人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 材木座からの富士山 ーー

2017-01-28 14:09:21 | 日記

ここのところ、このブログでは富士山シリーズが続いています。冬になると天気の良い日には、鎌倉のまちではそれなりに富士山が拝めます。先日のブログ、安国論寺からみた富士山は新しい発見でした。たぶん既知の内容でしょうが、日蓮が拝んだ富士山。その向こう、彼岸の方向に身延山があったとは。毎日富士山をみていた日蓮は絶対に日没時の「ダイアモンド富士」もみたはずです。富士山頂に沈む夕日。それこそ西方浄土の世界と思ったことでしょう。安国論寺からのダイアモンド富士。一度この目で見たいものです。

さて写真は材木座からみた富士山。鎌倉時代の港湾である和賀江嶋は目の前。中国の宋や南宋からの貿易船がこの港湾を利用したと思います。かれら中国の人たちも、この同じ富士山を見たのでしょう。中国には火山はなく、このような円錐形の裾野の広い山はありません。どんな気持ちでみたのか知りたいものです。

後で調べてみました。鎌倉で「ダイアモンド富士」が見えるのは年2回。浄妙寺緑地からは、4月1~2日と9月10~11日。稲村ケ崎からは、4月4~5日と9月7~8日(関東地方整備局HPより)。ということは、安国論寺の位置は浄妙寺と稲村ケ崎の間になりますので、4月2~3日位かなと推測しました。ただ4月は霞みたなびく時期、よほど空気が澄んでいないと見えないと思います。さて日蓮がいた頃はどうだったでしょうか・・・?

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鎌倉を知る ーー 天照山から見る富士山 ーー

2017-01-26 19:11:26 | 日記

天照山は材木座にある光明寺の山号です。光明寺の東側、鎌倉市立第一中学校の前の展望台からみた景色は神奈川景勝50選に選ばれています。すぐ下に光明寺の屋根、その先に材木座海岸、さらには稲村ケ崎から続く鎌倉西部の山稜の景色。天気がよければ富士山も望めます。

この光明寺は、寛元元年(1243)に第四代執権の北条経時を開基として、浄土宗第三租然阿良忠(記主禅師)開山のお寺です。江戸時代には関東十八檀林の筆頭寺院として栄えました。今も山門から本堂をみれば往時の姿がしのばれます。

さてここからは推測の域をでないのでご容赦願いたいのですが、この展望台の付近に極楽寺の支院である万(満)福寺があったと『中世都市鎌倉の風景』(松尾剛次著)に書かれれています。また『鎌倉廃寺辞典』にも和賀江の万福寺の記述があります。写真は稲村ケ崎の横に見える富士山を写したものですが、その横にあるのが霊仙山の山頂(83m)です。そのすぐ下が仏法寺跡。万福寺からは真正面になります。ご存じの通り、光明寺の近く和賀江嶋は極楽寺が管理していました。この万福寺から狼煙とか旗を揚げれば由比ヶ浜越しに仏法寺からも十分に見えます。たぶん和賀江嶋に入港した船を仏法寺に知らせていたのではないかと思われます。そして天照山の名前。夜に篝火を焚けば和賀江嶋の位置を教える灯台となります。これらことはなにも記録がありませんが、たぶんそうだろうと考えています。

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鎌倉を知る ーー 日蓮聖人も拝んだ富士山 ーー

2017-01-25 20:24:31 | 日記

鎌倉市大町に安国論寺があります。日蓮聖人は30歳くらいのころ、この地に庵を結び、鎌倉での布教活動の傍ら、文永元年(1260)に『立正安国論』を書き、時の執権北条時頼に建白しました。そして隣の妙法寺とともに「松葉ヶ谷の法難」の地として知られています。

写真は、日蓮聖人が毎日富士山に向って法華経を唱えたとされる富士見台から鎌倉市内を写したもの。左の端の稲村ケ崎から霊仙山、長谷山と続く鎌倉西部の山稜ごしに富士山が拝めます。

『立正安国論』の建白後、数度にわたり松葉ヶ谷焼打ちなどの法難にあった日蓮聖人はどのような想いで富士山を拝んだのでしょうか。その堂々とした変わらぬ姿をみて、釈尊に代って衆生を救えるのは、法華経とお題目で宣教する自分しかいないと強く思ったことでしょう。日蓮聖人が立っていた場所と同じところでみる富士山。やはり美しい山です。

そしてもう一つ。後日分かったことをお知らせします。日蓮聖人が最後に草庵を結んだ身延山久遠寺の位置を地図で確認してみました。鎌倉と富士山を結ぶと、その先の身延山(1153m)と七面山(1989m)付近につながりました。その七面山の山頂の一部は身延町の飛び地になっており、敬憤寺というお寺もあります。日蓮聖人が30歳のころ毎日みていた富士山。その先にある身延山。日蓮聖人は自分の終焉の地を身延山に決めていたとしたら・・・。もし事実なら、正確な地図も測量技術もない時代に。これは驚きですね。

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鎌倉を知る ーー 霊仙山からの眺望 ーー

2017-01-17 17:18:24 | 日記

鎌倉の極楽寺1丁目の山を霊仙山といいます。標高は83mで東側は切り立った崖になっています。この山頂付近は、1923年の関東大震災までは公園になっており、細菌学の北里柴三郎博士がロベルト・コッホをこの地に案内したと書かれた記念碑(現在は稲村ケ崎の海浜公園にある)も残されています。山道が険しく、誰でも行けるわけではありませんが、先日、幸運にもこの地を訪ねることができました。

今は高い木立に覆われ、山頂からの眺望は楽しめませんが、ちょっと南に下ったところに仏法寺跡の平場があり、そこからは鎌倉市内、三浦半島の観音崎まで見渡せます。写真は鎌倉市内を写したものですが、由比ヶ浜から材木座海岸、鎌倉市内の中心部の主要な建物が確認できます。

鎌倉時代には、山頂付近にある五合桝遺跡は重要な戦略拠点であり、新田義貞の鎌倉攻めの時には激しい攻防戦が行われたと思われます。またこの地にあった仏法寺は極楽寺の支院であり、忍性が雨乞いを行ったとか、東南にある和賀江嶋に入出港する船の監視をしていたとかいわれてますが、その場に立ってみますと、なるほどと肯けます。鎌倉市内には東側のハイキングコースから西側の眺望を楽しむ場所はいくつかありますが、東側を展望する場所は少なく、貴重な体験ができました。

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鎌倉を知る ーー 虚空蔵堂 ーー

2017-01-16 16:03:48 | 日記

1月13日(金)。極楽寺坂にある虚空蔵堂の「護摩焚き供養」に出かけました。正月、5月、9月の13日にはお堂のなかの虚空蔵菩薩が開帳され、11時と14時の2回、僧侶が護摩を焚き、供養が行われます。虚空蔵菩薩は丑年と寅年生まれ守り本尊とされ、堂内には熱心な信者さんが大勢供養に訪れていました。

本尊の虚空蔵菩薩は源頼朝が崇敬し、35年に一度だけ開扉を許したといわれる秘仏ですが、現在は年に3日だけは拝むことができます。その場にいらした虚空蔵堂護持会の方に伺うと、ご供養の間は写真撮影はNGですが、それ以外はいいですよと言われカメラを向けたのですが、残念ながらSDカードを入れ忘れ堂内の様子は写せませんでした。こんなことは滅多にないのですが、後で考えてみますと、写さなくてよかったかなと思っています。

やはり仏様は拝むものであって、趣味の世界を持ち込み写真を写すことはいけませんね。信者さんの気持ちになれば、とんでもないことだと改めて思いました。

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