最近、北条泰時愛が嵩じて恥ずかしいと思いながらも某ガイド協会のホームページに泰時の話題を掲載してしまいました。その内容は江戸時代まで続く武家支配の基盤を築いたのは北条泰時その人ではないかという推測記事です。その後『神皇正統記』に北条泰時について書いてあるので参考にしたらというアドバイスをいただきました。本の名前は聞いたことはありますが、読んだこともない本です。調べてみますと『神皇正統記』は北畠親房の著作で『愚管抄』と並び中世を代表する史論のようです。作者の北畠親房は後醍醐天皇に重臣三房の一人として大変重用された人物でした。以下はその『神皇正統記』の抜粋です。
大方泰時心ただしく政(まつりごと)すなほにして、人をはぐくみ物におごらず、公家の御ことおもくし、本所のわづらひをとどめしかば、風の前にちりなくして、天の下すなわちしづまりき。かくて年代をかさねしこと、ひとへに泰時が力とぞ申伝ぬる。陪臣として久しく権をとることは和漢両朝に先例なし。・・。彼泰時あひつぎて徳政をさきとし、法式をかたくす。己が分をはかるのみならず、親族ならびにあらゆる武士までもいましめて、高官位をのぞむ者なかりき。・・。七代までたもてるところ彼が余薫なれば、恨ところなしと云つべし。・・。頼朝と云人もなく、泰時といふものなからましかば、日本国の人民いかがなりなまし。
また吉川英治の『私本太平記(1~8)』を見ますと随所に『神皇正統記』を参考にしたと思われるところがありますが、その人物評を一部抜粋してみます。
よく民になつかれて、民治と仁政に心した三代の名主北条泰時、武門のつつしみを知って、宗教や学問を振わせた五代最明寺時頼、また、元寇の国難の日をよく耐え凌いだ八代北条時宗 ー。
北畠親房や吉川英治の北条泰時の人物評価をみますと、さらに泰時愛が増してきます。
なお鎌倉市内で北条泰時ゆかりの場所は、和賀江島、宇都宮辻子幕府跡、若宮大路幕府跡、東勝寺跡、朝比奈切通、常楽寺、成福寺などです。南・東・北の端と一日で歩くのは無理な距離ですが、一度訪ねてみてはいかがでしょう。写真は大船にある常楽寺の参道です。