今回は昨日のブログの続きです。
『鎌倉大仏の中世史』という本は内容が濃く、興味深く読ませていただきました。鎌倉大仏については殆ど残された記録がなく、『吾妻鏡』に数か所の記述ある程度です。それも1252年に深沢の大仏を鋳はじめたとは書かれていますが、大仏開眼供養の記述はありません。著者の馬淵先生のお考えは、大仏鋳造がはじまったのは奈良の大仏の開眼供養から500年後で、意図して金剛仏を造ったとしています。誰が?パトロンは北条時頼で、この時期に真言律宗の叡尊が鎌倉に下向していますので、叡尊が関ったと推測しています。阿弥陀仏なのは、阿弥陀は八幡の本地で鎌倉武士の信仰の拠りどころである鶴岡八幡宮に並ぶもの。偶像ということではそれ以上のものかもしれません。またこの大仏の原料は中国から輸入した宋銭の可能性が高い。奈良の大仏の原料は国産の銅。鎌倉大仏は原料を調達するだけでも大変だったでしょう。私の計算では120トンの大仏に必要な宋銭の枚数は2000万枚。中国から輸入するにしても、国内で寄進させるにしても大変なエネルギーが必要でした。この実現には農業経済では無理で貨幣経済が相当に進んでいたと思われますが、実際完成には10年位かかったようです。
最後に大山寺を中興した願行上人憲静(1215-1295)についてふれます。この願行上人の記録は少なく、鎌倉市内のお寺の縁起に名前は出てきますが詳しくは分りません。大山寺との関係では覚園寺(大楽寺)の「試みの鉄不動」を鋳造した話でしょうか。文献では『願行上人憲静の研究 上・下』(伊藤宏見著)が詳しいので、専らその論文に頼ることになります。難しい話はともかく、私の興味は、「なぜに願行は大山寺に鉄不動を納める必要があったのか、それも試作品まで造るほど慎重に準備までして・・・?」に尽きます。大山寺の縁起には願行が1264年に鉄不動を鋳造とあります。鎌倉大仏の完成時期(1262年?)から2年後。この鉄不動は像高97.9cm、総高287cm、重量約480㎏。今ならクレーン車で持ち上げますが、標高678mの大山寺(現阿夫利神社下社)までどのようにして運んだのか?また素材が鉄である必要があったのか?そして原料である鉄(砂鉄?)はどこで調達し、鋳造はどこでしたのか?分らないことばかりです???
ただ私は願行が当時急速に勢力を伸張してきた忍性率いる鎌倉極楽寺の真言律宗に対抗し、その手段として、大山寺への奉納、あえて鉄にこだわった不動明王像を制作したと考えています。