人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

『白隠禅師 健康法と逸話』を読む

2023-02-23 16:31:34 | 日記

『白隠禅師 健康法と逸話』(直木公彦著 日本教文社)。この本は新聞の広告で見つけ買い求めました。副題に内観の秘法、軟酥(なんそ)の法、丹田呼吸法と書いてあります。白隠禅師の文章『坐禅和讃』は知っていましたが、その外に『夜船閑話(やせんかんな)』とか『遠羅天釜(おらてがま)』などは興味はありましたが、その内容はよく知りません。またこの本の著者の直木公彦氏(1918-2000)は北大工学部卒の土木技術者です。戦争中に喀血し、戦後にも二度目の喀血で死地をさまよいましたが、白隠禅師の『夜船閑話』を実習し結核を治したと書いてあります。禅の教えを学び療養したかと思いましたが、さにあらん禅師の内観の秘法により体力、気力、充実の効により奇跡的に生還したとあります。なんとも胡散臭い話ですが、この内観の法は白隠禅師の体験した実践に基づく治療法であり、読み進むうちにこの内観の法を試したい気持ちになりました。

ご存じ白隠禅師(1685-1768)は江戸時代の禅僧で臨済宗の中興の祖です。15歳で出家。24歳で一度目の大悟。これは本物ではなく、信州飯山の正受上人のもとで修業の日々をおくりますが、なかなか大悟できないで過ごします。この悟りの境地は一回経験すれば完成するものと思っていましたが、白隠禅師は一度大悟してもさらに深く悩み、ついには強度の神経症と肺結核に悩まされ体はボロボロになってしまいます。それを救ったのが、京都の白河の山奥に隠棲する白幽仙人。白幽仙人から、養生と征病の秘訣をおしえられ、原の松陰寺に戻り、大病を治すことができました。白隠禅師は83歳の長寿でしたから、白幽仙人から教えられた内観の法や軟酥の法の効用は本物だったと考えられます。

この内観の秘法とはどういうものか。詳しくは巻頭の本を読んでいただきたいのですが、私なりの理解は、生命の根源は「正しい呼吸法」にあるということだと思いました。「息」という字は自らの心と書きます。人間は息をすることで酸素を取り込み、それをエネルギー源として命を長らえています。人体には陰陽、プラス・マイナスがあり電池と同じように電気信号が流れています。それを古来から「気」という言葉で表現しました。気力とか元気という言葉がありますが、気というものを大切に考えていた訳です。その「気」を正しく整えるのが内観の法であり、その方法は正しい「息」をすることだと教えています。では正しい息の仕方とは、臍の下にある気海丹田で息をすることだとしています。分かりにくいですが、常に深く、ゆっくりと、下腹部で息をする。いわゆる複式呼吸ですね。この息を整える修業をすると、気力がよみがえり、精気が増し、難病すら克服するとあります。もちろんお医者さんによる治療が最優先で、病気に打ち勝つ気力を養う方法を教えている訳です。私もこの本を読んで息の仕方に気をつかうようにしています。まだはじめたばかりで効果の程は未知数ですが・・・?写真は静岡県原の松陰寺にある白隠禅師のお墓で写したものです。

 

 

 

 

 

 

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禅語を愉しむ --無一物中無尽蔵--

2023-02-16 19:34:54 | 日記

久しぶりの《禅語を愉しむ》編です。毎月送られてくる『花園』(妙心寺派宗務本所 教化センター発行)を読んでいましたら、この「無尽蔵の魅力 ~伊藤若冲~」(布教研究委員 大野泰明)というコラムがありました。その中に、若冲は、その名が示す通り「無一物中無尽蔵」を体現した人物であると書いてあります。知りませんでしたが、若冲の名は、『老子』の一説「大盈(だいえい)は冲(むな)しきが若(ごと)きも其の用は窮(きわ)まらず」に由来する。その意味は、最も充満したものは空虚のように見えるが、それを用いてもいつまでも尽きることがないと、大野氏は述べています。伊藤若冲の絵に「鳥獣花木図屏風」(ロサンゼルス在、ジョー・プライス所蔵)がありますが、この絵は色彩分割という手法で描かれ、枡目描きでもありますが、点描画の手法が使われています。色の違う一個一個の点(枡目)が無数に描かれ、それが一枚の絵をなすというものです。このコラムを読んだとき、すぐにこの絵を思い出しました。

さてここでまた『禅語カルタ百句』が登場します。この禅語は「無一物中無尽蔵 有花有月有楼台」という宋代の詩人、蘇東坡(そとうば)の七言絶句の転句と結句にあたるとあり、その意味は「心が空っぽだから、すべてを受け入れることができる。花、月、建物、無辺に広がるこの世界すべてを見てとることができる」というものだそうです。さらに、白紙の状態だったら可能性は無限大で、見る人の想像力で花でも月でも建物でも何でも入れることができるし、何にでもなれるとも書いてありました。華厳の世界の「一即多」微塵のなかに無限の世界を見ると同じ意味でしょうか?

