7月13日(土)に鎌倉市大町で行われた八雲神社例祭に行ってきました。写真では見たことがあるのですが、30年近く鎌倉に住んでいて実際に現地で見物するのは初めてでした。大町の八雲神社は大町の鎮守様。もともと江戸時代までは祇園天王社と呼ばれていました。その由緒は、11世紀後半の永保年間、新羅三郎義光が、兄八幡太郎義家の奥州攻め(後三年の役)の助成に行く途中に鎌倉に立ち寄った際、疫病に苦しむ人びとの姿をみて京都祇園社の祭神を勧請したのが始まりといわれています。いってみれば八坂神社の鎌倉版で八雲神社となった訳です。祭神は明治以降は須佐之男命ですが、それ以前は牛頭天王でした。牛頭天王は古代インドのヒンドゥーの神様なので仏教の仏様ではないのですが、明治時代の神仏分離のため神話の世界の神様になりました。
八雲神社例祭では4基の神輿が登場します。須佐之男命(牛頭天王)、その妻稲田姫命(婆梨采女)、その子八王子、そして佐竹天王です。最初の三神輿は京都の祇園祭りと同じで疫病退散を祈願するものなので、その意味するところは容易に理解できます。ただよくわからいのが佐竹天王の神輿です。この神輿は八雲神社例祭では一番神輿とされ、神幸祭の神輿渡御では氏子たちに担がれて佐竹屋敷があったとされる大町大宝寺で神幸所祭が行われます(『鎌倉の神社』吉田茂穂監修による)。
さて筆者が祭りを見学したのは、薄暗くなって4基の神輿が八雲神社を発輿する午後19時前から。19時には宮出となります。八雲神社を出て大町四ッ角から辻のはな(JR踏切手前、辻の薬師のあたり)の間を往ったり来たりして、途中で4基の神輿を連結する「四社つけ」が21時までに3回実施されます。それぞれの神輿につけられた提灯に火がともされており、四社つけのまま練る間に天王唄が披露されます。特に20時頃の大町四ッ角での2回目の四社つけの練りがクライマックスでしょうか。この提灯の火はローソクなのですが、今年は雨仕様の電灯でした。たぶん例年は四連結された神輿が揺れるたびに提灯の火もゆれ、一層幻想的な雰囲気が演出されたと思われますが、電灯の火でも十分楽しめました。
ではここからが妄想の世界です。「四社つけ」という形は非常に稀有で鎌倉市内でも大町の八雲神社例祭だけに見られます。4基の神輿の担ぎ手の息がぴったりと合わないと、連結したり、離れたり、そして連結したまま天王唄に合せて練るのは至難の業です。このお祭りは他所からの担ぎ手は断っているようですが、理解できます。ではいつごろから「四社つけ」が始まったのか?資料によりますと、佐竹天王が合祀されたのは応永年間(1394~1428)とされています。鎌倉を舞台にしたその前後の出来事はなにか?
まず鎌倉公方、足利氏満の康暦元年(1379)に氏満の京方への敵愾心を諫めるため関東管領上杉憲春が自害しています。その後、足利満兼を経て足利持氏の応永23年(1416)に上杉禅秀の乱が起きました。これは山内上杉(上杉憲基)と犬懸上杉(上杉禅秀=氏憲)の対立ともいわれていますが、京方の助けを得た持氏側が勝利しました。このとき禅秀側についたのが佐竹与義(ともよし)でした。これを根に持った持氏は応永29年(1422)に佐竹与義を討伐し、同じく禅秀側の京都扶持衆であった小栗満重、宇都宮持綱らを滅ぼしました。これがために持氏は室町幕府の足利義教と対立。永享10年(1438)には永享の乱が起き、翌年負けた足利持氏は鎌倉永安寺で自害して果てました。持氏の死後、鎌倉府は宝徳元年(1449)に持氏の子、成氏が鎌倉公方になるまで消滅した状態でした。その成氏も戦乱を経て康正元年(1445)には鎌倉を落ちのび古河公方となり、鎌倉は時代から取り残された状況が長く続くことになります。いつから「四社つけ」が始まったのかは不明ですが、以上の出来事が契機であることは間違いないでしょう。鎌倉公方は鎌倉を脱出できても、そこにいる民衆は逃げることはできません。自分たちの暮らしを守るために怨霊封じの「四社つけ」が自然発生的に出来上がったのではないかと考えています。
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