人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --鎌倉時代における銅銭(宋銭)の流通--

2022-08-27 10:35:30 | 日記

このブログではここ数回に亘り北条泰時について書いてきました。さらに『吾妻鏡』を読んでいて嘉禄二年(1226)八月一日の条が目に止りました。

今日、准布(じゅんぷ)を止めて銅銭を用ゐるべきの由、仰せ下さる。武州(泰時)殊に申沙汰せしめたまふと云々。

「准布」とは、『広辞苑』には、古代・中世に、一般物価を交換手段たる布の数量で表示することとあり、泰時は交換手段として、これまでの布を廃止し、銅銭を用いるように指示したと考えられます。当時国内では大量の銅銭の鋳造はなされていませんので、宋から輸入した銅銭が流通したのでしょう。かさばる布より扱いやすい銅銭の方が商売に適しており、鎌倉時代中期には大いに銅銭が流通したようです。ただ貨幣という怪物が、上横手雅敬氏が人物叢書『北条泰時』で指摘しているように、後の鎌倉幕府を苦しめることになります。どういうことかと言いますと、僧侶や新たに出現した富裕な商工業者らが、御家人等に金を貸し、返せなくなれば土地で返済させるということが起き、御家人が疲弊する原因になりました。実際、泰時は晩年の延応年間(1239)頃から、陸奥の国で銭の流布を禁止したり、倹約令を出したり、私領の売買の禁止、恩領の質入れの禁止などの策を講じましたが、この貨幣という怪物を退治するには至りませんでした。

また『吾妻鏡』の嘉禎四年(1238)三月の条に、深沢の大仏堂造営はじまる、僧浄光が勧進するとの記事。泰時が亡くなったあとの寛元元年(1243)六月には、深沢大仏供養、八丈余の阿弥陀像であるとの記事が載っています。この像は木造ですが、仁治三年(1242)には鎌倉中の僧徒の帯刀を没収し鎌倉大仏に施入したと、上横手氏の前出の人物叢書『北条泰時』に書かれていました。泰時が生きている間に奈良の興福寺や京都の石清水八幡宮、比叡山延暦寺などで起きた騒動も泰時にとって悩みの種だったようです。ともかく鎌倉だけでも僧侶の帯刀を禁止するために、その方便として木造の大仏を利用したと思われます。またこの大仏を造るために民衆にも銭(宋銭)の寄進を勧めましたが、市中に流通しすぎた貨幣を吸い上げるための方策だったかもしれません。

さらに孫の時頼の時代には金銅の大仏(阿弥陀如来)の鋳造が始まります。この金銅の大仏は宋銭を鋳つぶして造られたようです。これも貨幣という怪物退治の策であったかどうか・・・?よく分かりません。

写真は干潮時の和賀江島で泰時が整備したインフラの一つです。この築港のお陰で鎌倉において日宋貿易が盛んになり、貿易を独占した北条一族を潤しました。また仁治二年(1241)には朝比奈切通を開削しています。その当時、経済という言葉も学問もなかったと思いますが、泰時の施策を調べていきますと非常に理にかなったものが多いですね。承久の乱の後、死ぬまで一度も大きな戦がない稀有な執権でした。歴史家にとっては面白くないかもしれませんが、私はこういう人物の方が興味が湧きます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉を知る --司馬遼太郎の『街道をゆく四十二 三浦半島記』--

2022-08-21 16:26:37 | 日記

司馬遼太郎(1923/8/7-1996/2/12)は来年生誕100年となります。その彼が亡くなる直前に『街道をゆく42 三浦半島記』を発表しました。この『三浦半島記』を取りあげたのは、治承四年(1180)十月に源頼朝が鎌倉入りして鎌倉に武家が支配する政権を立上げ、それを北条泰時が形にした歴史を司馬遼太郎がどうみているか知りたかったためです。司馬遼太郎の言葉は心に刺さります。彼の言葉をかりて、鎌倉時代はどんな時代だったか探ってみましょう。

十二世紀末まで、京の公家からみれば、武士は庶民にすぎず、ときに奴婢のように思われていた。ついでながら、後世(鎌倉時代から明治維新まで)、「公家と武家」と、対置して称せられる。この場合の武家とは、将軍と守護や地頭のことで、たとえば江戸時代の諸藩の士は、厳密には武家というよりも、武家に仕える”武家奉公人”であった。奈良朝も、平安朝も、律令の世であることには変わりがない。律令制は公地公民が大原則であった。農地は国家のものであり、農民自身、国家の所有であった。やがて荘園という私領が公認された。ただしこの私は公家や有力社寺の私領のことである。さらにもう一種類の農民は、墾田の農民だった。墾田は、開拓者の永代所有とされた。その有力な開発人のなかから、武士といわれる者が勃興するのである。律令制時代を通じての法のおかしさは、墾田の所有権が子孫の所有にならず、荘園に組み込まれる。開発人たちは、京の公家や有力社寺に献上し、その管理人(=武士)になることで安堵された。平安中期以降、とくに関東は、大小あまたの武士の巣窟だった。一所懸命に農地の管理権を守っていた。そこに起きる心配に対し、「そういう心配はいっさいわしがひきうけた」という存在があらわれた。やがて、流人の境遇から身をおこして鎌倉幕府を樹る源頼朝の父の義朝も、そういう存在だった。

公家は、後生のため殺生をおそれ、数世紀のあいだ、死刑さえ廃してきた。が、鎌倉幕府がもしつくらなければ、その後の日本史は、二流の歴史だったろう。農民--武士という大いなる農民--が、政権をつくった。律令制の土地制度という不条理なものから、頼朝政権によって農地の所有をたしかなものにした。

頼朝が当時の関東において期待されたのは、訴訟を裁く人としてだった。

頼朝には、存念があった。(存念=執念、恨み、心に存して忘れないこと)

鎌倉幕府は、もともと頼朝と北条氏の合資会社で、頼朝の死後は、北条氏に権力が移るべくして移った。この一族は、およそ華美ではなく、質実で、農民の親玉のようだった。とくに、義時、泰時、時頼が、日本政治史上の巨材だったといっていい。

思った通り、司馬遼太郎の言葉はわかりやすく、鎌倉武士の存在がよく理解できました。写真は、極楽寺坂の西口から写したものです。左側には、司馬遼太郎が入った喫茶店(今は違いますけど)の建物がまだのこっていました。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉を知る --東勝寺跡について--

2022-08-21 04:48:39 | 日記

北条泰時のバイブル書である人物叢書『北条泰時』(上横手雅敬著)には、泰時は嘉禎三年(1237)後妻(聖尊僧都の女)の母の追善のため、山内の墳墓の傍らに寺庵を建てるに当って、その供養を行勇に請うた。その寺が東勝寺であるが、現在残っていない。・・・。嘉禎三年政子の十三回忌には、大慈寺で一切経の供養を行い、・・・。妻の母の供養のために東勝寺を建てたのもこの年であると書かれ、東勝寺の名が二度出てきます。私の記憶では、宝戒寺の東南の谷戸を葛西ケ谷と言い、そこに国指定史跡の東勝寺旧跡があります。その東勝寺の事を言っているのか?山内の墳墓の傍らと書いてあるので違うのか?そこで『鎌倉廃寺事典』と『新編鎌倉志』を調べてみました。

『鎌倉廃寺事典』には、場所は葛西ケ谷とし、『本朝高僧伝』に山号は青龍、開基は北条泰時、開山は退耕 行勇とあり、さらに退耕行勇は仁治2年(1241)に東勝寺で示寂したとあること。鎌倉幕府滅亡後も関東十刹の一つで、廃絶されたのは16世紀半ば頃ではないか。昭和50年2月~4月にかけて発掘調査が行われ、その結果、石畳道、石垣があらわれたことから、幕府防衛のための軍事施設的側面もあることが推測される・・・等。

