伏見稲荷大社の季刊誌『大伊奈利』を読んでいて、また興味深い記事に出遭いました。タイトルは「伏見稲荷大社の明治維新」。京都市歴史資料館の秋元せき氏の講演記録です。
鎌倉の歴史を調べていますと、明治維新に起きた”廃仏毀釈”という出来事がどれだけ日本の文化的財産を破壊したか、事例に出会うたびに腹立たしく思っていました。この廃仏毀釈が行われたことが明治時代が好きになれない理由の一つでもあります。とは言っても、神仏習合していた神社から仏教施設が廃絶されるスピードが速すぎることを疑問に感じたのも事実です。日本の近代化を進める明治政府にとって神仏分離策よりも大切な諸課題が多くあり、政府が自ら実行するには手が回らなかったと思うからです。では誰が推進したのか?その答えになりそうなのが本講演記録です。
明治維新で伏見稲荷大社で何が起きたのか?もともと伏見稲荷大社には愛染寺というお寺のほかに2寺院があり、なかでも愛染寺は江戸時代中期より本願所として社家よりも大きな力を持っていました。愛染寺と社家の対立は徳川幕府の庇護を受けた元禄時代からで、出開帳などの興行に積極的な愛染寺のすることに社家は面白く思っていなかったようです。その思いは江戸幕府が滅亡するまで続き、明治元年3月に神仏混淆が禁止されると一気に爆発したのではないかと思われます。実際に明治元年4月10日には、行き過ぎた神仏分離を危惧した明治政府から太政官達が出されており、稲荷社には10日後の4月20日に届いていました。しかしながら社家はその警告を無視して愛染寺取り潰しを推し進めました。神仏混淆禁止のお墨付きをもらい、千載一遇のチャンスとばかりに社家とお寺の立場を逆転させたのでしょう。建物や仏像などの文化的価値など考える余裕などなかった時代だからやむを得ないと思いますが、それにしても残念な出来事でした。