人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

最近読んだ本 --『兜率天の巡礼』ーー

2025-01-05 16:56:44 | 日記

『兜率天の巡礼』は、文春文庫の『ペルシャの幻術師』(司馬遼太郎著)に納められている中扁で昭和32年(1957年)12月の「近代説話」で発表されました。何と68年前の作品ですが、司馬遼太郎ファンを自認する筆者がはじめて読む小説。年末に読んだ『アマテラスの暗号 上下』(伊勢谷武著)、そして『隠された聖徳太子』(オリオン・クラウタウ著)に続く、キリスト教(景教)やユダヤ人渡来説に関する3冊目の作品です。これが偽史か正史かの判断は専門家に委ねるとして、文中に展開する諸説、渡来説を証明する数々の史跡の紹介を読んでみますと、史実かなと思いはじめているから不思議です。

その『兜率天の巡礼』の主人公である閼伽道竜は、『隠された聖徳太子』にも登場する、キリスト教渡来説を発表した元京都大学法学部の教授であった池田栄(1901-1989)をモデルとしており、中篇ですが、司馬遼太郎らしく、中国で発見された大秦景教流行碑、英国のエリザベス・A・ゴルドン(1851-1925)の説、兵庫県にある大避神社、京都市太秦にある大酒神社や木島神社などを調べ上げ、渡来人の秦氏とキリスト教(景教)との関係を軸に物語が展開しています。仮に秦氏がユダヤ人であったとしても、800年、1000年もたてば現代人すべての先祖となってもおかしくないと語り、また渡来説を証明するはずだった京都のお寺にある壁画が、主人公である閼伽道竜とともに焼失してしまうという結末となっています。

聖徳太子の後ろ盾になり、広隆寺や伏見稲荷大社などを創建したと言われる秦氏一族がキリスト教(景教)徒であったかどうかという説は、ずいぶん前からありますが、司馬遼太郎が『兜率天の巡礼』を発表してからも70年たち、いまさら持ち出すのはお恥ずかしい限りです。ただ秦氏が渡来人であったことは明らかであり、間違いなく古代日本に先進的な文明をもたらしました。絹織物、製鉄、鉱山、土木など先端的な技術を身につけていることから、中国や朝鮮半島というより、遠くギリシャやローマ帝国から渡来した可能性は否定できず、これまで疑問に感じたことで解決できることも少なからずあります。

巻頭写真は鶴岡八幡宮の平家池で写したもの。逆さにしてみたら、どちらが正か偽か分かりません。歴史上諸説あるものも、頭から否定するのではなく、一度見直してみる大切さを学んだ年末年始のひとときでした。

 

 

 

 

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鎌倉を知る --葛原岡神社から望む富士--

2025-01-05 14:50:05 | 日記

令和7年1月1日。今年の初詣は源氏山にある葛原岡神社に行きました。自宅から鎌倉山を越え、梶原の山の上ロータリーから山崎・台峯緑地管理事務所を過ぎ、源氏山公園に至る行程です。歩いた時間は1時間強。いつも初詣は鶴岡八幡宮でしたが、混雑を嫌い、静かな参拝を選びました。社殿のまえでは神主さんにお祓いしていただき、心静かにお参りできました。さらに「霊峰富士山展望台」の案内に誘われるまま社殿脇の道を上りますと、そこから藤沢市街のむこうに富士山が見える絶景が広がっています。これまで葛原岡神社には何度もきていますが、ここから富士山を拝めたのは初めて。どうも山頂の真下に建物が建つらしく、それに反対する市民の方が積極的に開放したようです。

この葛原岡神社は日野俊基公を祀った神社で明治20年(1887年)の創建です。日野俊基公は1332年にこの葛原岡の地で処刑され、辞世の句と辞世の詩を遺しています。

 秋をまたで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらむ

 古来一句 無死無生 万里雲尽 長江水清

最後に富士を望み、そのはるか遠くの京都を偲び、辞世の句・詩を詠んだものと思われます。

その展望を遮るような無粋な建物が建てられるとは?俊基公も悲しむと思いますね。残念です。 

 

 

