昨日は、近くに住んでいる親類の方々が集まってくれて、歓迎会をしてくれた。初めてお会いする人が殆どであるが、皆さん本当に暖かく迎えてくれました。
親戚の皆さんから、親父の事を聞いていくと・・・・・
沖縄の男性の特徴
南国的で、明るくおおらかな楽天主義。
大ざっぱなので緻密なことは苦手。コツコツ地道に努力するタイプではなく、
どちらかというと、仕事より遊びが優先。
しぶとさや粘りにも欠けるようです。時間にもお金にもルーズですが、
とても親切で心優しい人が多いようです。
どうも、楽天主義で明るい・おおらかで親分肌・・・
しかし、飽きっぽい・遣りっ放し・ルーズだが、親切で心優しい・・・・・
沖縄男性の特徴そのままだ。
締めくくると、「フーテンの寅さん」の様な性格が浮かび上がって来た。
回りの皆さんは、それぞれ苦労が絶えなかった様だが、最後には愛されている・・・
何処の親戚にも、必ず一人は、こういった自由奔放な人が居るんですよね。
当然、私にはその親父の血が流れている。良い面も悪い面も受け継いで居るわけです。
50歳にして、知り合うことが出来た沖縄の親戚。
今回は、長男坊のクルムを引き合わせる事が出来ました!血縁は時間を超えて繋がっていきます。これから沖縄の親類の人たちと、新しい関係が作って行けることが楽しみです。
また、沖縄に来ます!ありがとうございました。
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沖縄に遣って来ました。
朝、4時半起床、5時半には家を出なければならない。
前日に「早く起きなければ!」と云う思いから、8時過ぎに寝たら、夜の12時に起きてしまった。。。。。結局、朝まで起きていてしまった。
妻に高速バスのバス停に送って行ってもらい、別府から福岡空港に向かう。福岡からANAで沖縄に・・・・・
前日のテレビでは、「青森の八甲田山で初雪を観測」と、日本中が急に寒くなっていたのに、沖縄につくと、半袖がちょうどいいくらいの気温である。
燦々と輝く太陽と、生暖かい熱気、空港の前には、自衛隊の大型ヘリが降りてくる・・・・
まるで、異国に来たような錯覚をする。
那覇空港で大阪から遣って来や長男坊クルムと合流した。
そもそも、今回沖縄に来る切っ掛けになったのは、8年前の「男の旅」に逆上る。
我家では、息子が10歳になった時、親父と二人で「男の旅」をすることを家訓としている。(私の代から、勝手に決めたのだが・・・)
その男の旅で、自分のルーツを探してみようと思い、沖縄に来たのだ。詳しいことは、このブログのカテゴリーの「ルーツ探し」の中に書いてある。
私にも、この沖縄の血が流れている。
つづく、
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ルーツ探しの沖縄旅行も無事終えることが出来ました。沖縄滞在中何かと面倒を見ていただいた従兄弟の康彰さんありがとう御座いました。
沖縄から帰った後、妹の結華に手紙を書きました。同じように、ここまで来た経過と現在の私の紹介、判り易いようにテレビで放映された私の番組などを送りました。
5月のゴールデンウィークに3人の子供を連れて私の家に遣って来てくれました。私の家族と妹の家族が揃って。彼女が生まれて一週間位の時、親父が亡くなっている。昔のポックリ病、今で言うところの心筋梗塞ではないか?と思う。彼女も父親の感触が無く、ただ、40年間財布に親父の写真を入れているそうだ。
従兄弟の康彰さんから聞いた時は「何のことやら、何を言っているのやら判らずパニック状態になった」そうだ。しかし、会って見たいという気持ちもあり、恐る恐る今回の対面になったのだ。彼女が40年間大事に持っていた父親の写真と今回私が送ったビデオの私の顔がそっくりで涙が出て止まらなかったそうだ。
