写真はJR北鎌倉駅の円覚寺の前にある「石築地」です。実はこの石築地は九州の博多にある「蒙古防塁」と同じものだそうです。「蒙古防塁」は1274年の文永の役のあと1276年から築造がはじまり、約1年かけて竣工しました。底辺の厚みが3mで高さが2~3m。博多湾に沿って約20Kmめぐらされています。まさに日本版の「万里の長城」ですよね。これを造らせた北条時宗は南宋から来日した誰かにその有効性を聞いていたと思われます。
さて元は1276年に南宋の首都臨安(杭州)を落とし、南宋は1279年に滅亡。円覚寺を開山した無学祖元はその年の8月に来日しました。この無学祖元は元が南宋に侵入したときに有名な「臨刃偈(りんじんげ)」を詠んでいます。 「乾坤孤筇(こきょう)卓(た)つるも地なし 喜び得たり、人空にして、法もまた空なることを珍重す、大元三尺の剣 電光、影裏に春風を斬らん」 この偈により元軍も殺さずに黙って去ったと言われています。このような修羅場を潜った無学祖元から時宗は「莫煩悩(あれこれ考えずに正しいと思うことをやりとおしなさい)」と教えられます。
「弘安の役」の日本征討軍の規模は「文永の役」の比でなく、高麗の合浦から出発する東路軍が元・高麗・漢人の混成部隊4万人、中国の明州から出発する江南軍が蛮軍10万人と言われています。東路軍は1281年5月3日に合浦を出、5月20日には志賀島着。一方、江南軍は6月18日明州発で平戸に6月末から7月初めにかけて着いたようです。先発の東路軍は戦闘を仕掛けますが「蒙古防塁」に阻まれ上陸ができないまま、江南軍を待つことなります。この2か月の遅れが元軍にとって命取りとなったわけで、7月1日(新暦8月16日)夜に九州地方を襲った台風によって東路軍・江南軍ともに大半全滅してしまいました。この戦いのあと無学祖元によれば、北条時宗は神風によって救われたという意識はなく、禅の大悟(だいご)によって精神を支えたといわれています。そして翌年1282年12月8日、無学祖元を開山として円覚寺で供養が行われました。 「前年およびそれ以前に、この軍と他の軍の戦死した者と溺死した者が差別なく平等に救済されることを祈念する」 (無学祖元 法語)