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最近読んだ本 『隠された聖徳太子』ほか

2024-12-30 14:07:36 | 日記

『隠された聖徳太子』(ちくま新書)はオリオン・クラウタウという東北大学教授が書いた本です。想像するに梅原 猛氏の『隠された十字架ー法隆寺論ー』を意識してつけたタイトルかと思います。『隠された十字架』(昭和47年発行)は50年以上前に発行され、聖徳太子を扱った異質な内容から当時かなりの話題となりました。その切り口が斬新なので、すっかり梅原ファンになり、『神々の流竄』など何冊も読んだ懐かしい記憶がよみがえりました。

さて『隠された聖徳太子』は、オカルト文化の視点から聖徳太子を捉えたものですが、その内容には詳しく触れませんが、興味ある方は一度チャレンジしてください。筆者がこの本を読んで興味を持った箇所は、渡来人である秦氏が聖徳太子のために創建したと伝わる京都にある広隆寺について書かれたところです。広隆寺は国宝の弥勒菩薩半跏思惟像があることで有名で秦氏の住んでいた太秦にあるお寺です。たぶん皆さんも一度は訪ねたことがあると思います。そして広隆寺のそばの大酒(避)神社の名前の由来がネストル派キリスト教(景教)の「ダビテの礼拝所」であり、木島(このしま)神社にある三角鳥居はキリスト教の三位一体を示していること、大秦は古代中国ではローマ帝国の呼称、唐代の景教の教会を大秦寺といったことなどの諸説が紹介されています。

また別にインターネットで検索すると、この大酒神社の祭神は秦始皇帝、弓月王、秦酒公。弓月王のいた弓月国は、中央アジアのカザフスタンと中国の国境付近にあった国で、起源70年に滅亡したイスラエルの人々の一部や、BC722年に滅んだ北イスラエルの人々の一部がつくった国と言われています。また弓月君は応神天皇の時代に百済から渡来したと日本書紀に書かれています。さらに秦氏が創建した伏見稲荷大社は、もともと伊奈利(いなり)と書き、ラテン語の「INRI」??。『ユダヤ人の王、ナザレのイエス』(イエス・キリストの磔刑の時の罪状)ではなかったかという説を語る人もいます。ここまでくると妄想でしょうが、興味深い説ではあります。

もう一冊は『アマテラスの暗号 上・下』(伊勢谷 武著 宝島文庫)です。この本も切り口は違いますが、古代にユダヤ人が渡来したという説で物語が展開しています。著者はゴールドマンサックスに勤務したことのある方なので、「この小説における神名、神社、祭祀、宝物、文献、伝承、遺物、遺跡に関する記述は、すべて事実にもとづいている」と書かれ、歴史や旧跡などのガイドブックとしても面白く読ませていただきました。

ここからは筆者の妄想ですが、聖徳太子の思想が景教(キリスト教の一派で一神教)の影響を受けているとすれば、聖徳太子から信仰の啓示を受けた親鸞聖人の浄土真宗の「一心に南無阿弥陀仏の名号を唱えれば往生できる」という教えは、多分にキリスト教などの一神教的であり、なるほどと思いました。

巻頭写真の雲は、空に浮ぶ「スノーマン」に見えませんか?なにごとも信ずるものは救われます。

 

 

 

 

 

 

 

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鎌倉を知る --何を「いまさら」の石碑の話--

2024-10-18 18:46:14 | 日記

ここ数日、自分のブログのアクセス解析で最近6時間のアクセス数の表示でません。これまでこんなことなかったので故障したのかと、画面を確認しますと60日間ブログの投稿をサボると出なくなると書いてありました。前回投稿したブログの日付は7月26日なので、もう2カ月も経ったのか?・・・。いつまでも暑い日が続いているせいでしょうか、季節の変化を感じなくなった我が身にがく然としました。

さて前置きはともかく、ブログを再開するにあたって、テーマを何するか迷いました。それで訳の分からいないタイトルになった次第です。写真は「染屋太郎太夫時忠邸阯」と書かれた、おなじみの鎌倉町青年団の石碑です。江ノ電由比ガ浜駅から文学館入口信号の手前の民家のところにあります。何度も通っている道ですが、お恥ずかしながら気づきませんでした。石碑の内容は次の通り。

