人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 岩船地蔵 ーー

2016-07-13 19:29:23 | 日記

鎌倉の扇が谷。薬王寺の隣。海蔵寺と亀ヶ谷坂の分かれ道に岩船地蔵はあります。海蔵寺が管理しているということですが、地蔵堂としては立派な建物で由緒を感じます。『かまくら子ども風土記』をみますと、この岩船地蔵の床下には、約130センチの舟形の光背をもつ石の地蔵があり、「岩船」の呼び名はここからついたようです。ここにまつられている地蔵は、2体の童子立像を従えた、高さ90センチほどのもので、源頼朝の娘である大姫の守り本尊と伝えられています。

大姫については、鎌倉に人質として連れてこられた源(木曽)義仲の嫡男 義高(1173~1184)と幼いながら許嫁の間柄。義高は12歳、大姫は6歳位だったと思われます。大姫は義高を兄のように慕っていたのでしょう。1184年に木曽義仲が敗死し、そのあと鎌倉を脱出した義高が追手に誅殺されると、大姫は憔悴のあまり寝込んでしまいました。義高の脱出を助けた大姫の母 北条政子はこの下手人を処刑したと書かれています。何もまだ子供である義高を殺す必要はないと思ったはずです。実際、義高の墓は常楽寺にあり、「常楽寺境内絵図 寛政三(1791)」をみますと確かに義高墓と記されています。その横に姫宮という社がありますが、たぶん大姫を祀った社でしょう。岩船地蔵の床下に収められている地蔵と常楽寺の姫宮の存在は偶然と言うより、何かの意図があってなされたと思えてなりません。

そしてもう一つ。源頼朝は奈良東大寺の再建に力を貸したりして、大姫入内のはたらきかけを積極的に行っていました。実際、建久六(1195)年の東大寺落慶法要には、妻政子や頼家、大姫を伴て上洛しています。建久七年の政変では藤原兼実を失脚させ、大姫の入内が決まりかけたはずでしたが、大姫は建久八(1197)年7月に亡くなってしまいました。まだ18歳くらいでしょうか。

海蔵寺縁起に書かれている源頼朝が切り通そうとして中止した海蔵寺裏の「寂外谷」。伝承では金剛功徳水とされる「十六井戸」の存在。そして白洲正子が書いた「化粧坂」のこと。ちょっと強引な推論ではありますが、大姫に結び付けてみると繋がりませんか。歴史はロマンです。面白いですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉を知る ーー杉本寺と十一面観音ーー

2016-07-09 19:24:37 | 日記

杉本寺の十一面観音像のことが知りたくて白洲正子の『十一面観音巡礼』を読み直してみました。そのなかの「こもりく 泊瀬」の項では、奈良の長谷寺にある十一面観音像が紹介されています。読んでいて驚いたのは、描かれている事物名称と鎌倉が似ていること。一つは長谷寺の初瀬川を挟んで向かいの山にある「与喜天満宮」のこと。そこの菅原道真の神像は「怒り天神」という忿怒等身の坐像。鎌倉の荏柄天神社にも「怒り天神」の名の木造の天神坐像があります。その位置は二階堂川を挟んで向かい合わせ。また与喜天満宮の山には「化粧坂」という峠があり、これが初瀬から伊勢に抜ける一番古い街道であったとのこと。この「化粧」の意味は、斎宮である姫が化粧をして神に変身することではないかと作者は推測しています。遊女の化粧よりそれらしく、これかなと思った次第です。そして「天照大神と、十一面観音を、同体とみなす本地垂迹説にふれ、十一面観音が、天照大神の「御杖」となって、諸国を遍歴する斎宮の姿と重なったと思われる」とも書いています。

そしてもう一つ、「坂東三十三観音」に触れなければなりません。公式サイトによると、その歴史は、「源平の戦いの後、敵味方を問わない供養や永い平和への祈願が盛んになり、源頼朝の篤い観音信仰と、多くの武者が西国で見聞した西国三十三観音霊場のへの想いなどが結びつき、鎌倉時代の初期に坂東三十三観音霊場が開設された」とあります。そして杉本寺(杉本観音)は第一番の札所になりました。西国三十三観音の第一番札所は和歌山県那智勝浦にある「青岸渡寺」。これは熊野詣が信仰の対象となっていた時代ですから当然でしょう。実際我が国最古の十一面観音はこの那智で発掘されています。坂東三十三観音の第二番札所は逗子の「岩殿寺(岩殿観音)」ですが、海に近いということと、巡礼の順序からすれば、岩殿寺が一番であってもよさそうですが、何か事情があったのでしょうね?そしてこのお寺の詠歌がいいですね。「たちよりて 天の岩戸をおし開き 仏をたのむ 身こそたのしき」 天照大神と神仏習合の歌です。

こうして見てくると、「坂東三十三観音霊場巡礼道」を開設するということは源頼朝にとって非常に大きな意味があったことだったと思います。巡礼道とはそこを通行する人の安全を保障することですから、頼朝の関東支配が完結した証左だったのでしょう。頼朝が杉本寺に十一面観音を寄進したのも分かるような気がしました。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉を知る ーー 司馬遼太郎の三浦半島記 ーー

2016-07-01 13:56:52 | 日記

つい先だって私のブログを見たという人から、「司馬遼太郎の街道をゆくシリーズ第42巻『三浦半島記』のなかに『問わずがたり』を引用している個所があり、司馬先生は作者である二条は極楽寺切通しと化粧坂を取り違えたのではないかと書いてますよ」と聞かされました。司馬先生は大好きな作家の一人であり、以前このブログで『濃尾参州記』のなかに私の卒業した中学校を訪問し、桶狭間の合戦のことを書いているのを読み、私が感激した話を載せました(東海道中膝車ーー鳴海(戦国時代)--)。その司馬先生と化粧坂について、結論は違いましたが、同じ視点で切り込んだと思うと何か嬉しくなりました。ただ常識的に考えれば司馬先生が書いている通り、二条が通ったのは極楽寺切通しでしょう。とは言っても、まだちょっと引っかかるものがあります。もう少し調べてみたいですね。

もう一つ、司馬先生は最後にこう記しています。「ついでながら、『とはずがたり』が発見されたのは、宮内省図書寮(いまの宮内庁書陵部)で、発見者は山岸徳平(1893-1987)であった。わが二条も、その鎌倉見聞記も五百年以上ねむっていたことになる」と。もしそうだとすれば、徳川家康が金沢文庫から持ち出した蔵書のなかに、この『とはずがたり』も入っていた可能性があります。あくまでも推測ですが。

専門家でない素人が歴史を学ぶ楽しみは、まず「ほんとうにそうなのか」と専門家が書いた諸説を疑ってかかり、自分なりにフィールドワークしてファクトファインディングすることだと考えています。推理して結論を導く。それが歴史を学ぶ醍醐味かと思います。

写真は当時の極楽寺切通しと同じ高さにある極楽寺の成就院から見た景色。右側が由比ヶ浜海岸。鎌倉の絶景ポイントの一つです。どう見ても袋のなかの重々とした住まいの景色には見えません。いかがでしょうか?

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする