人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

きょうの旅 ーー 大山寺と鉄不動 その2 ーー

2018-05-27 19:52:20 | 日記

今回は昨日のブログの続きです。

『鎌倉大仏の中世史』という本は内容が濃く、興味深く読ませていただきました。鎌倉大仏については殆ど残された記録がなく、『吾妻鏡』に数か所の記述ある程度です。それも1252年に深沢の大仏を鋳はじめたとは書かれていますが、大仏開眼供養の記述はありません。著者の馬淵先生のお考えは、大仏鋳造がはじまったのは奈良の大仏の開眼供養から500年後で、意図して金剛仏を造ったとしています。誰が?パトロンは北条時頼で、この時期に真言律宗の叡尊が鎌倉に下向していますので、叡尊が関ったと推測しています。阿弥陀仏なのは、阿弥陀は八幡の本地で鎌倉武士の信仰の拠りどころである鶴岡八幡宮に並ぶもの。偶像ということではそれ以上のものかもしれません。またこの大仏の原料は中国から輸入した宋銭の可能性が高い。奈良の大仏の原料は国産の銅。鎌倉大仏は原料を調達するだけでも大変だったでしょう。私の計算では120トンの大仏に必要な宋銭の枚数は2000万枚。中国から輸入するにしても、国内で寄進させるにしても大変なエネルギーが必要でした。この実現には農業経済では無理で貨幣経済が相当に進んでいたと思われますが、実際完成には10年位かかったようです。

最後に大山寺を中興した願行上人憲静(1215-1295)についてふれます。この願行上人の記録は少なく、鎌倉市内のお寺の縁起に名前は出てきますが詳しくは分りません。大山寺との関係では覚園寺(大楽寺)の「試みの鉄不動」を鋳造した話でしょうか。文献では『願行上人憲静の研究 上・下』(伊藤宏見著)が詳しいので、専らその論文に頼ることになります。難しい話はともかく、私の興味は、「なぜに願行は大山寺に鉄不動を納める必要があったのか、それも試作品まで造るほど慎重に準備までして・・・?」に尽きます。大山寺の縁起には願行が1264年に鉄不動を鋳造とあります。鎌倉大仏の完成時期(1262年?)から2年後。この鉄不動は像高97.9cm、総高287cm、重量約480㎏。今ならクレーン車で持ち上げますが、標高678mの大山寺(現阿夫利神社下社)までどのようにして運んだのか?また素材が鉄である必要があったのか?そして原料である鉄(砂鉄?)はどこで調達し、鋳造はどこでしたのか?分らないことばかりです???

ただ私は願行が当時急速に勢力を伸張してきた忍性率いる鎌倉極楽寺の真言律宗に対抗し、その手段として、大山寺への奉納、あえて鉄にこだわった不動明王像を制作したと考えています。

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きょうの旅 ーー 大山寺と鉄不動尊 ーー

2018-05-27 16:53:45 | 日記

今回のブログは研究者の著したいくつかの本や論文からスタートします。『文覚上人一代記』(相原精次著)、『鎌倉大仏の中世史』(馬淵和雄著)、『古代金属国家論』(内藤正敏・松岡正剛)、『願行上人憲静の研究上・下』(伊藤宏見著)の4文献等。何れも優れた学説が述べられているのですが、素人の私はナナメ読みで推論をしようとするのですから無理があります。キーワード並べ、それを関連つければ繋がるかも・・・?

まず文覚上人ついて。大山寺の正面の彫り物は那智の滝で水行する文覚上人の姿。左右のは、左が甕を割ろうとする翁の姿。右が割れた甕から子供を救い出す二童子。これは「那智参詣曼荼羅」(那智熊野大社蔵)や鎌倉のお寺にある文覚上人像に繋がります。文覚上人は源頼朝の平家討伐の挙兵を促しましたが、熊野、大峰、伊豆、箱根などの修験道の世界に強いパイプがありました。頼朝は文覚上人の力がなければ関東の武士団を結集できなかったかもしれません。頼朝は大山の修験者の力を借り、甲斐源氏を見方につけ、そのお礼として修験の世界で重要な日本刀を奉納したのではないでしょうか。

『古代金属国家論』を読みますと、修験道、山伏集団は鉱山技師ではなかったかと書かれています。確かに奈良の大仏を造るにも銅や金などを日本中から調達しなければなりません。聖武天皇は如何に山伏集団を見方につけるか腐心したようです。そして資金調達に活躍したのが行基、良弁、重源などの勧進僧でした。行基と良弁は同時期の僧で、勧進役は行基、思想的黒幕は良弁だったようです。良弁は東大寺四聖の一人で華厳宗の開祖。聖武天皇が求めた大仏は華厳の世界を具現化したもので、金色に輝いていなければいけません。良弁は大山寺の開山でもあります。

