人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 成就院と朝ドラ ”なつぞら” ーー

2019-05-27 16:57:06 | 日記

今回のタイトルは、「成就院と朝ドラ ”なつぞら”」です。ご存知、成就院は鎌倉市内極楽寺にある真言宗のお寺。とは言っても、主人公の広瀬すずの出演した映画『海街diary』のことではありませんので悪しからず。実は写真の成就院にある「文覚」像と縁のあるお話です。この像のことは幾度か本ブログで紹介していますのでご存じの方は多いかと思います。

この「文覚」像と荻原守衛(碌山)という長野県の安曇野の出身の彫刻家の物語。日本のロダンとも言われています。この碌山を支援したのが、同じ安曇野の出身の相馬愛蔵という人物。その妻は相馬星良(黒光)。相馬愛蔵は誰でも知っている「新宿中村屋」の創業者。今やっている朝ドラでは、「川村屋」と言っていますが、オーナーである前島光子(比嘉愛未)は相馬黒光の孫にあたりますか?

相馬黒光は仙台の出身。才気があり自立心溢れる女性だったようです。荻原碌山は東穂高村の愛蔵の家を訪ねるうちに芸術家を目指すようになります。そして愛蔵の妻である黒光に憧れの気持ちを抱きつつも、その後ニューヨークやパリに留学し、パリで見たロダンの彫刻「考える人」と出会い、彫刻家になる決心をしました。

碌山の書いた日記「成就院に遊ぶ(文覚の木像を論ず」に「文覚」像を見た印象を次のように書いています。

只見る尺余の一木像、歳とともに古びてブロンズの如く輝けるが怪しき経机の上に無造作にうづくまれる、僕はこれを一瞥した其の瞬間の印象を、今も尚打消す事が出来ぬ。赤裸々なる一怪僧、天地の諸相をその眸底に云う様な円らなる巨眼を見ひらき、一文字に結べる口、一度開けば天下も、征夷大将軍も忽ち説服して了はねば止まぬ・・・・以下略。

碌山は創作に悩む日々を過ごすうちにこの「文覚」像に出会い、世に出ることができました。絶作である「女」は黒光がモデルとも言われています。

まさか朝ドラの話が成就院と結びつくとは。因みに新宿中村屋のカレーは、インドからの亡命者ラス・ビバリ・ボーズが伝えたもので、この亡命者の妻は黒光の娘である俊子です。凄い物語ですね。ちょっと感激しました。

 

 

 

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令和に思う

2019-05-20 20:27:36 | 日記

5月1日に令和元年となり、もう2週間以上が経ちました。最初はあまり関心なかったのですが、新聞やテレビなどで報道されることを知るにつれて、これは大変な瞬間に立ち会っているのだと思うようになりました。

今回の譲位は202年前の119代光格天皇から仁孝天皇への譲位以来で、江戸時代までは譲位は当たり前のように行われていたのに、明治以降は万世一代限り、先帝が崩御するまで代替わりはなったこと。主権在民の憲法のもとではじめての譲位であったこと。平成に変わったときには、国中が自粛ムード。バブルの崩壊時期と相俟って、その後の暗黒の20年間をもたらしたこと。先の平成天皇はこのことに心を痛め、元気なうちに次代に託す方法を、光格天皇の時代に遡り研究していたと思われること等・・・・です。

かねてから、なんで明治時代以降、第二次世界大戦に敗戦するまで、ほぼ10年毎に戦争をしていたのだろうと考えていました。その答えになるかどうか分りませんが、ある方が「権威」と「権力」という言葉を使って江戸時代の徳川幕府による統治の方法を説明されていました。「権威」は京都の天皇で「権力」は江戸の幕府。そのバランスがとれている時期に国家は平和で安定していると・・・。明治以降、憲法は、天皇は統帥権を総攬する神聖不可侵の元首で、天皇大権を明文化しました。これは「権威」と「権力」を天皇に一体化したものです。実際の政治は天皇主権下のもと任命された大臣らが行うわけであり、特に日露戦争以降、天皇の名を借りて破滅の道に突き進んだのも事実です。

新憲法では、天皇は日本国及び日本国民統合の象徴として明文化しました。この象徴の意味について、これまであまり意識して考えませんでしたが、今回の譲位にかかわる一連の儀式をみますと、随所に主権は国民にあるという工夫がされており、このことのもっと深く考えることが必要と思った次第です。

写真は葉山御用邸前の「小磯の鼻」からの風景です。葉山御用邸は昭和天皇が践祚された場所です。

 

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鎌倉を知る ーー 鎌倉霊所七瀬 ーー

2019-05-19 20:16:19 | 日記

最近『江島詣』(鈴木良明著 有隣新書)という本をみていたら、鎌倉霊所七瀬という図に出会いました。七瀬の場所は、①江島龍穴 ②固瀬河(片瀬川) ③金洗沢池(七里ヶ浜) ④由比ヶ浜 ⑤鼬河(イタチ川) ⑥六連(六浦) ⑦杜戸(森戸)です。鎌倉の市街地を取り囲むように配置され、その場所を結ぶと北斗七星の形になります。

『吾妻鏡』元仁元年(1224)六月六日には、「炎旱旬に渉る。よって今日祈雨のため、霊所に七瀬の御祓を行はる。由比の浜には国道朝臣、金洗沢には知輔朝臣、固瀬河には親職、六浦には忠業、鼬河には泰貞、杜戸には有道、江島の龍穴には信賢。この御祓は、関東に今度始めなり。この外、地震祭・日曜祭、七座の泰山府君は知輔・忠業・晴賢・泰貞・信賢・重宗等と云々。また十檀の水天供は辨僧正門弟等をしてこれを修せしむ」と書かれています。これは四代将軍藤原頼経が命じて行ったものです。

この祈雨の御祓がどういうものか、何故七瀬を結ぶと北斗七星の形になるのか分りませんでしたが、たまたま、いま東京国立博物館で開催されている「特別展 国宝 東寺」でそのヒントになる展示物を見つけました。それは「北斗曼荼羅図」というもので、天変地異や除病、息災、延命等を北斗法の本尊で、星曼荼羅とも呼ばれる画像です。北斗法とは、北斗七星への信仰に基づき、中国の占星術や陰陽五行説など道教の強い影響を受けた密教儀式のようです。ついでながら将軍頼経は十二所にある明王院を1235年に建立しています。

写真は霊所七瀬の一つである葉山の森戸にある森戸大明神です。神社の御由緒にも、七瀬祓いの霊所として重要な地であったとふれられています。今でこそ七瀬の霊所を地図上に簡単にプロットできますが、航空写真もない時代にどのように北斗七星の形になるように場所を選んだのか?星(せい)と瀬(せ)をもじったか?‥等。実に不思議で興味深い話ではありませんか。

侮れないぞ中世!!  ますます妄想が膨らんできました。

 

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