩浦海岸を歩く旅をし、都合19本のブログ記事を投稿しました。20本目の今回はその終章。石橋山合戦のゆかりの場所を歩いて感じたこの合戦の歴史上の評価について書きたいと思います。
豊臣秀吉が鎌倉の鶴岡八幡宮を参拝し、源頼朝像の肩を叩き、同じ天下人として語った話が残されています。同じような境遇から天下を取った二人ですが、私は百姓の出、あなたは源氏の貴種としてのブランドがあった。何もない私の方が偉いと勝ち誇って言ったそうです。
また天下人が戦った歴史に名を残す戦いが幾つかあります。織田信長の桶狭間の合戦、秀吉が明智光秀と戦った山崎の合戦、徳川家康が石田光成率いる西軍と戦った関ヶ原の合戦等、皆さんよくご存じのものです。しかし源頼朝の戦った石橋山の合戦は多勢に無勢の中、頼朝がどんな戦をしたのか、実際のところよく分かっていません。『吾妻鏡』などを見ても佐奈田与一義忠の討死とか、敗走する様子は描かれていますが、余り戦略というものは重要視されず、貴種としての頼朝のブランド、信仰心、持っていた運がその後の結果をもたらしたといった内容になっています。
私も今回の真鶴、湯河原に行く前は殆ど石橋山合戦には関心がなく、しとどの窟や真鶴の岩浦なども知りませんでした。しかし今回現地を自分の足で歩いて思ったのは、全く勝算もなく石橋山合戦を仕掛けたのか?しとどの窟は偶然に見つけた洞に身を隠したのか?岩浦から相模湾を安房まで横断するという船出は思い付きなのか?安房に渡ってからの千葉常胤や上総介広常らを糾合したスピードがあまりにも速く、事前の根回しなくては実現不能と思われること。誰かフィクサーが存在したのではないか?等々・・妄想は膨らむばかりです。
そこで私なりの石橋山合戦の評価を以下に述べます。
まず敵方と十分の一の戦力で戦うシナリオがあったこと。一つは自然が作り出した地形。石橋山から湯河原、真鶴にかけては箱根火山の外輪山で、急峻な山々と身を隠すことができる岩窟があります。二つ目は地の利をよく知った信頼できる土肥実平一族らの見方がいたこと。三つ目は箱根権現や伊豆山権現の修験者集団が味方についたこと。この一戦はまず戦うという実績を作ることが大事で、頼朝は負けても死んでしまっては意味がありません。たぶん退路をしっかり確保したうえに戦を仕掛けたと考えます。そこで重要なのが佐奈田与一義忠とその家臣文三、家康でしょうか。
次に逃げ道という点では、火山帯特有の急峻な山岳地帯であったこと。土肥城のある城山の標高は563m、幕山は626m、近くの南郷山は610mあり、こんな山中を騎馬隊は進めず、敵方の探索は徒歩で、まして地の利もなく、困難を極めたと思います。
さらに相模湾を渡り安房に逃れるという作戦は三浦氏の協力がなければできません。三浦一族は陸路で石橋山に駆けつける一団と海路で真鶴沖に向かう一団がいて、その海路での脱出劇を助けたのが和田義盛。謡曲「七騎落」は海上で出会った和田義盛との酒宴でハッピーエンドとなりますが、史実に基づいているかもしれません。
最後は、安房の千葉常胤が味方になったこと。これは想像ですが、実は『文覚上人一代記』(相原精治著)に、常胤の息子胤頼は、京都にあった頃、文覚の父親、遠藤持遠とも親しくしており、文覚を日頃信仰上の師ともしていたの記述があります。文覚上人好きの私としては、彼がシナリオを書いたフィクサーだったと思いたいですね。
写真は幕山麓から城山方面を遠望したもの。その北斜面にしとどの窟があります。縷々書きました頼朝の逃避行はあらかじめ予定されていたと改めて思いました。妄想です・・・。