2月になって湘南モノレール湘南江の島駅からJR藤沢までのガイドをしました。梅の見頃な常立寺を拝観し、江の島道を歩くコースです。見出し写真は湘南江の島駅5階の展望デッキから富士山を写したものです。中世の東海道は富士山と明神ヶ岳の間にある足柄峠を抜けて相模国を横断し鎌倉に向かいました。丁度この辺りが片瀬という地名で、昔は固瀬と書いたようです。藤沢市内の寺社や史跡は守備範囲外で江の島、遊行寺くらいしか馴染みがなかったのですが、今回調べてみて新たな視点で鎌倉を見直すことができました。その中で今回は「固瀬(片瀬)」をフォーカスして紹介させていただきます。
固瀬(片瀬)の字句は筆者が気付いた範囲ですが、『吾妻鏡』に数か所でてきます。最初は、文治元年(1185)八月三十日の条。
・・・。(後白河)法皇また勲功を叡感したまふの余りに、去る十二日、刑官に仰せて、東の獄門の辺りおいて故義朝の首を尋ねだされ、正清の首を相副へ、江判官公朝を勅使としてこれを下さる。今日公朝下着す。よって二品(源頼朝)迎へたてまつらしめんがために、固瀬河の辺りに参向したまふ。
次は、四代将軍である藤原頼経の頃。執権は北条泰時です。貞応三年(1224)六月六日の条。ここに書かれている「霊所七瀬の御祓」というのは、中国の占星術や陰陽五行説など道教の影響を受けた北斗七星の信仰に基づくもので、公家である九条家出身の将軍の発案かと思われます。
炎旱旬に渉る。よって今日祈雨のために、霊所に七瀬の御祓を行はる。由比の浜には国道朝臣、金洗沢池には友輔朝臣、固瀬河には親職、六連には忠業、鼬川には泰貞、杜戸には有道、江島の龍穴には信賢。この御祓は、関東に今度始めなり。
後嵯峨上皇の皇子で鎌倉幕府六代将軍となられる宗尊親王が鎌倉に下向した時の条。
建長四年(1252)四月大一日の条で、天晴れ風静かなり、寅の一點、(宗尊)親王関本の宿より御出。未の一尅、固瀬の宿の著御。お迎への人々、この所に参会す。小時あって行列を立つ。
また『承久記』には、(義時追討の)院宣の御使には、推松(『吾妻鏡』では押松丸)とて究めて足早き者有ける、・・・承久三年(1221)五月十五日の酉刻に都を出て、劣らじ負けじと下りける程に同十九日の午刻に、鎌倉近う片瀬と云所に走付たり。 と書かれています。
以上、縷々書き連ねましたが、固瀬河(片瀬川)という場所は古くから鎌倉の西の玄関口として知られていたと考えられます。その場所がどこかは特定できませんが、賑やかや集落があり、館らしきものがあったのではないでしょうか。その場所はどこか?筆者はお寺の由緒からみると、本蓮寺あたりではないかと推察しています。
それともう一つ。『吾妻鏡』の建長六年(1254)四月小十八日の条に、聖福寺の鎮守の神殿を上棟すると書かれていて、その条の最後に「相模国大庭御厨の内にその地を卜せらるるところなり」とあります。聖福寺旧跡は稲村ケ崎5丁目の聖福寺公園にこの場所にあったという石碑が建っていますが、稲村ケ崎、七里ヶ浜東の住宅地あたりまで大庭御厨の支配地だったということでしょうか・・・??