募る話もあり、その日は遅くまで二人で親父のこと空白になっているお互いの思いを埋めることに話しはつきなかった。なぜ、親父は家を出たのだろう?その一番の疑問も判ったような気がする。
これは彼女が持ってきた親父の子供の時の写真だが、これは私の長男クルムの顔にそっくり、血は連綿と繋がっているのだとつくづく思う。
これで「父を尋ねて3000里」は一応一区切り。また、続きは数年後に。
ここが親父たちが戦前に住んでいた番地に当たるところである。今は開発されてしまって昔の面影はまったく無いらしい。
今回の「男の旅」では思いもかけない出来事が持ち上がった。自分の腹違いの兄弟が見つかったのだ。私が1歳の時家を出てしまった親父は、それから数年後、他の女性と一緒に暮らし二人の子供を儲けたらしい。叔父様の家とその家族は親交があり、連絡を取っているという。そこへ振って湧いたような40年間連絡の無かった私が訪ねて来たのだ。その「結華」という妹に連絡しようか?と言う。 「ちょっと待って下さい。」「その人にも今の家庭があり、突然こんな話が舞い込んでくると どんな思いになるかわからないので、まず、康彰さんから連絡を取って頂き、「もし、彼女が会いたい。」と言ってくれたら、私の方からお手紙を書きます。」という事になった。
那覇市内で三日過ごし、私は始めての自分の親戚に会えて興奮気味。しかし、連れまわされる小学校5年生のシンラはつまらなくて仕方が無い。まー、これも無理もないか、メインは「親父と二人で旅をする」ということなので、那覇を出てからはシンラがナビゲーターになり水族館に行ったり、観光地を回りリゾートホテルで2泊して沖縄旅行を終えた。今回は私の気持ちばかりが先走ってしまい、当の本人シンラの気持ちを考えることが出来ず、少し反省。
叔父様から電話連絡を受けてから2ヵ月後、ようやく次男シンラと二人で「男の旅」を決行した。まだあどけなさが残る5年生。
2月だというのに沖縄に着いたら半袖でも良い位暖かかった。空港についてレンタカーを借り、那覇市内へ。沖縄には鉄道が無いため移動はもっぱら車になる。ホテルに荷物を置いて早速、市内を散策。色鮮やかな看板が同じ日本とは思えない雰囲気だ。夕方になってホテルに来て下さったのは康政叔父さんの息子、私からみると従兄弟になる「高江洲康彰」さん。ついに辿りついた私の肉親だ。
病気で入院されている叔父さんの所に案内された。年はもう90歳だが全然ボケたところも無く父親の若かった頃の話や私のお爺さんの事など、どんな所で育って、子供の頃の親父はどんなだったのか?他の親戚の方の事、などなど話は尽きない。ありがたいことだ。今まで空白であった自分の片方のルーツが繋がった。
あまり、長時間の面会も出来ないので病院を出た後、叔 母様に御挨拶するため家に向かった。今回、休みを取って沖縄を案内してくれた従兄弟の康彰さんと叔母様。
翌日、もう一度病院の叔父様にお話を聞かせてもらい、那覇市内の観光をした。その時、康彰さんが「結華ちゃんに連絡取った?」と言う。「エッ、誰ですか?」「妹の結華ちゃんだよ」「???」 実はこの時判ったのだが、私に腹違いの兄弟がいることが判った。
つづく
「あなたの叔父さんを知っている人が見つかりました」早速、教えて頂いた連絡先に電話をしてみた。「もしもし、新田さんですか?」「わしゃー、耳が聞こえんで息子に代わるわー」「いえー、おじいちゃんに聞きたいことがあるんですが?」 暫くすると息子さんが出られた。息子さんにここまでのいきさつを話し、通訳していただき、後ほど返事を貰うことになった。もどかしいが御高齢のため仕方が無い。
10分後電話があり「高江洲康有さんはもう亡くなってます。」 「あー、やっぱりそうか」残念であるが仕方が無い、ここまで判っただけでも儲け物。「しかし、康有さんの弟になら連絡が取れますよ」「えっ!本当ですか?」私にとっては「康有さん」でも下の叔父さんになる「康政さん」でもどちらでも良かったのだ。たまたま手がかりがあったのが「上の叔父さんが高校野球の監督をしていた」という事だったのだから。
ついに、自分のルーツにたどり着いて来た。下の叔父さんの連絡先を教えていただき丁重にお礼を言って電話を切った。
12月になって初めて高江洲康政さんにお電話をした。「突然の電話でびっくりするかも知れませんが、私は40年前に亡くなったあなたの弟、「康吉」の息子です。」「エッ!」暫く絶句‥‥。突然のことで会話がつながらない。最近は人を騙す「オレオレ詐欺」みたいなことがはやっているため、改めてお手紙を書くことにした。
これまでの経緯と安心していただくため現在の私のプロフィール、そして1枚だけ残っていた私が生まれた時の家族写真を同封した。この写真が証拠となるため。自分の弟の写真だから。
数日後、康政さんからお電話を頂いた。
「是非、沖縄に遊びに来なさい」 つづく
那覇高校の校長さんに手紙を書いた。こういうことは早急に電話で問い合わせるより、文面にして相手の方にもゆっくり判断していただいた方が良いと思ったからだ。我家のルーツ探しを兼ねて子供と「男の旅」をする趣旨などを書いた。
その結果、高江洲康有さんは沖縄水産高校出身という事が判り、また同じように今度は沖縄水産高校の校長さんに手紙を出した。数日後、校長先生よりお電話を頂き、「たまたま今年沖縄水産高校100周年の大合同同窓会をするそうだ。今の所,高江洲康有さんのお名前は名簿に無いのだが、同窓会に当時の方もお見えになると思うので聞いてみましょう」と言って頂いた。
もう亡くなっているかも知れない?年からいくともう90歳以上になるのでそれはそれで仕方がないかな?と思っていた。
11月になり、また、校長さんからお電話があり「あなたの叔父さんを知っている人が見つかりました。」 つづく
我が家では子供が10歳になった時、親父と二人で「男の旅」と題して1週間ほど親父と二人で旅をすることにしている。長男クルムの時は、「私が18歳の時に放浪していた後」を辿って、北海道を旅した。3年後の次男シンラの時には、どこに旅をしようか?と考えた時、何か目的がある旅がしたい!何処へいこうか?「そうだ。我家のルーツを探す旅をしよう!」という事になった。
実は、自分の父親のことをほとんど知らない。私が1歳の時に家を出たまま会った事が無い。10才の時に亡くなったと言う通知だけを聞いた。しかし、見たことも無い人が亡くなったというだけで、悲しくもなかった。ところが、私自身が50歳にもなってくると「いったい自分のルーツは何処だろう?」「私は誰なのだろう?」そんな気持ちが持ち上がって来たのだ。
丁度息子との「男の旅」で我家のルーツ探しをすることにした。
2005年8月から準備を始める。手がかりは二つだけ。父親の兄弟(私の叔父さん)二人のお名前と上のお兄さんが高校野球の監督をしていたということだけであった。母親もあまり良い思い出は無い様でほとんど父親の事を聞いた事が無い。私の父親は沖縄出身、名前は高江康吉というが、父親の本名は「高江洲康吉」。徴兵で軍隊に取られてから本土に渡り、終戦後は沖縄に帰っていない。当時はまだ沖縄に対する差別もあったようで、終戦後のバタバタの中で高江に変名していたようだ。
まず、残された手掛りである叔父さんの消息を探すことから始まった。
高校野球の監督をしていたという高江洲康有さん。数少ない沖縄の知り合いに事情を話し聞いてみると「当時有名な高校野球の学校は那覇高校か首里高校だろう」と。今は個人情報がうるさいので、突然私が高校に問い合わせてもなかなか教えてくれないようである。そこでNHKに勤めている知り合いにお願いした。NHKの信用力を使って高校に問い合わせて貰った。運の良い事に最初の問合せ先である那覇高校で当たった。「ビンゴ」。「昭和26年、27年に高江洲康有さんという方が監督をしていた」と判った。 つづく