人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー弘安の役ーー

2016-05-30 20:01:47 | 日記

写真はJR北鎌倉駅の円覚寺の前にある「石築地」です。実はこの石築地は九州の博多にある「蒙古防塁」と同じものだそうです。「蒙古防塁」は1274年の文永の役のあと1276年から築造がはじまり、約1年かけて竣工しました。底辺の厚みが3mで高さが2~3m。博多湾に沿って約20Kmめぐらされています。まさに日本版の「万里の長城」ですよね。これを造らせた北条時宗は南宋から来日した誰かにその有効性を聞いていたと思われます。

さて元は1276年に南宋の首都臨安(杭州)を落とし、南宋は1279年に滅亡。円覚寺を開山した無学祖元はその年の8月に来日しました。この無学祖元は元が南宋に侵入したときに有名な「臨刃偈(りんじんげ)」を詠んでいます。  「乾坤孤筇(こきょう)卓(た)つるも地なし 喜び得たり、人空にして、法もまた空なることを珍重す、大元三尺の剣 電光、影裏に春風を斬らん」  この偈により元軍も殺さずに黙って去ったと言われています。このような修羅場を潜った無学祖元から時宗は「莫煩悩(あれこれ考えずに正しいと思うことをやりとおしなさい)」と教えられます。

「弘安の役」の日本征討軍の規模は「文永の役」の比でなく、高麗の合浦から出発する東路軍が元・高麗・漢人の混成部隊4万人、中国の明州から出発する江南軍が蛮軍10万人と言われています。東路軍は1281年5月3日に合浦を出、5月20日には志賀島着。一方、江南軍は6月18日明州発で平戸に6月末から7月初めにかけて着いたようです。先発の東路軍は戦闘を仕掛けますが「蒙古防塁」に阻まれ上陸ができないまま、江南軍を待つことなります。この2か月の遅れが元軍にとって命取りとなったわけで、7月1日(新暦8月16日)夜に九州地方を襲った台風によって東路軍・江南軍ともに大半全滅してしまいました。この戦いのあと無学祖元によれば、北条時宗は神風によって救われたという意識はなく、禅の大悟(だいご)によって精神を支えたといわれています。そして翌年1282年12月8日、無学祖元を開山として円覚寺で供養が行われました。  「前年およびそれ以前に、この軍と他の軍の戦死した者と溺死した者が差別なく平等に救済されることを祈念する」 (無学祖元 法語)

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鎌倉を知る ーー北条時宗と文永の役ーー

2016-05-29 18:40:26 | 日記

北条時宗は1268年3月に18歳で鎌倉幕府の8代執権になりました。父親である5代執権時頼が亡くなったのが1263年。時宗が成長するまで6代北条長時、7代北条政村が執権を務めました。

モンゴル帝国は1231年に高麗に侵攻し、1258年に高麗は蒙古に屈服。南宋にも金が滅亡した1235年から侵攻しはじめています。建長寺を開山した蘭渓道隆が来日したのが1246年ですから、蘭渓道隆もモンゴル帝国を脅威に感じていたはずです。一方、日本に対しては1266年8月付の「通交親睦を求める国書」を出しました。実際に国書が高麗使節の潘阜により日本にもたらされたのは文永五(1268)年正月で、それにより執権が時宗に交代しました。1271年にも高麗より牒状が届きましたが、その内容が不自然であったため元襲来の危険を察知したようです。その防備の命令書には「蒙古人襲来すべきのよし、その聞こへあり」と書かれていました。ただ高麗では「三別抄」という部隊が1270年頃に珍島を拠点に抵抗しており、それが滅亡する1273年までは日本への征討軍を出せず、日本にとっては幸いしました。

元・高麗の征討軍は1274年10月3日に高麗の合浦を出発し、同日には対馬、13日には壱岐、19日~20日に博多湾、24日には大宰府に攻め込みました。大宰府では征討軍は敗退したとの記録があり、10月末には撤退、11月27日に高麗に戻っています。所謂、これが「文永の役」の顛末ですが、どうもこの「文永の役」では神風は起きなかったようで、征討軍も初めから深入りする考えはなく、日本の戦いぶりや地形などの情報収集に努めたと思われます。

この「文永の役」のあと、元は1275年4月に杜世忠、何文著らの使節を派遣します。ただ執権時宗は8月にこの使節5人を関東に下向させ、9月には腰越の龍の口で処刑してしまいます。何故生きたまま戻さなかった疑問が残りますが、どうも執権時宗は蘭渓道隆(1213~1278)とも相談し、元に対し断固たる意志を示したのではないかと言われています。やはり蘭渓道隆が若き執権時宗の心の支えになっていたのは間違いないでしょう。そして栄西の存在がなければ、蘭渓道隆も来日していなかった筈です。

 

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鎌倉を知る ーー元寇以前、中世ヨーロッパの情勢ーー

2016-05-28 16:56:57 | 日記

昨年イタリア旅行に行った時、モンゴル帝国の西征のことが話題となりました。「モンゴル帝国に攻められ屈服しなかった国は日本とベトナムだけです。日本人はそのことを知っていますか」と。その時は何を言っているのか良く理解できませんでした。

ヨーロッパの中世史を調べてみますとモンゴル帝国は1241年に「ワールシュタットの戦い」でドイツ・ポーランド連合軍を撃破し、「モヒの戦い」では10万人のハンガリー軍を殲滅、その後ハンガリー王国は滅亡。1242年にはウイーンが陥落。フランスも惨敗し、1245年には北ドイツ平原への本格的侵攻が開始され、神聖ローマ帝国は壊滅しました。抵抗していたフランス王国も1247年に滅亡し、北イタリアの諸都市も経済的従属下に入りました。農地は牧草地に変わり、馬が走れるところであれば徹底的に攻め込まれました。西征の結果、残ったヨーロッパ由来の国家はスカンディナビア半島、イベリア半島、イタリア半島、ブリテン諸国、ビザンツ帝国位になったようです。このモンゴル帝国のヨーロッパ侵攻により、独自の文化を築いていた中世ヨーロッパは一度壊滅したと言われるほど、歴史に傷跡を残しました。