『新編鎌倉志』には、◎葛西谷の条で宝戒寺の境内。川を経て東南の谷なり。山の下に、古への青龍山東勝寺の旧跡あり。東勝寺は関東十刹のうちなり。開山は退耕行勇、今は寺亡たり。【太平記】に、相模入道殿(北条高時)、千余騎にて葛西谷に引き籠り給ひければ、諸大将の兵どもは、東勝寺に充満たり。是は父祖代々の墳墓の地なれば、兵どもに防矢射させて、心閑に自害せん為也とあり。又相模入道殿も腹切り給へば、総じて其の門葉たる人二百八十三人、我先にと腹切、屋形に火を懸けたれば、猛火盛んに燃え上がり、黒煙天を霞めたり。後に名字を尋ぬれば、この一所にて死する者、総て八百七十余人也。嗚呼この日何なる日ぞや、元弘三年(1333)五月二十二日と申に、平家九代の繁昌、一時に滅亡して、源氏の多年の蟄懐、一朝に開る事を得たり。今も古骨を掘り出す事有と云う。云々。

『吾妻鏡』には、東勝寺の寺名は出てきませんが、寛喜2年(1230)10月16日の条に一行だけ、今日武州御願の北条御堂上棟なり。左近入道道然(尾藤景綱)、斎藤兵衛(長定)入道浄圓奉行なりという条があります。泰時の時代であっても、勝手に鎌倉市内にお寺を建立することは出来ませんので、北条御堂は北条氏の所有地に私寺として建てられ、自分の屋敷に隣接した墳墓・法華堂であり、万が一の場合に逃げ込める城塞の機能を有したもの。そうするとお堂の適地は北条屋敷に近い場所に絞られ、私は山内ではなく、北条御堂(=東勝寺)は葛西ケ谷にあったと推測しています。

写真は滑川にかかる東勝寺橋の下から川上を写したものですが、東勝寺は右の断崖の奥に広がっており、難攻不落な城塞のように感じられました。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉を知る --成福寺と厳島神社--

2022-08-18 13:14:27 | 日記

鎌倉での北条泰時ゆかりの場所の一つに小袋谷にある成福寺があります。『かまくら子ども風土記』『鎌倉検定公式テキストブック』『鎌倉事典』(東京堂出版)等にほぼ同じ内容で書かれていますので紹介します。

浄土真宗西六条本願寺末。大船小袋谷所在。開山は北条泰時の末男泰次と伝える成仏。山号は亀甲山法得院成福寺。貞永元年(1232)に創建された。9世宗全のときから一時伊豆の北条に移っていたが、慶長17年(1612)11世西休によってこの地に戻された。鎌倉市内でも数少ない浄土真宗のお寺の一つ。

しかしながら、この泰次がいたかどうかはっきりしません。上横手雅敬氏の『北条泰時』には、建仁3年(1203)に三浦義村の娘との子である長男時氏が生まれ、建暦2年(1212)に安保実員の娘との子である二男時実が生まれ、泰時の男子は二人としています。ただ、ほかに公義というのがいたが、これは出家したらしいと括弧書きで書いていますので、ひょっとしたらこの子が泰次かもしれません。また成福寺の寺伝には、北条泰時が鶴岡八幡宮で国中の名僧を集め、仏教経典の研究をしていた時、その僧のなかに親鸞がおり、その時、泰次が親鸞に教えを乞い、親鸞から成仏という名をもらい、聖徳太子像をいただいたという話が残っているようです。親鸞(1173-1263)は建保2年(1214)頃から関東で精力的に布教活動をしており、貞永元年頃に鎌倉に来て泰次と出会ったという話のつじつまはあいます。

さて次は成福寺の隣にある厳島神社についてです。厳島神社の名前は、昭和になってから弟橘媛命を祀る吾妻社と市杵島姫命を祀る弁天社を合祀して、今の厳島神社になりました。それ以前は応神天皇を祭神として八幡さまが祀られ、成福寺の鬼門よけのお宮でした。またこの神社のある山は成福寺と同じ敷地にあり亀甲山と言います。亀の甲羅の形からついた名のようです。