写真は、この禅語と全く関係のない大山の雄姿です。昔の人は、この大山をみて神が宿ると考え、信仰の対象としました。このきれいなピラミッドに神の姿を想像したのでしょう。これはこの禅語と関係ない妄想でした。

 

 

 

 

 

 

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国府津・曾我丘陵ウオーキングコース⑩《弓張の滝》

2023-02-01 17:31:58 | 日記

伝曾我祐信の墓から城前寺に下っていきますと弓張の滝への案内がありました。600m程度の距離なので曽我兄弟ゆかりの場所かとも思い行ってみることにしました。剣沢川の上流、曽我谷津というところにあります。滝までいきましたが、冬なので水量は少ないものの、雨の多い季節なら見ごたえのある滝かと思いました。案内板をには次のような説明がありました。

『鎧の滝・弓張の滝』 曽我の里の谷津と別所の境を流れる剣沢川の上流、剣沢山の深い谷筋に二段の滝があり上段は鎧の滝、下段は弓張の滝と呼ばれてきた。『新編相模国風土記稿』によれば、当時鎧の滝は高さ八尺(約2.5m)弓張の滝は一丈五尺(約4.5m)であった。 室町時代、剣沢には剣状の岩が立ち、名所として知られていた。文明八年(1486)の冬、ここを訪れた聖護院道與准后は「此頃はみさびわれたる剣沢ごほりしよりぞ名は光ある」。 また戦国時代には、風流をたしなむ小田原北条氏配下の数人の若侍たちが、この滝の下で藤の花見を楽しんだという。その一人はその情景を「滝水にうつろう影もしげり行松に契りてさける藤波」(小田原起)と詠んでいる。 小田原市教育委員会

説明文には、曽我兄弟のことは出てきませんが、曽我祐信の城からもさほど遠くなく、間違いなくこの場所は兄弟の遊び場だったと思われます。それに弓張の意味も書かれていません。また文中にある聖護院道與准后とは、室町時代に生きた聖護院の門跡で歌人。関白近衛房嗣の子。私と同じく冬に訪れたようで滝は氷結していたようです。

 

 

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国府津・曾我丘陵ウオーキングコース⑨《伝曾我祐信墓》

2023-02-01 08:45:09 | 日記

本日曽我の里に来た目的はこの曽我祐信の墓を見る事でした。そのために国府津駅からウオーキングコースを歩き、3時間かけて来ました。途中富士山を眺め、相模湾の景色を楽しみ、みかんも買い求め、六本松跡とか忍石など新たな知識も仕入れました。教訓は「労を惜しむな」「百聞は一見に如かず」ですね。現地に行ってはじめて理解できることがたくさんあることを改めて認識しました。

さて前置きはさておき、伝曽我祐信墓は六本松から下って20分位の所にありました。この山彦山の山頂近くにあると思ったのですが里から30~40m登ったところです。なぜこの場所に墓と言われる宝篋印塔を建てたのか?本当に曽我祐信の墓なのか?いまは木立に覆われていますが、木がなければ富士山が望める場所ですが、城前寺のある麓でも富士山は拝めます。謎は深まるばかりですね。ともかく案内板の説明をご覧ください。

『曽我祐信宝篋印塔』 昔から土地の人々に「祐信さんの供養塔」と呼ばれています。銘をもたないので、造塔の意図、年時、造立者、大工名など、一切不明ですが、死者往生を本願としたものと思われます。 塔の総高は220センチ(基壇を除く)に達し、基壇の上に蓮座、基礎、塔身、笠、相輪の順で積み上げられいます。 関東における基本的な様式を備えた大宝篋印塔で、県下においても屈指の貴重なものです。 小田原市教育委員会

曽我の里の人々の曽我祐信愛を感じる説明文章です。今となっては否定することは出来ず、後世まで伝曽我祐信墓として大切にされていくものと思います。

 

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