人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

熊野詣 PART11③ --終章 七里御浜--

2024-06-23 21:04:13 | 旅行

ゴールデンウイーク前に二泊三日の旅程で出かけた熊野三山参詣の旅のブログもいよいよ終章となります。平安時代末の熊野御幸も2カ月位かけていますが、このブログ熊野詣シリーズも、見どころがたくさんあり過ぎて2カ月近くかけ、ようやく完結させることができました。

最後の巻頭写真は七里御浜(しちりみはま)の景色。天気がよければもっといい写真が撮れたと思いますが、どんより沈んだ浜の風景も趣があっていいものです。七里御浜は伊勢路ルートにあり、長い浜は新宮近くまで続いています。

今回のツアーでは語り部さんのガイドで熊野古道の一部を歩くことができましたが、マイカーなどで行く個人旅行では、多分見過ごしてしまうポイントもしっかりと案内していただきました。熊野三山のある紀伊山地は自然豊かで、熊野古道も全部ではないにしても、よく保存されています。そして何よりも神話の世界が目の前に広がっていることです。二泊三日の短い期間でしたが、大いに好奇心が満たされ、心の安らぎを得ることがきた満足度の高いツアーでした。熊野三山への巡礼の旅、まだ未体験の方は是非チャレンジしてください。書物や写真などでは得られない感動を間違いなく得ることができます。

 

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熊野詣 PART11② --花の窟神社--

2024-06-23 19:37:57 | 旅行

『全現代語訳 日本書紀』(宇治谷 孟 講談社学術文庫)の神代上を見ますと、一書(第五)にこういっている。伊弉冉尊が火の神を生むときに、からだを焼かれてお亡くなりになった。それで紀伊国の熊野の有馬村に葬った。土地の人がこの神をお祭りするには、花のときには花をもってお祭りし、鼓・笛・旗をもって歌舞してお祭りする。と記されています。

まさか神話の世界が目の前にあるとは思いもよりませんでした。花の窟神社は神話の世界の舞台です。ご由緒の読んでみましょう。

花の窟は、神々の母である伊弉冉尊(イザナミノミコト)が火の神・火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)を産み、焼かれて亡くなった後に葬られた御陵です。 平成16年7月に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界遺産に登録されました。 花窟神社(花の窟神社)は日本書記にも記されている日本最古の神社といわれており、古来からの聖地として今に続く信仰はあつく、全国から多くの参拝者がお越しになります。花の窟では毎年2月2日と10月2日に例大祭を行います。神々に舞を奉納し、日本一長いともいわれている約170メートルの大綱を、ご神体である高さ約45メートルの岩の上から境内南隅にわたします。 この「御網掛け神事」は、太古の昔から行われており「三重県無形民俗文化財」に指定されています。

今回も語り部さんのガイド付き。地元の元気のよいご婦人で、生憎の雨の中でしたが、地元愛にあふれるガイドをしていただきました。郷土が誇る史跡(花の窟)が『日本書紀』に地名まで特定され記されているのですから、考えてみれば当然かもしれません。羨ましい限りです。

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熊野詣 PART11① ーー世界遺産 鬼ヶ城--

2024-06-23 15:49:00 | 旅行

ツアー最後の昼食は三重県熊野市にある鬼ヶ城センターでいただきました。鬼ヶ城といってもわざわざ行く観光地ではないと、高を括っていましたが、ここは世界に誇れる名勝でした。--世界遺産 国指定文化財 名勝天然記念物--

鬼ヶ城は、海風蝕と数回の大地震で隆起した凝灰岩の大岩壁。東口から西口の弁天神社まで約1kmの間に大小無数の洞窟が階段状に並んだ奇岩奇勝で知られる名勝である。その昔、桓武天皇(737-806)の頃、この地に隠れて、熊野の海を荒らし回り、鬼と恐れられた海賊多娥丸を、天皇の命を受けた坂上田村麻呂(751-811)が征伐した。その伝説に基づて鬼の岩屋と呼ばれたが、後に鬼ヶ城といわれるようになった。

地図を見ますと、ここから熊野古道「浜街道」の松本峠までは離れていますので、伊勢からの参詣者が立ち寄ったかは分かりませんが、松本峠までつながる道もあり、人気のハイキングコースになっています。また鬼ヶ城東口から鬼ヶ城城跡までの登りは、2000本植えられた桜の名所です。一度春桜の季節に訪れたいものです。

