鎌倉の扇が谷にある海蔵寺は紫陽花の時期にしては観光客は多くなく、静かにお参りができる私がよく訪ねるお寺の一つです。応永元(1394)年に鎌倉公方足利氏満の命により扇が谷上杉氏である上杉氏定が開きました。開山は謡曲「殺生石」で知られる心昭空外(源翁禅師)。本尊である薬師如来は別に啼薬師、児護薬師ともいい、胎内には土中から発掘されたという仏面を収めています。境内の南の隅にある岩窟のなかに「十六井戸」があり、床の径70センチ、深さ40~50センチくらいの16個の穴に清水をたたえています。お墓との説もあるようですが、伝承では金剛功徳水(十六金剛菩薩に供える閼伽水)と名づけられています。また鎌倉十井の一つである「底脱の井」も境内の外にあります。
このお寺には「海蔵寺境内絵図(寛政三年1791)」が残されており、主な建物の配置は現在の姿とほとんど変わらず、塔頭七ヶ院などの旧跡が図示されています。その絵図をよく見ると、北西の山中に人口的な谷が描かれていますが、その谷は海蔵寺の案内には「寂外谷」とあり、源頼朝が切通しを作ろうとして中止になったと書かれています。
さて化粧坂の話に戻りますが、どうも海蔵寺の背後の山の鞍部に切通しがあったのは間違いなさそうです。それが工事途中で中止になったのか、使われていたけど何らかの理由で使われなくなったのか。私の個人的な意見としては、上杉氏定により海蔵寺が開かれる以前には、化粧坂はこの場所にあったと考えています。ご存じの通り、関東管領職をつとめた上杉氏は扇が谷、山ノ内、犬懸、宅間の四家に分かれました。その扇が谷上杉氏である上杉氏定が海蔵寺を菩提寺にしたということは、背後からの攻撃に備えるために、切通しを潰して山ノ内に抜ける道を今の化粧坂に付け替える必要があったのではないでしょうか。