インターネットで見た資料によると、モンゴル軍の戦い方はかなり組織だったもので、当時のヨーロッパ騎士団の前近代的は戦い方では歯が立ちませんでした。兵站が伸びても食料は略奪や衰えた馬を食べて調達し、また征服民を兵士として利用。戦闘に際しては情報戦略を重視して、一度撤退しても二度目に攻める時には相手の弱点を徹底的に調べ上げ戦ったようです。 

では何故モンゴル帝国は日本に興味を持ったのか?ある資料に「黄金の国。ジパング」の黄金が狙いであったと書かれていました。マルコポーロが東方への旅をはじめたのが1271年。北イタリアの諸都市の商人たちから黄金の国の話を聞いていたのではないかと思われます。

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鎌倉を知る ーー蘭渓道隆についてーー

2016-05-24 20:22:52 | 日記

寿福寺と建仁寺を開山し、日本に臨済宗をもたらした栄西は彼の著作と言われている『興禅護国論』の「未来記」のなかで 「予が世を去るの後五十年、此宗最も興るべし。即ち栄西自ら記す」と語っています。 栄西が亡くなったのが1215年。それから50年後は1265年ということになります。蘭渓道隆により建長寺が開山したのが1253年ですから、栄西の予言通り臨済宗は幕府の保護により大いに盛んになりました。

では蘭渓道隆とはいかなる人物だったのでしょうか。このあたりのことは五味文彦監修の『武家の古都・鎌倉の文化財』に詳しく書かれています。南宋の禅僧である蘭渓道隆は1246年に商船に乗って博多に来着。博多の円覚寺に1年、京都の泉涌寺に1年いた後、鎌倉に下りました。当初は東国を遊山して中国に帰国する考えのようでしたが、実際は栄西が開山した寿福寺を目指したようです。蘭渓道隆が寿福寺に来たことによって、寿福寺は宋風の清新さが吹き込まれ、鎌倉にある他の寺院とは異なった存在となりました。

さてここでもう一人のキーマンである北条時頼が登場します。すでに述べたように、若くして執権となり、「天下を保つ」立場となった時頼は母松下禅尼の教えもあり、質素な暮らしでもって自らを律し、人に範を垂れることで政権を運営したと思われます。寿福寺における蘭渓道隆の評判を聞くにつれ、時頼は南宋禅の禅風に惹かれていきます。その後1248年に寿福寺から常楽寺に招請しています。常楽寺は北条泰時が、夫人の母の冥福を祈るために開創した「粟船御堂」が前身で、時頼にとっても特別な思いがこもった浄刹です。さらにこの段階で時頼の頭には大禅刹建立の考えがあり、その開山第一世に蘭渓道隆を登用する決意があったと思われます。そして1253年に建長寺が創建され、中国風の禅だけを修行する道場としての禅寺が誕生します。

栄西のまいた種が結実し、建長寺という禅道場ができ、さらにそれが無学祖元による円覚寺開山につながっていき、この宋との結びつきが元寇という難局を乗り切るうえで大きな意味を持ったと、私は推察しています。

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鎌倉を知る ーー徒然草にみる北条時頼ーー

2016-05-23 17:17:44 | 日記

鎌倉幕府の5代執権 北条時頼(1227-1263)は1246年に執権になり、1256年には執権職を長時に譲り出家しました。36歳で亡くなっていますが、引付衆をおいて裁判の迅速化を図る一方、宮騒動(1246年)で名越氏、宝治合戦(1247年)で三浦氏と千葉氏を滅ぼすなど、北条氏による支配を強めました。また朝廷に対する影響力も増し、1252年には藤原(摂家)将軍に変え後嵯峨上皇の皇子 宗尊親王を将軍職に迎え、1253年には蘭渓道隆の開山により建長寺を創建しています。

3代執権 北条泰時とともに鎌倉幕府の基盤強化を図った時頼ですが、彼に関するエピソードが幾つか『徒然草』に紹介されています。一つは、第百八十四段で時頼の母 松下禅尼について。破れた障子を自ら貼って修理したという話を伝え聞き、辛口評論家の兼好法師をして「世を治る道、倹約を本とす。女性なれども、聖人の心に通へり。天下を保つほどの人を子にして持たれける、まことに、ただ人にはあらざりけるとぞ。」 第二百十五段には平宣時朝臣(大仏宣時)の素焼きの小皿に少しついた味噌を舐めて喜んで酒を酌み交わしたという話。第二百十六段には足利左馬入道(足利義氏)とのエピソード。いずれも時頼の倹約を旨とする質実剛健さが語られています。

この時頼は祖父である3代執権 泰時を非常に慕い尊敬していました。出家してからは政治的な影響力を保持しつつも、蘭渓道隆のもたらした南宋の厳しい禅風に関心を抱き、泰時が創建した常楽寺に蘭渓道隆を招請しています。さらに時頼の子である8代執権 北条時宗が日本中世史上最大な国難「蒙古襲来」に対応することになる訳です。

最後に余談ですが、兼好法師は「世を治る道、倹約を本とする」 と語っています。どこかの知事のように自分のお金ならまだしも、公費を無駄に使うなんてことは以ての外。そんなことをしていては人の心は離れていきます。20歳そこそこで執権になった時頼は天下を保つ知恵を知っていたと思います。

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