江戸時代の東海道はそれ以前の鎌倉街道とは異なり、鳴海丘陵と言われる高台を通らず、その下部に宿場が形成されたようです。当時は海岸線が後退し、陸地となった干潟に新田が開発されました。司馬遼太郎の『濃尾参州記』に松尾芭蕉が1688年(貞亨五年)に詠んだ句が紹介されています。
はつ秋や海も青田の一みどり (千鳥掛)
私が小学生低学年のころの鳴海はまだ山にも田圃にも緑がいっぱいあり、自宅の屋根に上ってはあお緑の海のような田圃の景色を飽きず眺めていたものでした。この風景が急速に失われていったのは、たぶん昭和34年9月の伊勢湾台風の後ではなかったかと思います。名古屋市南部はこの台風による高潮で多くの犠牲者を出しました。私は小学1年生でしたが凄まじい風をいまだに記憶しています。その後丘陵地帯の鳴海に企業の社宅などが盛んに建設されたわけですが、子供ながらに裸になっていく山をみては残念な思いをしたものです。
さて写真は鳴海の本陣をつとめた千代倉家代々の墓や芭蕉の供養塔がある誓願寺を写したものです。鳴海で詠まれた芭蕉の句をもう二つ。
星崎の闇を見よとや鳴く千鳥 (笈の小文)
京まではまだ半空(なかぞら)や雪の雲 (蕉翁句集)