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熊野詣 PART10④ --熊野古道 大門坂--

2024-06-23 08:37:19 | 旅行

熊野那智大社、青岸渡寺を参拝したあと、語り部さんの案内で「熊野古道大門坂」を下りました。この大門坂は国指定歴史の道になっています。以下、案内板の説明です。

那智山は都より山川八〇里・往復一カ月の日数をかけ踏み分けた参詣道が「熊野道」である。熊野九十九王子としても知られた往古の歴史を偲ぶ苔むした道でもあり、那智山の麓から熊野那智大社への旧参道です。 この石畳敷の石段は、二六七段・その距離約六〇〇メートル余、両側の杉並木は、一三二本で他に老楠が並び入口の老杉は「夫婦杉」と呼び、幹周り八・五メートル余、樹高五五メートル余、樹齢約八〇〇年程と推定されている。 途中には熊野九十九王子最終の多富気王子跡がある。この所に大門があったので「大門坂」とも呼ばれています。

今回のツアーでは大門坂の途中でバスに乗りましたので、夫婦杉、多富気王子跡には行けませんでしたが、熊野古道を歩いた気分にはなれました。やはりこういった場所がきちんと保存されていることが、世界遺産登録の決め手になったのでしょう。語り部の方の説明にも力がこもっていました。

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熊野詣 PART10③ --青岸渡寺--

2024-06-22 15:15:02 | 旅行

巻頭の写真をご覧ください。熊野三山の紹介写真では最もポピュラーな青岸渡寺の三重塔と那智の滝のツーショット写真です。そしてよく見ると、水の流れ口に穴が開いています。滝の上部に川が流れていると思っていましたが、山の中に水脈があるのでしょか?毎秒1トンの水が流れているわけで、自然が作り出した造形美は素晴らしく、感動しました。さて後先逆になりましたが、そんな青岸渡寺のご由緒を紹介させていただきます。 

西国霊場第一番札所 天台宗 那智凶 青岸渡寺

当山は仁徳帝の頃(313-399)印度より裸形上人が熊野の浦に漂着。現在の堂の地に庵を結んだのに始まると伝えられている。 その後、推古帝(593-628)の時大和より生仏上人が来山し、玉椿の大木をもって、現在の本尊(御大約四米)を彫り、裸形上人感得の観世音菩薩を胸仏として納め安置す。のち推古帝の勅願寺となり、那智霊場の中心として熊野信仰を育んできた。従って御本尊如意輪観世音菩薩の霊験を受けんとして、日夜礼拝修業をする者その数を知らず、また天皇上皇の尊崇も深く、殊に平安時代、人皇六十五代花山上皇が滝の上の山中に庵を造り、三か年御修行の後、当山より西国三十三か所観音礼場巡行の旅でられた。当時より長きに亘り巡礼の寺として親しまれている。当山は古くより那智山如意輪堂と称していたが、明治の神仏分離によってその形態が変り以来青岸渡寺と称するようになった。現在の建物は天正十八年、豊臣秀吉公が発願再建されたもので桃山時代様式の建物として南紀唯一の重要文化財である。 また三重塔は、平安末期に建立されたが相つぐ戦火に焼失、去る四十七年全国よりの浄財によって再建。飛竜権現の本地仏千手観音を三層に祀る。

これは本堂前の案内板を書き写したものですが、『西国坂東 観音霊場記』(金指正三校注)にも、天竺からきた裸形上人が開基とあります。その頃は我が国に仏法が伝っていない時代であり、訪ねる人もなく、裸形上人の庵は朽ち果ててしまいました。その後、生仏上人が熊野参詣に来たときに権現様より、その昔裸形上人がこの地にいてありがたい霊仏を残している、汝その霊仏を探し出し守れとのお告げをいただきました。そこで生仏上人は那智の滝に飛び込み、必死の修行で霊仏が見つかるよう祈願したとのことです。そして7日目に岩の中に埋もれていた霊仏が光かがやき発見できました。一寸八分の如意輪観音の黄金仏で、この観音様は仏法伝来以前の貴重な観音様であり、二度と紛失しないように御丈一丈の本尊を造立し、その胸の中に納めたとあります。霊仏発見後の開基は生仏上人。御詠歌は、「補陀落や岸うつ波は三熊野の那智の御山にひびく滝津瀬」と書かれていました。

また『十一面観音巡礼』(白洲正子著)には、那智出土の日本最古の十一面観音像(白鳳時代:東京国立博物館蔵)が紹介されています。霊仏はこの像かと思ったりもしました。そして生仏上人の修行の様子は、文覚上人の熊野での修業の話とも重なり、この青岸渡寺を舞台に展開する歴史ロマンは壮大で実に楽しく読ませていただきました。

 

 

 

 

 

 

 

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