写真は大山寺の龍神堂。源実朝の歌の舞台は大山の二重の滝のこの龍神堂ではなかったか思われます。

 時により すぐれば民のなげきなり 八大龍王 あめやめたまへ

次の回で『鎌倉大仏の中世史』、願行上人にふれたいと思います。

 

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鎌倉を知る ーー 英勝寺 ーー

2018-05-27 11:13:43 | 日記

鎌倉駅西口を出て寿福寺の先に英勝寺があります。女性に人気のお寺で、よく人力車の車夫が観光客を案内しているのを見かけます。この英勝寺は太田道灌ゆかりの地に1636年に創建された尼寺です。開山は徳川頼房の息女である玉峯清因。あの水戸光圀の姉と言った方が分りやすいですね。開基は英勝院尼。この方は徳川家康夫人で太田道灌の子孫と言われています。名前もお八の方、お梶の方、お勝の方と変わり、家康に大変寵愛されたようです。家康逝去後は英勝院となり、鎌倉の地で余生を過ごしました。

お勝の方は家康の子を産んだのですが、その子は4歳で夭折。それを不憫に思った家康が頼房の養母とし、お勝の方は大事に頼房を育てました。頼房の子は頼重と光圀の二人。順序からすれば頼重が跡取りなのですが、実際は二男の光圀が水戸徳川家の2代藩主となりました。あの有名な副将軍といわれた水戸黄門さまです。ただこのお勝の方は「長幼之序」(孟子)を重んじる考え方で無冠の頼重をなんとか高松藩主とします。頼重は英勝院の一周忌に山門を寄進しています。その徳川頼重が一周忌で詠んだ、英勝院に対する感謝の思いが込められた歌があります。

  去年の今日 ことしの今日をなぞらえて こひしきひとに あふてやみなん

徳川光圀は鎌倉を訪れ『鎌倉日記』(1674年)を著わし、さらに『新編鎌倉志』(1685年)を編纂させています。これは鎌倉の名所案内ですが、自分の姉である英勝寺住職の玉峯清因や水戸の御姫様が退屈しないように著わしたのでしょうか。そしてこの英勝寺の鐘楼、山門、仏殿、祠堂などの建物はそんなに大きくはないのですが、建物の意匠が凝っていて可愛らしい。これも英勝院の菩提を弔うために水戸からやってきたお姫様の寂しさを紛らわすためのものと思われます。なんとも愛情にあふれた空間で、これがこのお寺の人気の秘密でしょうか。

写真は祠堂の裏にある英勝院のお墓を見守る石造りの阿弥陀三尊像。『新編鎌倉志』の境内図にも載っていますから、江戸時代はじめからずっと英勝院を見守ってきました。

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国指定名勝「三溪園」の歴史的建造物

2018-05-05 17:27:31 | 日記

国指定名勝「三溪園」の歴史的建造物

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きょうの旅 ーー 三溪園 ーー

2018-05-03 19:38:20 | 日記

先日、横浜本牧にある三溪園に行ってきました。20年以上神奈川県に住んでいますが、行くのは初めてです。どうせ金持ちの道楽で造った庭だろうと勝手に思い込んでいたようです。何故行く気になったかと言いますと、鎌倉の東慶寺にあった仏殿が大事に保存されているらしく、一度は見ておきたいと思ったからです。

この三溪園を造ったのは原三溪(本名 富太郎)。明治から大正にかけて製糸・生糸貿易で財をなした人物。庭園の広さは175千㎡(53千坪)で明治の初めに土地を購入し明治35年頃から造園に着手、明治39年には一部を無料で一般公開したとあります。京都や鎌倉から壊されそうになった建物を移築、今では17棟の歴史的建造物が大切に保存されています。広い園内は周りを山で囲まれていますので、本牧や根岸の工場群とは無縁の別世界を形成しています。ただ一カ所、工場の煙突が邪魔をしているのが気になりますが、正直、よくぞこれだけのものを残したと原三溪に拍手。実に素晴らしい。

戦前の資産家は半端なく金持ちで、芸術・芸能や建造物などを後世に遺しています。いわゆるパトロン、タニマチと言われる人たちです。戦後は平等主義のお陰でこういう人たちは少なくなりました。戦後の日本社会は社会主義的資本主義社会。民主主義と言っても政治に無関心な衆愚化した社会。目立てば叩かれる社会のため、資産家個人が後世に名を残そうと思ったり、人のために何かをしようとは思わなくなりつつあります。国や地方自治体が行う公共投資は平均的で面白味に欠けます。それはそれで必要なのですが、個人の趣味や個性がキラリと光る原三溪がなしたような事業も大切なような気がしてきました。

三溪園は交通が少し不便なため入園する人は鎌倉の寺社ほど多くなく、静かにゆったりと日本文化に浸ることができます。是非一度訪れ、原三溪の偉業にふれてみてはいかがでしょう。

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