この成福寺や厳島神社の近くには水堰橋があります。鎌倉時代には源頼朝の軍勢が、鎌倉に出入りする時には必ずここで勢揃いをし、隊列を整えてから行進をしたのだそうです。「勢揃い橋」⇒「せゐ志くはし」⇒「水堰橋」でしょうか?何れにしても鎌倉街道の分岐点であり、台と小袋谷を結ぶ大事な橋だったようです。この亀甲山の山頂から東をみると正面に常楽寺があり、北から西の眺望も開けています。この場所は軍事的にも重要な場所だったと考えられます。

写真はJR横須賀線の線路の近くにある成福寺の山門です。脇に鎌倉街道が通っており、往時の様子が偲ばれます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉を知る --北条義時死後の泰時の動き--

2022-08-17 12:47:43 | 日記

『吾妻鏡』によれば貞応3年(1224)6月13日(西暦1224年7月1日)に北条義時が亡くなりました。死因は脚気のうえに霍乱(急性胃腸炎か)を併発したとあります。その時、北条泰時は京都にいましたが、知らせを受けたのは6月16日。翌日には京都を出発したようですが、鎌倉に到着したのは26日。二七日の仏事は既に終わっていましたが、泰時が自宅に戻ったのは翌日です。28日には、政子から北条時房・義時の二人に対し「将軍頼経の後見として、武家の事を執行せよ」との沙汰を受けています。その場には、大江広元(出家して覚阿)もいて、そのことは遅すぎると意見しています。どうも鎌倉内に噂がたっていて騒乱の気配あるとのこと。それは泰時が弟政村らを討伐するために下向してきたというもの。義時の後妻伊賀の方が、身内の伊賀光宗兄弟とはかって、娘婿の一条実雅を将軍とし、その後見の執権に実子である政村を立てようとしている動きに対してです。

7月になっても収まらず、光宗兄弟がしきりに三浦義村の許に出入りしている様子も伝わってきます。ついに7月17日の深夜、政子が単身(同行者は女房駿河局ひとり)義村邸に乗り込み談判に及びます。光宗兄弟との密談の動きは何か。承久の乱後の平和の世になったのは誰のお陰か。関東の棟梁は泰時と決めている。貴方と政村は親子(烏帽子親)のように親密だが、何か談合の疑いはないか。政子は義村に申し開きしろと迫りました。政子の気迫におされて義村は、政村には全く逆心はなく、光宗兄弟が謀ったことであると白状せざるを得ませんでした。結局義村は泰時に対して二心なく仕えると釈明し、一条実雅は京都に戻され越前に配流、光宗は政所執事を罷免され所領は没収、その後、8月末には伊賀の方は伊豆に蟄居、光宗兄弟は流罪となり、程なくことは収まりました。また泰時の弟の政村はお咎めなし。貧乏くじを引いたのは、伊賀の方の娘の婿で一条能保(源頼朝の妹の夫)の子供である一条実雅(西園寺公経の猶子でもある)かもしれません。三寅(のちの頼経)とともに鎌倉に下向したのですが、自身が将軍になる気持ちがあったかどうか・・・。

この一連の動きに対して『鎌倉殿と執権北条130年史』(岡田清一著 角川文庫)の岡田氏によれば、自分の実子である政村を次の執権にしようとした義時の相続人である伊賀の方の考え方は、義時の遺言状がないことからありうるとしています。それ以上に、泰時・時房を三寅の後見人にしようとした政子の行動に注目すべきでしょう。単身、三浦義村邸に乗り込んだ姿には、私の目の黒いうちはあんたに勝手なことはさせないぞという、並々ならぬ決意・気迫が感じられました。

前回のブログでは、死ぬ間際の政子に「出家したいと」愚痴った泰時の姿を書きました。何と言っても政子あっての泰時ですが、逆にそれほどまでに泰時を義時の後継人にしたかった政子の思いは・・・?早くからその器量を見抜いていたのか。『神皇正統記』の北畠親房の文章をもう一度読んでみることにしました。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする