人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

箱根湯本 早雲寺から正眼寺の旅

2017-07-30 20:35:14 | 日記

箱根湯本 早雲寺から正眼寺の旅

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きょうの旅 ーー 早雲寺から正眼寺 ーー

2017-07-30 19:11:47 | 日記

箱根湯本駅から歩いて15分位の所に小田原北条5代の菩提寺である早雲寺があります。行き方にはいろいろあるようですが、はじめての身としては町の観光案内の方に聞き、町役場の中を抜ける道を選びました。ちょっと林の山道を通るので、間違えたかなと思いましたが、安心してください。ちゃんと着きました。東海道歩きの人ならご存知かと思いますが、旧東海道沿いの臨済宗大徳寺派のお寺です。

先だって、大船の玉縄城祉のガイドで玉縄北条一族は勉強したばかり。やはり本家の小田原北条氏累代のお墓もお参りしたくて思い切って訪れました。寺の縁起によれば2代氏綱が建てたことになっており、伊勢宗瑞(北条早雲)から氏直まで後北条5代のお墓があります。豊臣秀吉の小田原攻めの時に焼失していますので、江戸時代に今のように整えられました。

この早雲寺から10分位歩くと正眼寺があります。早雲寺と同じく臨済宗大徳寺派のお寺で、境内には曽我兄弟の供養塔と曽我堂があり、なかには曽我兄弟の像があるとガイド本に書いてありました。それより、何より感激したのは、この正眼寺には足湯があることでした。源泉かけ流し。しばし足湯に浸かり、旅の疲れを癒しました。15分位まったりとした時間を過ごしましたが、なんだか足の疲れが回復したような気がしました。足湯のことを英語では”Footbath”と言うらしいです。「ふっとばすぞ」なんて言ってみて、上機嫌でお寺をあとにしました。

このあたりを弥坂と言うのですが、正眼寺から箱根湯本駅に行く途中に弥坂湯という公衆浴場があります。町の住民以外は一人650円。このお風呂は東海道歩きの途中に入ることにして今回は足湯で我慢しました。僅か1時間強の旅でしたが、なんだかんだと結構楽しめるものです。京都からは鳴海宿。日本橋からは戸塚宿で中断したままの東海道歩きを再開せねばと思った1日でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きょうの旅 ーー 二伝寺の井戸 ーー

2017-07-23 19:58:05 | 日記

玉縄城址の南西、藤沢市渡内に二伝寺があります。二伝寺砦があったところで、戦国期は鎌倉防衛の第一防衛線を形成していました。一番高い所で73m。山頂に立てば、遠く大山から箱根の山と富士山が望める見晴らしの良い場所です。この二伝寺は玉縄城の初代城主である北条氏時発願で福原忠重の援助で建てられました。住所が藤沢市なので、鎌倉市民にはなじみが薄いのですが、なかなか立派なお寺です。

この二伝寺も玉縄城とつながる多摩丘陵の南端に位置しています。地元の方の話によりますと、それは丹沢山系から流れる伏流水の水脈が地中にあり、玉縄城内では井戸を掘れば水が出たということでした。玉縄城が難攻不落な城であるためには、城内に飲料水があることが必須条件であり、なるほどと思った次第です。ふわん坂の下、相模陣屋のそばに玉ノ井という井戸があり、北条氏繁の奥方である七曲殿がお茶のための水を汲みに行ったという話も残っています。台地のヘリから水が湧き出ても不思議ではないと考えられます。

写真は二伝寺の本堂の裏にある井戸を写したもの。井戸の所の標高は60m位。確認はしていませんが、もし現在も使用できるのであれば、玉縄城でも水が確保できたはずです。伊勢宗瑞(北条早雲)がこのことを知っていて、玉縄城を修築し、関東支配の拠点にしたのであれば、この人は只者ではないですね。宗瑞があと100年遅く生まれていれば、歴史が変わっていたかもしれませんね。タラレバの話です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉を知る ーー 玉縄城 ーー

2017-07-22 20:47:42 | 日記

いま歴史書でベストセラーになっている中公新書の『応仁の乱』(呉座勇一著)を読みました。帯に「なんと35万部を突破!!」とあります。読んでみると内容が深く専門性の高い本です。歴史好きの人は多いにしても35万人という数字は凄いです。京都では先の戦乱と言えばこの応仁の乱(1467~1477)のことと言われていますが、個人的にはほとんど興味なくこの歳まで生きてきました。

さて前置きはともかく、7月のガイド先は大船にある玉縄城祉ですが、この城跡とかかわりある伊勢宗瑞(北条早雲)という人物は応仁の乱の戦乱を生き抜き、この後100年ほど続く後北条家の礎を築きました。調べてみるとなかなかの人物です。家柄も室町幕府8代将軍足利義政の側近だった伊勢貞親の一族であり、父親の盛定も申次衆の一人だったと言われています。一介の素浪人から成り上がったというより、近年ではこの説が有力になっています。

この玉縄城祉。以前から砦としてあったようですが、あの上杉謙信をして「当国無双の名城なり」と言わしめ、伊勢宗瑞にはじまり、氏時、為昌、綱成、氏繁、氏舜、氏勝の6代城主が支配した100年近く間に一度も落ちることの無かった難攻不落の名城です。今は城の本丸跡に学校があり、周りは住宅地でマンションも建ち想像するのは難しいですが、諏訪檀とか太鼓櫓、七曲坂などがあった場所で往時の偲ぶことが出来ます。

応仁の乱が終わり、世の中は新秩序を求め、混沌とした時代となります。諸大名が覇を競う戦国時代となり、徳川家康が幕府を築くまでの130年間に鎌倉幕府から続いた中世の旧秩序が徹底的に破壊されました。その間、100年近くも続いた後北条家の基礎をつくった伊勢宗瑞の先見性とその手腕の一部を玉縄城にみることができます。

写真は七曲坂下から玉縄城址の諏訪檀を写したもの。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きょうの話 ーー ”それでどうした” ーー

2017-07-15 08:40:03 | 日記

先日、定期的に送られてくるある広報誌をみてましたら、著名な作編曲家の方のインタビュー記事が掲載されていました。なにげなく目を通していますと、その方の座右の銘として「それでどうした」という言葉が紹介されていました。良いことがあっても、挫折するような酷い目にあっても、世の中にはもっとすごいことがいっぱいある。それで素直に「それでどうした」と思い直し、慢心しないように心がけているとのことです。素人考えでは「それがどうした」でも良さそうですが、「が」では投げやりなるので、「で」でなくてはダメと書いてありました。

「それdeどうした」「それgaどうした」の言葉の比較。なにか禅問答をしているようですが、何度も複誦していると、「それがどうした」という言葉は、投げやりで行動のあとの反省・自省がないような気がしてきました。「それでどうした」なら、自分より上の優れた人と比較して自分のあり方を位置づけているのですから、慢心する気持ちが抑えられるのでしょう。やはり80歳過ぎまで一線で活躍できる人の言葉は奥が深いです。

この広報誌はどこかの国のリーダーの手元にも届けられている筈です。東日本大震災の大混乱から世界の人が羨むまで国を立ち直らせた実績があるのですから、先輩の言葉を素直に受け止め、しっかりとリーダーシップを発揮していただきたいものです。

写真は京都の仁和寺金堂の仙人像。金堂の屋根から下界を見下ろしています。この仙人さま「それでどうした」と言っているような姿に見えてきました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする