鎌倉の扇が谷。薬王寺の隣。海蔵寺と亀ヶ谷坂の分かれ道に岩船地蔵はあります。海蔵寺が管理しているということですが、地蔵堂としては立派な建物で由緒を感じます。『かまくら子ども風土記』をみますと、この岩船地蔵の床下には、約130センチの舟形の光背をもつ石の地蔵があり、「岩船」の呼び名はここからついたようです。ここにまつられている地蔵は、2体の童子立像を従えた、高さ90センチほどのもので、源頼朝の娘である大姫の守り本尊と伝えられています。
大姫については、鎌倉に人質として連れてこられた源(木曽)義仲の嫡男 義高(1173~1184)と幼いながら許嫁の間柄。義高は12歳、大姫は6歳位だったと思われます。大姫は義高を兄のように慕っていたのでしょう。1184年に木曽義仲が敗死し、そのあと鎌倉を脱出した義高が追手に誅殺されると、大姫は憔悴のあまり寝込んでしまいました。義高の脱出を助けた大姫の母 北条政子はこの下手人を処刑したと書かれています。何もまだ子供である義高を殺す必要はないと思ったはずです。実際、義高の墓は常楽寺にあり、「常楽寺境内絵図 寛政三(1791)」をみますと確かに義高墓と記されています。その横に姫宮という社がありますが、たぶん大姫を祀った社でしょう。岩船地蔵の床下に収められている地蔵と常楽寺の姫宮の存在は偶然と言うより、何かの意図があってなされたと思えてなりません。
そしてもう一つ。源頼朝は奈良東大寺の再建に力を貸したりして、大姫入内のはたらきかけを積極的に行っていました。実際、建久六(1195)年の東大寺落慶法要には、妻政子や頼家、大姫を伴て上洛しています。建久七年の政変では藤原兼実を失脚させ、大姫の入内が決まりかけたはずでしたが、大姫は建久八(1197)年7月に亡くなってしまいました。まだ18歳くらいでしょうか。
海蔵寺縁起に書かれている源頼朝が切り通そうとして中止した海蔵寺裏の「寂外谷」。伝承では金剛功徳水とされる「十六井戸」の存在。そして白洲正子が書いた「化粧坂」のこと。ちょっと強引な推論ではありますが、大姫に結び付けてみると繋がりませんか。歴史はロマンです。面白いですね。