人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 「ツバキ文具店」を観る ーー

2017-06-27 09:33:27 | 日記

4月から6月2日までの毎週金曜日にNHKで放映していたドラマ「ツバキ文具店~鎌倉代書屋物語~」。久しぶりに鎌倉を舞台にしていたドラマであったこと、ドラマの中で高橋克典が演じたのが、認知症の母をもつ鎌倉の観光ガイドであったことから、興味深く観ました。読売新聞の「放送塔から」を読むと、ドラマの評判も上々のようでした。

小川糸さんの原作では、ツバキ文具店の場所は鎌倉宮から瑞泉寺に行く途中、写真にある通玄橋の辺り。影像では大町の本覚寺、妙本寺から八雲神社付近が舞台になっているようでした。そして随所に鎌倉の街並みや寺社などが映され、ゆったりと流れる音楽と相まって、久しぶりに堪能したドラマでした。

そして何よりも、代書屋の主人公が悩みながら代書く手紙がいいですね。わたしももう一度読みたくて原作を買ってしまいました。字が下手で、日ごろはパソコンを使っているのですが、改めて手書きの手紙の良さを再認識しました。手書きの手紙は書き損じが出来ないので、それだけゆっくり心をこめ丁寧に書かざるを得ません。間違えば書き直しです。主人公の鳩子は気を静め、書きたい文章が落ちてくるまでじっくり待ちます。文章が「落ちてくる」瞬間というのは、ほんとうにありますよね。わかる気がします。

日ごろ、メールやラインの短文に慣らされてしまうと、相手に伝わる気持ちのこもった文章は書けなくなります。還暦を過ぎた身となりましては誰かに手紙で思いを届けるという機会はなくなってしまいましたが、何度も読み返したくなるような手書きの手紙を貰ってみたいものです。

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鎌倉を知る ーー 思いは重い 東慶寺 ーー

2017-06-22 17:27:27 | 日記

「思いは重い」というテーマにピッタリなのが東慶寺です。この東慶寺は1285年に北条時宗の菩提を弔うために時宗の夫人である覚山志道尼が建てたと言われています。「思い」の一つ目は、覚山尼の時宗への思い。二つ目は、その覚山尼の不法の夫から不憫な妻を救いたいとするひたむきな思い(縁切寺法)。

時代は下り、三つ目は、1333年鎌倉幕府滅亡時に四世である了道尼の大鐘を持って伊豆に落ちのびた無念な思い。

四つ目は、後醍醐天皇の息女用堂尼の弟である護良親王への思い。ご存じの通り、鎌倉宮に祀られている護良親王は1335年に足利直義に殺されました。用堂尼はその菩提を弔うため鎌倉に下ったとされています。

五つ目は、十七世旭山尼の姉である太平寺住職青岳尼は里見義弘が鎌倉に攻めてきたとき、義弘と千葉に渡ってしまいました。まさに恋の逃避行です。そのとき青岳尼は太平寺の本尊聖観音菩薩像を一緒に持ち出しました。それを鎌倉に取り戻そうとしたのが旭山尼です。

六つ目は、豊臣秀頼の息女 二十世天秀尼の思いです。天秀尼は豊臣家が滅亡したとき生き延び、東慶寺に入ります。年齢は13歳位。どんな思いで住職となり勤めたのか?そして徳川家康に縁切寺法を認めさせた、その強い心。

七つ目は、夏目漱石の釈宗演への思い。漱石は30歳前に円覚寺塔頭の帰源院に参禅し、その20年後に、ここ東慶寺で釈宗演と再会しています。

東慶寺に入ると、何か包まれるような気持ちになります。魂の存在を信じるわけではないのですが、いくつも積み重なった「思い」がそうさせるのかと・・・。不思議な空間です。

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鎌倉を知る ーー 思いは重い ーー

2017-06-21 08:38:32 | 日記

鎌倉ガイド協会の会員となって、この4月から鎌倉市内と縁のある周辺地域のガイドをはじめています。特に5月、6月は小中学生や旅行者のツアー客を案内する機会が多く、その都度、どう説明したらいいか、悩む毎日が続いています。訪れる場所は鶴岡八幡宮、長谷の鎌倉大仏、長谷寺、源氏山の佐助稲荷神社、銭洗弁財天、北鎌倉の円覚寺、東慶寺、浄智寺、建長寺などの定番寺社の組み合わせとなります。ガイドになる前は、これらの観光スポットは「いつでも行ける」との思いから、ほとんど行くことはなかった場所です。

人気があるということは、行ってみたい、行く人を惹きつける何かがあると云うことでしょうから、満足して帰っていただくように、それに応えるガイドも準備が大変になるわけです。寺社の沿革、ご利益などはどのガイドブックにも書いてありますので、知っていて当たり前。ついついプラスアルファの説明がしたくなります。所謂、差別化ですね。これがなかなか難しい。

