来月の父の日を前に子供から何が欲しいと聞かれ、〇〇で良いよと答え、そこにはメーカーと製品名と色まで指定して送りました。そしてその商品を求め販売店に出かけたようですが、指定した色がなく別の色の写メを送ってきました。そこで当然ながらその色は似あうかどうかと聞き返しました。こちらは現物を見ていないのですから、率直な意見を求めた訳です。やり取りのあと、子供からの返信は「普通」の一言。思わず「普通」とはどういう意味かと返しました。最近の若者は「普通」と答えることが多いようですが、「普通」では可なのか不可なのか分かりません。辞書を引けば、どこにでも見受けるようなものであること。なみ。と書いてあります。まもなく古希を迎える者の判断基準は、普通の反語である「特別」「専門」なのですが、何事も平等であれという教育を受けてきた子供世代にとって「普通」が評価の一基準になっているかもしれません。それが良いのか悪いのか・・・?たぶん老人の戯言でしょうね。
ついでにもう一言。昨日の読売新聞に海外からの帰国者が書類の形式不備で入国できないようなことが書いてありました。私の経験でも役所に出した書類が住民票の住所でないとか、日付が書いてないとか、ハンコが違っているとか、何度も突っ返されたことがあります。渋沢栄一の『論語と算盤』読んでいますが、そこにこんなことが書いてありました。
かつて交換教授として米国より来朝せられたメービー博士が、帰国に際し、語った談話があります。・・・。日本人は、とかく形式を重んずるという弊があって、事実よりは形式に重きを置くということが強く見える。アメリカは最も形式を構わぬ流儀であるから、・・・。少しく形式に拘泥する弊害が強くなってはおりはせぬか。そうだとすれば、これはよほど御注意せねばならぬ事と思う。
コロナのワクチン接種でキャンセル分のワクチンを廃棄したというニュースを耳にし、河野コロナ担当大臣が書類なんて後で整えればよく、なんで貴重なワクチンを棄てるのかという談話を発していました。大事な本質論を無視して形式だけで判断した結果でしょう。一事が万事、こんなことをされていたら日本の将来を危惧するばかりです。