『吾妻鏡』の承元四年(1210)十月小十五日と廿二日の記事に次のことが書かれています。
聖徳太子の十七箇条の憲法、ならびに守屋逆臣の跡の収公田の員数・在所、および天王寺・法隆寺に納め置かるるところの重寶等の記、将軍家日来お尋ねあり。広元朝臣相触れてこれを尋ね、今日進覧すと云々。
御持仏堂において、聖徳太子の御影を供養せらる。この事日来の御願と云々。
坂井孝一著の『源実朝』によれば、実朝には聖徳太子信仰があり、聖徳太子には予知・予言にまつわる伝承が多く、実朝の夢想の告げ(陳和卿の言葉を聞いてから、実朝が夢想の告げを口にしている)と重なってくると書いています。夢想の告げのことはともかく、間違いなく実朝は聖徳太子の十七箇条の憲法を研究していました。以前このブログで『貞観政要』のことにふれましたが、実朝は国を治める自覚をもって将軍の務めを果していました。
そして鎌倉幕府の3代執権北条泰時は、実朝が催す和歌の会に加わり、「芸能之輩」として「御学問所」に結番祇候するように命じられた十八名にも選ばれています。ある本で読みましたが、北条泰時は実朝に影響され、聖徳太子の十七箇条の憲法を知り、後にその精神をもとに『御成敗式目』を制定したとありました。承久の乱のあと、義時の跡を継いだ泰時は朝比奈切通や和賀江嶋の築港などのインフラの整備や鎌倉幕府の体制整備に努め、その後の繁栄の基礎を造り上げました。それもこれも実朝があってのこと。坂井先生も著書の巻末に、八百年の「誤解」が解け、源実朝というひとりの人間の真の姿が明らかにされる日も、そう遠いことではないであろう、と書いています。実朝ファンとしては嬉しい一文です。
写真は寿福寺にある実朝の生誕八百年記念碑。今年は没後八百年の記念の年。青年将軍実朝の生きざまを偲びたいと思います。