それでも何回も訪れていると、不思議なもので、なんだかその場所が好きになりますし、魅力も感じます。例えば、国宝の鎌倉大仏。晴れた日には、「みなさん幸運ですね、この大仏さんは青空を背景に拝むのが、一番すばらしい。特に真正面からよりも斜めからの横顔。美男です。与謝野晶子が釈迦牟尼にこだわった理由がわかります」と、こんな説明をします。そしてこの大仏さん、500年以上も露座のまま。おそらく建物の中にいたら焼失していたでしょう。誰でも拝むことが出来るわけで、こんなに庶民的な仏さまは何処にもいません。明治のはじめ、鋳つぶされそうになった時に、助けたのも住民らの嘆願だと言われています。

このブログのタイトルは「思いは重い」というもの。この阿弥陀如来坐像を造った人の思い、700年以上の間にこの仏様を拝んできた人の思い、観光で訪れる国内外の人の思い。これらすべての思いは絶対に重いもの。だから、人を惹きつける人気スポットなのでしょう。

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鎌倉を知る ーー 円覚寺 三門に登る ーー

2017-06-19 05:40:15 | 日記

写真は6月18日の朝、円覚寺山門を写したもの。いつもの景色と何か違うと感じられた方は円覚寺通の方です。この日は午後4時から「観音懺法(せんぼう)」という儀式が楼上で行われることから、朝から風通しのために窓が開けられています。この滅多にない機会に三門に登らせていただきました。

三門には、十一面観音菩薩坐像と十六羅漢像、観音様をお守りする十二神将像、さらに韋駄天像一体が安置されています。十二神将像は室町時代、ほかの諸仏は江戸時代のものです。十一面観音像は坐像で定印を結んでいます。坐像であること定印を結んでいる作風はめずらしいですね。これまで拝観した十一面観音像はすべて立ち姿で衆生を救済する思いが感じられました。

これは冒頭に紹介した「観音懺法」の儀式と係ります。京都に足利義満が創建した相国寺があります。この「観音懺法」は相国寺でも行われています。懺法とは懺悔を修する法の意味で、「懺儀」ともいいます。「衆生みな仏である」という教えがありますが、その生まれながらに仏の心をもっているにもかかわらず、人は知らず知らずのうちに限りない罪を犯しているもの。それらの罪を悔いあらため、懺悔の力によって仏の心を取り戻そうとする儀式であります。

そして観音懺法は、「請観音経」に基づいてできたもので、正式には「請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼三昧儀」というらしいですが、仁恭石梁、円覚寺に住した清拙正澄や夢窓国師ら三人の共作です。これで十一面観音像と円覚寺、観音懺法が結びつきました。

十一面観音像に手を合わせ、「延命十句観音経」を読経し、懺悔の法を行うのですから、観音像は坐像である方が相応しいのではないでしょうか。

『観世音 南無仏 余仏有因 余仏有縁 仏法増縁 常楽我浄 朝念観世音 慕念観世音 念念従心起 念念不離心』

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鎌倉を知る ーー 長谷寺の紫陽花 ーー

2017-06-16 16:27:31 | 日記

この季節の鎌倉観光の定番スポットの一つ、長谷寺は連日大勢の人で賑わっています。日によっては2時間待ちも当たり前。紫陽花は山肌に植わっており、順路が一方通行で、ヒト一人が通れる程。途中で写真を撮る人がいればたちまち渋滞となり、国会ならぬ牛歩見物になります。待つ人はたまりませんが、見物客はゆっくり鑑賞出来るので、苦にならず結構楽しんでいる様子です。

少しでもゆっくりみたい方は、朝一番で長谷寺まで来て、昼過ぎに明月院に行くことをお勧めします。時間が経てば、江ノ電は混んできますし、長谷寺の紫陽花道の渋滞も酷くなる一方です。

さてこの長谷寺は紫陽花観光で有名ですが、ご本尊の十一面観音菩薩は高さ9.18mあり、国内でも最大級とされています。坂東三十三観音霊場の四番札所で右手に錫杖を持つ姿は、奈良の長谷寺と同じ様式。寺の縁起では、8世紀のはじめに徳道上人が一本の楠から二体の観音像を造り、一体は奈良の長谷寺に収め、もう一体は海に流し、それが10年以上の歳月をかけ、三浦海岸に流れ着いたとされています。ただし、今の奈良の長谷寺は舞台づくりの本堂は江戸時代、十一面観音像は1538年の制作で、この錫杖を持った観音像が全国各地に伝わったとされていますので、この長谷寺の観音様もそれ以降の制作かと推測されます。

私はこの長谷寺を訪れたら、観音ミュージアムを見学することをお勧めします。懸仏や梵鐘、板碑などが展示されていますが、これらはいずれも13世紀中頃に制作されたもので、なかでも梵鐘には「新長谷寺」の文字がはっきりと見えます。この時期、このあたりは極楽寺の忍性の管理下にあり、すぐ近くの桑ケ谷には忍性の造った療養所や阿弥陀様の大仏があります。では、新長谷寺の役割はなんだったのか、想像してみるのも良いですね。

 

 

 

 

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