人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

東海道中膝車 ーー 鳴海(江戸時代) ーー

2016-02-14 17:12:12 | 旅行

江戸時代の東海道はそれ以前の鎌倉街道とは異なり、鳴海丘陵と言われる高台を通らず、その下部に宿場が形成されたようです。当時は海岸線が後退し、陸地となった干潟に新田が開発されました。司馬遼太郎の『濃尾参州記』に松尾芭蕉が1688年(貞亨五年)に詠んだ句が紹介されています。

はつ秋や海も青田の一みどり (千鳥掛)

私が小学生低学年のころの鳴海はまだ山にも田圃にも緑がいっぱいあり、自宅の屋根に上ってはあお緑の海のような田圃の景色を飽きず眺めていたものでした。この風景が急速に失われていったのは、たぶん昭和34年9月の伊勢湾台風の後ではなかったかと思います。名古屋市南部はこの台風による高潮で多くの犠牲者を出しました。私は小学1年生でしたが凄まじい風をいまだに記憶しています。その後丘陵地帯の鳴海に企業の社宅などが盛んに建設されたわけですが、子供ながらに裸になっていく山をみては残念な思いをしたものです。

さて写真は鳴海の本陣をつとめた千代倉家代々の墓や芭蕉の供養塔がある誓願寺を写したものです。鳴海で詠まれた芭蕉の句をもう二つ。

星崎の闇を見よとや鳴く千鳥 (笈の小文)

京まではまだ半空(なかぞら)や雪の雲 (蕉翁句集)

 

 

 

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東海道中膝車 ーー 鳴海(戦国時代) ーー

2016-02-14 13:02:48 | 旅行

今、司馬遼太郎の街道を行くシリーズ43巻『濃尾参州記』を手元に置いてこのブログを作成しています。作者がこの取材のため鳴海を訪れたのは1995年10月20日。そしてその翌年の2月12日に亡くなってしまいました。たぶんもっと長生きしていれば、この『濃尾参州記』に書きたいことはいっぱいあったと思います。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の天下の三英傑を世に送り出したところですから、少し残念ではありました。ただ私が東海道歩きで久しぶりに鳴海を訪れたのが、この取材旅行から20年経った2015年10月18日と19日。また鳴海についてブログに書き始めたのが命日である2月12日であり、何か特別な思いがしました。

『濃尾参州記』によれば、織田信長は熱田神宮で戦勝祈願をしたのち、鎌倉街道をひた走り古鳴海から鳴海に入り、善照寺砦で今川義元の動静を窺ったとあります。この善照寺砦は小学生のときの通学路にあり、毎朝ここに集まり近くの鳴海小学校まで集団登校していました。そして司馬遼太郎さんが桶狭間の合戦の地、田楽ケ窪を展望するために名古屋市立緑高校を訪れたことが書かれています。ここは緑高校ができる前には鳴海中学校があった場所で、私自身3年間山の上の中学校に通っていました。あの司馬遼太郎さんが見た景色と同じものを3年間見てたのかと思うと、歴史マニアではないのですが何か熱くなります。

写真は10月18日に行われた鳴海の祭りの様子です。生まれ育った場所を離れ40年以上になりますが、何故かこの町に戻ると気持ちが安らぎます。翌19日には宮から鳴海まで歩いたついでにソウルフード「浅野屋のうな丼」を食べて鎌倉に戻りました。

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東海道中膝車 ーー 鳴海(鎌倉時代以前) ーー

2016-02-13 15:55:02 | 旅行

写真は東海道の笠寺一里塚(日本橋から88里目)を写したものです。この先の天白川を渡れば鳴海宿ですが、江戸時代よりさらに遡り平安時代から鎌倉時代の様子を紹介させていただきます。何といってもこの鳴海は私が18の年まで生まれ育った故郷であり、少し寄り道することをお許しください。

この天白川の河口あたりはその昔は鳴海潟と呼ばれていました。和歌の歌枕になっており、数多くの歌が詠まれています。その中で子供のころの記憶にある歌の一つは、

遠くなりちかくなるみの浜千鳥 鳴音に潮のみちひきをぞ知る

 というもの。この鳴海潟は引き潮の時しか渡ることができず、東国に行ききする際の難所として有名でした。そのあたりのことは阿仏尼の『十六夜日記』にも書かれています。ご存じの通り、阿仏尼は藤原定家の子供であった藤原為家の側室。為家が死んだあと、実の子である為相とその兄の所領相続問題の解決のためわざわざ鎌倉まで下りました。『十六夜日記』はその時の旅の日記です。途中、熱田神宮に参拝し、無事に鳴海潟を渡れるよう祈願した歌を奉納しています。その中の歌から二首。

いのるぞよ我がおもふことなるみがた かたひくしほも神のまにまに

みつしほのさしてぞ来つるなるみがた 神やあはれとみるめたづねて

実際に鳴海潟に差し掛かった時は引き潮で障りなく干潟を渡ることができ、その時の濱千鳥が先に行く様子が道案内人のようだと表現し、そこで一首詠んでいます。

濱千鳥なきてぞさそふ世の中に あととめむとはおもはざりしも

鎌倉検定で勉強した『十六夜日記』をはじめて読みましたが、こんな形で自分の故郷が出ているとは、ちょっと感激しました。

 

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東海道中膝車 ーー 笠寺観音 ーー

2016-02-09 10:53:38 | 旅行

宮の七里の渡し跡から暫く歩けば街道は丘陵地帯に差し掛かります。このあたり名鉄電車の桜駅付近になりますが、古くは平安時代以前から東国への街道が通っており、万葉集巻一273に高市黒人が7世紀後半に詠んだ歌があります。街道の南側は今の伊勢湾の深淵部で干潟が広がっており、歌に詠まれるほどの景勝地だったと思われます。

桜田へ鶴(たづ)鳴きわたる年魚市(あゆち)潟潮ひにけらし鶴鳴きわたる

目を閉じれば、松林の向こうに青い海が広がり、鶴の群れが「クワッ、クワッ」と鳴きながら飛んでいる姿が想い浮かびます。

さてしばらく歩けば笠寺観音に着きます。この寺の縁起は、平安時代、とある娘(後の玉照姫)が雨に打たれている観音様に濡れてはかわいそうだということで自分の笠を被せたところ、東国にくだるため通りがかった藤原兼平に見初められたという話がもとになっています。今でも厄除けや縁結びにご利益のある観音様として信仰の対象となっているようです。時代は下って江戸時代の松尾芭蕉の俳句にも笠寺を詠んだものがあります。

笠寺やもらぬ窟(いはや)も春の雨   (千鳥掛  この寺の縁起を聞きて云々・・・)

この句の意味について解説したものが手元になかったため、自己流に解釈すれば、「雨の漏れることのない岩屋の中では、止みそうになく降り続く春の雨(=五月雨)であっても笠はいらないでしょうね」ということでしょうか。幸いこの日は天気もよく笠は必要ありませんでした。

その先天白川を渡れば鳴海宿です。江戸時代より前は源頼朝が整備した鎌倉街道がありました。天白川を渡った先で鎌倉街道は丘陵の上を通り、東海道は丘陵の下部を通り鳴海宿に入って行きます。

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