人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 広町緑地の大桜 ーー

2019-03-24 15:06:21 | 日記

広町緑地には地元の人が大切に見守っている大桜があります。晴天に恵まれた今日、花の咲き具合を見に訪ねました。ヤマザクラの開花は4月になってからかと思っていましたが、快晴の空を背景に白い花が咲き始めていました。やはり桜花は青い空が相応しい。この大桜を毎年見に来るのですが、同じように年を重ねていくのですから、なんとなく生きているという実感を共有できます。お互いまだ元気でなによりなんて問いかけてしまいます。

ところで最近取り上げる回数が多い源実朝ですが、その実朝は『金槐和歌集』のなかで桜の歌をどう詠んでいるのか興味があり調べてみました。全663首中の「春」の歌は116首で、そのうち「桜」の歌は50首以上と圧倒的に多く詠まれています。

桜花ちらばをしけむ玉ほこの 道ゆきぶりにをりてかざゝむ

桜花咲散みれば山里に われぞおほくの春は経にける

花をみむとしも思はでこしわれぞ ふかき山路に日数へにける

尋ねても誰にかとはむ故郷の 花もむかしのあるじあらねば

行て見むと思しほどにちりにけり あやなの花や風たゝぬまに

さくら花さくと見しまに散にけり 夢かうつゝか春の山風

こうしてみると散りぎわを詠んだ歌が多いのに気付きます。実朝はいつ死ぬかわからないわが身を重ね合わせているかもしれません。

満開の桜の下での花見はいつの時代からでしょうか?織田信長が花見をしたという記録はないようですから、たぶん豊臣秀吉の時代に行われた吉野や醍醐の花見からと思います。花見は平和な時代の行事。毎日ニュースで桜の開花情報が流れる時代に生きている幸せに感謝するしかないですね・・・。

 

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鎌倉を知る ーー 光明寺山門に登楼する ーー

2019-03-23 11:18:02 | 日記

3月初め、材木座にある光明寺の山門に登ることができました。山門楼上には、釈迦三尊・四天王・十六羅漢が祀られています。なかでも気になったのが、仏殿の左右の柱に書かれている七言の文字でした。

   (左側) 妙諦拈花成寶地      (右側) 明心指月現金光

教えていただいたり、色々調べていくなかで、この七言を理解するキーワードは、左柱が「拈花」、右柱が「指月」ではないかと自分なりに理解しました。

まず「拈花」ですが、これはお釈迦様と高弟の摩訶迦葉の故事「拈華微笑」からのもの。角川漢和中辞典によれば、「文字やことばによらず、心から心に伝わること。釈迦が蓮華をとって、弟子に示したところ、だれもその意味がわからなかった。ただ迦葉だけがひとり微笑した。そこで釈迦はかれに仏教の心理を授けたという故事」とあります。法然上人は藤原兼実のたっての願いにより晩年に書いた『選択本願念仏集』(選択集・せんじゃくしゅう)以外に著作は少なく、この「以心伝心」が教えの根本だったのではないかと思います。

次に「指月」について。これはインドの高僧である龍樹の『大智度論』にある「指月の譬」ではないかと教えていただきました。「指月の譬」とは、言葉=指、真実=月であり、次のことが書かれています。

人の指を以って月を指し、以って惑者に示すに、惑者は指を視て、月を視ず。人、これに語りて、『われは指を以って月を指し、汝をしてこれをしらしめんとするに、汝は何んが指を看て、月を視ざる』、と言うが如く

この「指月」の譬も、「拈花」の故事と同意でしょう。これは楹聯(対子)と言われるもので、中国では門柱や壁に書かれるものであり、『楹聯叢話應制』という辞典もあります。冒頭の二つの七言もこの書物の中にありました。光明寺の山門は江戸時代末に建てられたものですが、その楼上に相応しい七言を選んだ先人の学識にリスペクトです。

 

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源実朝を知りたい ー無常の歌ー

2019-03-09 19:48:29 | 日記

世の中は 常にもがもな 渚こぐ 海人の小船の綱手かなしも

源実朝の歌で『金槐和歌集』雑部、『新勅撰和歌集』(藤原定家が承久の乱後に撰修した勅撰集)に入集し、『小倉百人一首』にもとられた有名な歌です。この和歌の石碑が鎌倉海浜公園(坂ノ下地区)にありますので、ご覧になられた方も多いと思います。

とは言っても、私自身この歌の意味を分かっていません。ふたたび『源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍』(坂井孝一著)からの抜粋です。

 『古今』の東歌「陸奥は いづくはあれど 塩竈の 浦漕ぐ舟の 綱手かなしも」をもとに詠まれた歌であり、歌意は世のなかは永遠に変わらないでいてほしいものだ、波打ち際を漕いでいく漁夫の小舟の引綱をみていると、なんとも切なくなってくる、である。 (一部略) 「世のなかは 常にもがもな」という初句・二句からみて、無常の世の中を人が生きていくことへの哀愁・共感を詠んだ歌とする点は動かないであろう。

また大佛次郎の『源実朝』にも「無常」を詠んだ歌として上げられていることから、「無常」というキーワードは間違いないと思います。この歌は建保元年(1213)に起こった和田合戦のあとに詠まれた歌らしく、北条義時に滅ぼされた和田一族の無念を思う気持ちが込められているかもしれません。

この後に「唐ふね」建造の思いつき?が持ち上がります。この出来事についてもいろいろな解釈がありますが、大佛次郎は次のように語っています。

 文弱の若人と見られて来た実朝は、この列の中(無着菩薩や維摩居士、世親菩薩など)に加わっても決して見劣りしない巨像ではなかったか?畏怖を感じながら私はそう考え始めたのである。私が「今様」と言ったのも、この、時代の刻印を受けた性格のことなのである。それを頭においてかからぬと、やがて、これから展開される、実朝が突然に宋へ渡ろうとした事件も、ただの青春の気まぐれとも見えようからである。

なんとも奥深い世界に入り込んでしまったようですが、実に楽しみな世界です・・・。

 

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