染屋太郎時忠は藤原鎌足の玄孫(やしゃご、ひまごの子)に当たり南都東大寺良弁僧正の父にして文武天皇の御宇(皇紀1357-1362)より聖武天皇の神亀年中(皇紀1384-1388)に至る間鎌倉に居住し東八か国の総追捕使となり東夷を鎮め一に由井長者の称ありと伝えらるるも其の事跡詳ならず。此処の南方に長者久保の遺名あるは彼の邸阯と唱えらる。尚甘縄神明宮の別当甘縄院は時忠の開基なりしと云う

この文章の出典は『鎌倉事典』(白井永二編)によると、『詞林采葉抄』の注にあると書いてありました。また『鎌倉事典』には、鎌倉の始祖的人物。『大山寺縁起』に開基良弁は鎌倉由比郷の人、俗姓漆部氏、当国良将染屋太郎時忠の子とあるのが初見。とも書かれています。

いずれにしても確かな資料のない伝承の話でしょうが、「火のないところに煙は立たず」の譬えもありますので、妄想癖のある筆者としては見逃せない記述ではあります。鎌倉と藤原鎌足の関係については、浄妙寺そばの鎌足稲荷。杉本観音(以前は大倉観音)の開基は光明皇后(鎌足の孫)であること。光明皇后の生きた時代と染屋太郎時忠の時代は重なること。染屋時忠の子が鷲にさらわれ、それを供養するために鎌倉の七か所に塔の辻などの供養塔を建てたという伝承。光明皇后は鎌足ゆかりの鎌倉が乱れているのを憂い、大倉観音堂を創建したという杉本寺の縁起。甘縄神明宮の祭神は天照大御神であるということ。これらの点をつなぎ合わせると、藤原鎌足と鎌倉、鎌足の孫の光明皇后、玄孫と言われる染屋時忠、甘縄神明宮、行基菩薩が開いた杉本寺が結びつき、奈良時代に遡った鎌倉時代以前の鎌倉が見えてくるかもしれません。

 

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鎌倉を知る --神護寺展を拝観する--

2024-07-26 10:31:10 | 日記

神護寺展は、神護寺の創建1200年記念 特別展として東京国立博物館 平成館で2024年7月17日~9月8日までの会期で行われています。国宝の薬師如来立像、五大虚空蔵菩薩坐像、伝源頼朝像などや重要文化財の展示物は数知れず、たぶん生きている間は二度と見ることはできないと思い、鎌倉から出かけました。特に国宝の伝源頼朝像は昨年開催された「特別展 やまと絵」にも出展されましたが、出かけた時は既に展示期間が終了しており悔しい思いをしました。絵画は長く展示すると劣化しやすいので展示期間が短く、せっかく行ったのに見損なうということがあります。今回の神護寺展での伝源頼朝像の展示期間は、前期の7月17日(水)~8月12日(月・休)。また国宝の山水屏風や重要文化財の文覚上人像などは後期の8月14日(水)~9月8日(日)までになっています。

この伝源頼朝像は、源頼朝を描いたものではないという説もあり、大変興味深い展示物ですが、実物は等身大の姿を描いたものであり、教科書の写真を見てあれこれ考えるより、本物を見ることをお薦めします。同時に江戸時代に冷泉為恭が描いた模写が展示されていましたが、冷泉為恭は源頼朝像だからわざわざ模写したのだと思いたいですね。私は神護寺の見解と同じでこれは源頼朝を描いたものだと考えています。

そして今回の最高の展示物は、国宝の薬師如来坐像です。この仏様は2年前の8月に神護寺を訪れたときに拝観しました。朝早かったのでお薬師様がいらっしゃる金堂には私一人しかおらず、お寺さんの好意で仏様を目の前で見ることができたました。ただ広い金堂の高いところにいらっしゃったせいか、お顔の様子まではあまり覚えていません。今回の特別展では真近で拝観できました。像高は169.4センチメートルでカヤの一材から彫りだされたものです。図録の解説には、「日本彫刻のなかでも異彩を放つ存在である。眼差しは厳しく、拝する者の心を見透かすようである。頬は引き締まり、山形の唇に強い意志を感じる。面部や胸部の肉身には細かな鑿跡が残り、その粗さが像の威力を増しているように思える。」と書かれています。実際に拝観した印象もその通りで、素晴らしいお薬師様を拝ませていただきました。このブログを読まれた方は是非拝観されることをお薦めします。

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